君の言葉で愛してくれよ
飯田太朗
第1話 最後の、デート。
下着がきつくなった。
さく姉が言ってたことは本当だったんだな。「二二過ぎても成長する」
まぁ、最悪仕事帰りに買えばいい。
そう思って窮屈だが我慢して下着をつける。
でも服は……。と、姿見の前に立つ。仕事着用のブラウス。
胸のところがパツパツ。ボタン弾けそうじゃん。おかしいな。下着で矯正してるのに。
仕方なく、他の服。Aライン。今度は太って見える。
むう。
すみ姉の言葉が蘇る。
「こんな体型だと似合う服がなくてね」
我が家の女の宿命か。
まぁでも、ボタンが飛んでしまうよりは。
そう思って多少太って見えるがAラインの服に決める。腰か胸下あたりを縛ればいけるかな。そう思ってベルトで締めてみる。
うーん。細くは見えるけど胸が強調されて逆にいやらしいような……。
悩ましい。
とにかく、だ。
服を買おう。ちょうど春だし。そろそろ冬服を替える季節だ。
そんなことを思っていると拓也から連絡が来た。
〈今度、ショッピングしない?〉
嬉しい。素直に。だって何だか、通じ合ってるみたい。
でも私は、捻くれているからこう返す。
〈何か欲しいものでもあるの?〉
〈ううん。君に会いたくて〉
頬が熱を持つ。付き合ってそろそろ九年。長い。私、男は拓也しか知らない。
付き合い始めた頃に宣言してくれた通り、拓也はずっと私を愛し続けてくれている。すごく嬉しい。会えば「かわいいね」と言ってくれるし、手を握ってくれたりハグをしてくれたりするし、誕生日や記念日には、花をくれる。そういうところも全部、大好き。
〈週末、どう?〉
すぐに返す。
〈行く〉
今週末は拓也とデートだ。それだけで、気持ちが明るくなる。仕事もこなしてやろうという気になる。
大学院を卒業した私はちょっと有名な自動車会社のタイヤ製造部門に入社した。開発研究課で、滑りにくくてブレーキの利きがいいタイヤの開発をしている。職場に女性は私を含め二人。課に社員は二五人。まぁ、ナメられる。
酒の席には行かないことにしている。おっさんどもは平気でセクハラしてくる。たちが悪いのは向こうに悪気がないこと。もはや異文化なのだ。交流すると傷つくから、行かないことにしている。自衛。
出社すると白衣を着る。だから極論、服なんてどうでもいい。何なら化粧もしなかったところで男たちは気づかないだろう。だが、綺麗にしておくことは拓也への愛情に繋がる。彼のためにもいい女でいたい。そう思う。
「本日付で配属になりました。二上です。よろしくお願いします」
ある日。
中途採用で男性が入ってきた。二六人目。パッと見た感じ、イケメン。髪型や服装にも気を遣っている感じ。この業界の男にしては珍しい。別に課の男どもがセンスないと言っているわけではないが、それでもこの二上とかいう男のセンスは高い方だろう。
「二上さん、かっこよくない?」
同じ課の、私以外の唯一の女性。井上由香が私に耳打ちしてきた。
「狙っちゃおうかな」
「いいじゃん」
由香はかわいい。男受けする。いつもにこにこ。スタイルだっていい。男性の転がし方を分かっているのか、彼女の周りにはいつも男が集まる。
一応私の名誉のために言っておくと、私の周りにも昔は男が集まってきた。でもどいつもこいつも大概私の胸を覗くのでつっけんどんな態度を取っていたらだんだん離れた。楽。私には、拓也がいればいいし。
「歓迎会だね。行く?」
由香に訊かれて私は答える。
「行かない。関わりありそうにないし」
実際、開発課の仕事は個人プレイ。各々の実験過程でデータを記録して次の人に渡す。そういう意味ではチームプレイかもしれないけど、データをとってコンピューターに入力する作業は一人でやるものだ。
私の担当は「表面に起毛措置を施した場合の摩擦係数の測定」ま、平たく言えばタイヤの表面に毛状の突起をつけたらどれくらいブレーキが利くようになりますか、という実験だ。この手の研究は既にしつくされているので、基本的には先行研究の改良や、技能の置き換え。やりがいという点では欠けるが、楽な仕事。これで給料がもらえるならいい。
「口説かれたらどうしようー」
呑気なことを言う由香に私は笑いかける。
「抱かれちゃえば?」
さて。お仕事お仕事。
「あの、すみません」
中途採用の二上とかいうのに話しかけられたのは、拓也とのデートが翌日に迫った金曜日の、それも定時間際だった。
「ここの数値が異常値だと思うんですけど……」
二上さんは私の後の工程の人だ。つまり、私が渡したデータをもとに研究をする人。私は二上さんが示したデータを見る。
あ。やばい。
ひと目で異常値だと分かった。私のこの日の仕事は新製品のタイヤの理論上の摩擦力をコンピューターに演算させること。プログラミングで処理する。コンピューターに「想像上のタイヤ」を作らせてどれくらいブレーキが利くかを調べる。
その「ブレーキの利き具合」の演算処理で異常値が出ていたのだ。何でこんな数値を出しちゃったんだろう、と考えて、思い至る。
拓也のこと考えてた……。
席が近いおじさんが、「息子が小説ばかり読んでいて勉強をしない」なんて話をしていたから、拓也のことを考えたのだ。拓也は文学部で国文学の研究をしている。偶然にも、死んだ母と一緒。
そんな拓也のことを思いながら数値入力処理のプログラムを組んだので間違いが起きたのだ。多分、だが、同じ数値を何十回も何百回も何千回も読み込んでいる。ループ処理を間違えたのだ。
やばい、どうしよう……。
これが木曜や水曜なら翌日に持ち越せばいい。でも金曜だ。月曜に持ち越すのもありっちゃありだが、開発課でデータをとって次の工程に渡すにも期限がある。できれば、持ち越したくない。
「ループ処理のミスですか」二上さんが私のパソコンの画面を見ながらつぶやく。「直しておきましょうか?」
「え?」私は驚く。「今からやったら時間が……」
「僕、大学は一度情報系に入っているので」
情報系の大学に入った人間が何でこんなガチガチの物理屋が来るような仕事に就いているのか分からなかった。首を傾げていると二上さんが笑う。
「大学二年の時に出会った物理学の先生に憧れて同じ大学の理学部に入り直したんです」
「あ、なるほど」
「ここの処理ですよね、おそらく」
画面を指差す。多分、だけど、そこ。調べてみないことには何とも言えないが。
「やっておきますよ」
「え、でも……」
「新人なんで」二上さんは笑顔を見せる。「何でもやらせておいてください」
しかしこれを任せたら二上さんは間違いなく残業だ。それも私のミスで。
何かムカつく。
「私もやります」
二上さんがおや、という顔をする。
「私のミスですし。それに二人でやった方が早いし」
二上さんは笑う。よく笑う人だな。
「じゃあ、お願いします」
そんなわけで、残業。終わったのは二一時半だった。
帰宅したのは二二時半。父は寝ていた。家には誰もいない。
さく姉は、六年前に結婚して家を出た。今は息子と娘二人の世話に追われている。
すみ姉は四年前に結婚。現在妊娠中。たまに帰ってくるけど、旦那さんが好きなのと面倒見のいい旦那さんであることが幸いして、ほとんど夫婦でいることが多い。
テーブル。ラップのかかったご飯が置いてある。
餃子。何でも、母方のおじいちゃん直伝の餃子らしい。
「おつかれ」
ラップの上に、付箋。父が書いてくれたのだ。何だか温かい気持ちになれた。
さて、週末。デート。郊外のアウトレットモールに行く。
新しい服と、鞄を買っていい気分だった。拓也は書店で気になっていたという作家の小説を買う。二人で手を繋ぎながら、カフェに入った。
新作とかいう抹茶アイスを食べる。春にアイス。ちょっと変わったカフェだ。
マカダミアナッツの粉末がかかっていて香ばしい。拓也と食べる。
「何?」
拓也の視線を感じて、私は訊ねる。
「ううん」
拓也は首を振る。
少しの沈黙。でもその間も、拓也の視線は私に注がれていた。
いつもより見てくるな。何か変だろうか。
服装を見る。薄手のニット。結構気に入っているのだけれど、やっぱり太って見えるかな……。それか胸が強調されていやらしく見えるか。後は下着を変えたくらいだけど、拓也からは見えないしな。
「アイスが早く溶けそうだね」
唐突に、拓也がそうつぶやく。私は答える。
「買ったばかりだよ」
「そうだけどさ」
意味が分からない。今日の気温なら、溶けるまでもう少し時間がかかる。
「……帰りたい?」
何となく、拓也が急かしているような雰囲気を感じ取ったのでそう訊ねてみる。拓也は首を横に振る。
「ううん」
ますます分からない。
結局その言葉の真意は分からないまま、デートを続けた。ディナー。イタリアンレストランでパスタとピザ。それからワイン。
拓也はお酒に弱い。正確には、私に比べて弱い。同じペースで同じ量を飲むと拓也の方が先に潰れる。だから、拓也に忠告する。
「私に合わせる必要ないからね」
すると拓也が笑う。
「酔わなきゃ見つめられないよ」
どういう意味?
私は首を傾げる。酔ってでもいないと私なんか見ていられないってこと? 九年も付き合ってるからいい加減飽きた? 結構失礼なこと……。
「パスタ、美味しいよ」
拓也が小皿に分けてくれる。
「う、うん……」
確かにパスタは美味しい。ピザも。この店は拓也が見つけてきた。
でもそういえば、拓也って結構いい加減というか、デートの時もその場任せなことが多い。その拓也が、前以て店を調べてきてくれている。
違和感。
それに拓也の言葉が胸に引っかかる。
さっきのアイスといい、今のワインといい。
何が言いたいんだろう。
結局その言葉の真意は分からないまま、その日のデートは終わった。
それからである。
拓也となかなか、デートができなくなったのは。
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