大正乙女は仲間がほしい

アナマチア

直観


 時は大正。


 第一次世界大戦の終戦を期に、都市・大衆文化が花開いた華やかな時代。


 その頃おいに、高等女学校に通う、ひとりの美しい令嬢がいた。


 令嬢の名前は、花ヶ前はながさき 椿子ちこ


 楚々とした容貌を持ち、束髪くずしに椿柄の大きなリボンをつけた、花も恥らう乙女である。


 学校指定の濃紺のセーラー服を身にまとい、紅色べにいろのスカーフをなびかせて、しずしずと歩くたおやかな姿は、まるで風に揺れる百合のようであった。


 しかし、老若男女ろうにゃくなんにょ問わず魅了される椿子のかんばせは、どこか浮かない表情をしていた。


「はぁ……」


 桜色をした形の良い小さな唇から吐き出されたため息は、朝の澄んだ空気の中に消えていく。


 女学校のマドンナである椿子の、一挙手一投足をうかがっていた女生徒たちは、そのあでやかな姿にことごとくほほを染めた。


「――まあ、先程の椿子さまを見まして?」


「ええ。うれい顔でため息をくお姿の婉美えんびなこと……」


「ああ、本当になんて素敵なお方なのかしら」


「それにしても、椿子さまののご様子。……恋わずらいでもなさっているのかしら?」


「まあ! 椿子さまに恋い慕われるだなんて……! お相手の殿方は果報者ですわね」


「ええ、本当に。……だとしても、彼の椿子さまにあのような切ないお顔をさせるだなんて、いったいどのような殿方なのでしょうか……」


「……気になりますわね」


 などという憶測が飛び交っていることなどつゆ知らず。


 噂の佳人ちこを悩ませているのは、彼女たちが考えているような、純情の大和撫子よろしく乙女チックなものではなかった。


 令嬢の中の令嬢と称賛しょうさんされる椿子。


 女学校の全女生徒たちの憧れの存在である椿子。


 そんな完璧令嬢の心を占める目下の悩み事。それは――




(ああっ! 腐女子仲間が欲しいっ……!)


 という、BLビーエルをこよなく愛し、憧れ萌える、大正乙女ふじょし――花ヶ前 椿子の切実なる願いだった。



※※※



 華やかな大正時代に、公家華族くげかぞくの伯爵家令嬢として生まれた椿子には、秘密の趣味があった。


 それは、『男性同士の恋愛について妄想すること』である。


 はてさて、何をきっかけにしてBL好きになったのか、その理由はわからない。


 物心がついた頃には、周りの男性たちでカップリングを妄想し、成長するにつれて『攻め』と『受け』を分類し、あやうく萌え死にそうになり――


 そうこうするうちに椿子は、どこに出しても恥ずかしくない、立派な腐女子に相成ったのである。


 そんな大正乙女である椿子には、長年の間、渇望しているものがあった。


 公家華族の伯爵家令嬢として生まれ、類まれなる容姿を持ち、財力に富み、望むものはなんでも手に入れることができる椿子が、喉から手が出るほど欲しいもの。それは――


 腐女子仲間、である。



※※※



 某所にある、とある洋館の一室。


 ぜいらしつつも、落ち着いた内装にしつらえられた、見るからに、若い女性のために作られた空間。


 その中でも一際ひときわ目立つ、床から天井まで伸びる白枠の窓辺に、 この部屋の主である椿子ちこはいた。


 柔らかく降り注ぐ陽光の下。


 窓にもたれるようにして外を見つめる姿は、さながら想い人を恋い焦がれて待ち続ける、純粋かつ無垢な――まさしく深窓の令嬢そのものだった。


 しかし、BLを心から愛する椿子は、眼下に広がる風景を楽しんでいるわけではない。


 南向きの日当たりのよい二階の自室からは、美しく整えられた庭園が見下ろせるのだが、椿子の目的は、朝露に濡れた庭を眺めることではなく別にある。


 庭木の水やりを務めるのは、ここ最近の椿子の推し、花ヶ前はながさき家の書生――いつきなのだ。


 樹が現れるのを、今か今かと待ちわびていた椿子は、小倉袴が視界に入ってきた瞬間、勢いよく窓ガラスに張り付いた。


 まるで、窓ガラスに貼り付くヤモリのような姿は、椿子を崇拝する信者たちが目にしたならば、阿鼻叫喚の騒ぎになるに違いなかった。


 今日も今日とてブレない椿子は、二重まぶたの大きな目をさらに見開いて、樹を注視しながら、もうひとりの人物を待った。


 そわそわしながら待ちわびていると、ようやく椿子とよく似た容貌の美青年――兄の梗一郎こういちろうが姿を現した。


「ああもう! お兄様ったら、来るのが遅いですわ!」


 ぷりぷりと愚痴をこぼしながらもその口許くちもとは、にやにやと緩みまくっていた。


 大日本帝国陸軍中尉の肩書を持つ梗一郎は、国防色の軍服を瀟洒しょうしゃに着こなし、真っ直ぐ樹へ近づいて行く。


 梗一郎に気がついたいつきは、年齢よりも幼く見える顔をほころばせて、嬉しそうにふわりと笑った。


 梗一郎は椿子に背を向けていたため、残念ながらその表情は分からない。


 しかし、二人の間に漂う雰囲気は親しげなもので、樹がときおり見せるはにかむような笑顔は、妄想力をかき立てるのに充分な威力がある。


「普段は利発な樹さんがお兄様だけに見せる安心しきった表情。そして、そんな樹さんを愛おしそうに見つめるお兄様。かたや書生、かたや将校……身分差ゆえにそして同性同士ゆえに決して結ばれることのないお二人。けれどもその背徳感がお二人の仲を深める最高の燃料スパイスとなり、熱く燃え上がった恋は大きな炎となってお二人の身を焦がすのだわ……!」


 鼻息荒く身悶えながら妄想を吐き出した椿子は、高鳴る鼓動を抑えるように胸を押さえ、ほぅと熱い息をこぼした。


 それからまた窓にかじりつき、ただ凝然ぎょうぜんとして、彼らの姿に見入った。


 当然のことながら、二人の声は届かず、読唇術の心得もないので、会話の内容は分からない。


 しかしそれで構わない。


 会話の内容は妄想すればいいだけの話であるし、二人が並んでいるだけで滾る腐女子ヲタク魂。


 尊い二人のおかげで、一日を生き抜くための活力エネルギーを得ることができ、大満足である。


「はぁ、良いわ、素晴らしい、wonderful、excellent、amazing……」


 無駄に英語の発音が良いのはご愛嬌。


 腐ってもたい


 腐っても公家華族の伯爵家令嬢である。


 そうしてしばらくの間、ほほを上気させながら悦に浸っていた椿子は、興奮冷めやらぬまま、ポツリと小さくつぶやいた。


「ひとりで妄想するのも楽しいのだけれど……。やっぱり、この萌えを共有できるお相手が欲しいですわね……」


 白く透き通った手をほほに当てて、興奮で潤んだ黒曜石のような瞳を、ついと向けたその先に――彼女はいた。



※※※



 新人女中のはなは困惑していた。


 花ヶ前はながさき家に雇われてからほんの二か月。


 このお屋敷で任された仕事は、炊事・洗濯・掃除などで、田舎から出稼ぎにやってきた花が、深窓の令嬢である椿子に呼び出される理由など思いあたらない。


(……わたし、知らないうちに、何かしでかしちゃったのかなぁ……)


 そのように不安な気持ちを抱えたまま、恐る恐る、椿子の部屋の扉をノックした。


「……お嬢様、女中の花でございます」


「お入りなさい」


 震えるか細い声に返ってきたのは、想像していたよりもずっと優しげで柔らかな声だった。


 叱責されるわけではなさそうだと胸をなで下ろした花は、「失礼いたします」と重厚な扉を開けた。


「お待ちしておりましたわ、花さん」


 そう言って優雅にほほ笑んだ椿子に、花は思わず見惚みとれてしまった。


 遠目に尊い姿を見たことはあったが、初めて間近で見る椿子は天女のように美しく、それでいて少女らしさが垣間見える可憐な美少女だった。


 だからこそ不思議でならない。


(下っ端女中のわたしに、なんのご用があるんだろう?)


 そんな疑問をいだきつつ、それを表情には出さずに、椿子の言葉を待つ。


 洗練された仕草で紅茶をひとくち飲んだ椿子は、ティーカップをソーサーに置くと、居住まいを正した。


「……花さん、わたくし、遠回しな言い方は嫌いですの。ですから単刀直入にお聞きしますわね」


「……っ、はい」


 花の喉がごくりと鳴る。


「花さん、あなた……殿方同士の恋愛に興味がありまして?」


「――は?」


 突然、物凄い質問をされた花は、つい素の声をこぼしてしまい、慌てて口許を押さえた。


「しっ、失礼いたしましたっ……!」


「あら、そんなに恐縮なさらなくってもよろしいのよ。ただ、わたくしの質問に答えていただけたらそれでいいの」


 にっこりとほほ笑みを浮かべた椿子に、花はキョドキョドと視線をさまよわせたあと、覚悟を決めたように声を絞りだした。


「わ、わたしは……殿方同士の恋愛について妄想するのが……その、す、好き……ですぅ……!」


 最後の方はやけくそ気味である。


 婦女子らしからぬ趣味がバレてしまったいま、花は、死刑判決を下される囚人のような心持ちで、椿子の反応を待った。


 しかし、返ってきた反応は、花の予想を大きく裏切るものであった。


 きゃあ、と黄色い歓声が上がり、声を出して驚く間もなく、花の両手は白く柔らかな椿子の手に包まれていたのである。


「やっぱり、やっぱりそうでしたのね……! ああ、わたくしの直観は間違っていなかったわ!」


「えっ」


「生垣のかげに隠れてお兄様方を見つめるあなたを見つけた時に、ピーン! っときましたの!」


「ええっ」


「あなたこそ、わたくしが求めていたお相手であると……!」


「ええええっ!?」


 目を白黒とさせる花を置いてきぼりにして、椿子は仲間を見つけた喜びに思いの丈を語り続けた。


 そうして最後、令嬢らしからぬ声量で、花に質問を投げかけた。


「ねえ、花さん! あなた、樹さんとお兄様……どちらが受けと攻めだと思っていらっしゃるの!?」


 わざわざ質問をしておきながら、椿子は確信していた。


 自分の直観は外れない、と――……。


 花はというと、指先をもじもじと絡めたあと、顔を真っ赤に染めて口を開いた。


「……い、樹さまが『攻め』で、梗一郎さまが、その……う、『受け』です……!」


「きたきたきた、きたわー!!」


 天井に向かって拳をかかげた椿子は思った。


 ひとの直観の命中率は九割を超えるという話は真実なのだと――。


 こうして、腐女子仲間を得た椿子の日常は、以前よりももっと楽しく輝かしいものになったのであった。



 こののち、花に『なぜ、腐女子だとわかったのか』と尋ねられた椿子は、こう言った。


「なんとなく、ですわ」


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