愛するもの 愛されざるもの
つるよしの
A loved one. Those who are not loved.
またひとつ、戦が終わった。
俺は、小高い丘の上に立ち、戦の後の、朝の平原を見渡す。斃れた兵士の死肉を漁る鴉の鳴き声、あちこちから未だ立ち上る血と硝煙の匂い。飽きるほどの戦いを重ねてきた俺には、どれもが見慣れた光景であり、たいした感慨は生じない。ただ、また生き残ってしまった、という些か苦い想いの他には。
「埒もない……」
俺は自分のそんな感情を自嘲するかのように、思わず、独りごちた。本当にそう望むのなら、簡単なことだ。さっさと戦場で敵の手にかかってしまえば良い。実際、戦の最中に幾度もそう思った。あぁ、今なら死ねる、と。だが、俺は結局、命惜しさに敵の刃を自らのそれで撥ねのけてしまう。
君に逢いたい気持ちは、生を重ねる毎に強くなるばかりだというのに。
「エーベルト准将、エーベルト准将……!」
朝霧の靄の中から、俺を探す声がする。俺は
「ヴィルヘルム。何か用か?」
「兄君がお呼びでございます」
「兄上が?」
俺は思わず眉を顰める。だが、それ以上感情を顔には出さず、俺は黙って、兄のルートヴィクの元へと軍靴の先を向けた。
天幕の中に入ると、兄の大きな声がした。その声は些か耳障りなほどに甲高い。上機嫌であるときの、兄の癖だ。珍しいことだ、俺の前で。
「ゲオルグ、このたびの働き、見事であった。そなたの率いる歩兵隊は誠によい戦いぶりを見せてくれた。我が軍の勝利も、その効によること大きい」
「めっそうもございません、兄上」
俺は跪きながら、自らを謙遜してみせる。すると兄は大きく手を、ぱん、と叩いた。それを合図に天幕の中に連れてこられたのは、占領した村から集めた女たちだった。一堂にうなだれ、青白い顔つきで、これからの自らの運命に、ただ怯えるしかない女たちの群れだ。それを見て兄は満足そうに頷くと、俺に声高に告げた。
「褒美に、虜囚たちのなかから、好きな女を、ひとり選ぶがよい」
俺はすばやく、一列に並ばされた女どもに目を走らせる。そして目星を付けた女を指さした。
「あの女が欲しゅうございます」
俺の指が示したのは、うら若く肉付きもほどよい、艶やかな亜麻色の髪の娘だった。兄は一瞬顔をしかめた。だが、ただ、短くこう言った。
「よかろう」
瞳に深い憂い色を秘めた娘は、兄のその声に、ぶるっ、と、ただ身を震わせた。
俺は自分の天幕に、娘を連れて戻ると、すぐにその身を寝台に押し倒し、粗末な服を剥ぎ取った。するとそのとき、それまでただ黙りこくっていた娘が、小さく震える声で俺に問うた。
「……私以外の囚われた者は、どうなるのでしょうか」
その質問に、俺は無言を貫いた。すると少女は全てを察して、青ざめた唇で呟いた。
「殺されるのですね……」
「そうだ」
「どうして、私を、選んで下さったのですか?」
「直観だ……他にこれといった理由は無い」
俺はそう言い放つと、それ以上の質問をさせぬべく、自分のそれで唇を荒々しく塞いだ。観念したかのように、娘の身体から力が抜ける。その日、俺は飽きるまで、その肢体を繰り返し、繰り返し、貪るように抱いた。
それから数年が経った。
戦も講和の儀と相成り、俺は戦場から身を退き、領内にある自分の館で政務に勤しむ日々を過ごしていた。戦場から連れて帰ってきた虜囚の娘……いや、ローザも、俺の
そしていつの間にか、思わぬことだが、正妻を持たぬ俺にとって、その存在は、無くてはならぬものとなっている。ローザが俺に、そして俺がローザに注ぐ愛情は、自らの過去の悔恨を、生き残ってしまったという感傷を、少しずつだが俺から忘れさせるに足りるものであった。
そう、俺はいつしか、自らの生を確かめ、肯定することを、ローザに触れることで確かめるようになっていたのだ。
兄が俺の館を訪れたのは、そんな長閑なある夏の終わりだった。
応接間のソファーに座りながら、兄は窓の向こうの庭を見やった。その目線の先では、ローザが薔薇の世話に勤しんでいる。
「やはり、お前の目に狂いはないな。美しい女になった」
ローザのことに言が及んで、びくり、とする俺を見て、兄は人の悪い笑みを顔に浮かべた。そして兄は、俺が予想していた通りのことを口にした。
「改めて、お前に頼みがある。あの女を俺に譲ってはくれないか」
「……それは、お断りいたします……あの娘は、すでに私の女でございます」
「そう言うと思ったさ」
兄は瞬時に言をそう返すと、俺の顔を覗き込み、一語一語、噛み含めるように言ってのけた。
「俺は見逃さなかったぞ。あの時、お前があの娘を選んだ時の目を。女どもを一瞥したときの、眼光の鋭さを」
窓から注ぐ午後の陽が眩しい。その光の中で、兄は目を細めながら俺に言を継ぐ。
「お前がそれとなく、わざと俺好みの女を選んで自分のものにしたことを、俺が分からないとでも思ったか」
俺は反論もせず、ただ無言で兄から視線を背けた。兄の言っていることは、全くの事実だったからだ。そんな俺を見て、兄は目を怪しく光らせつつ、言う。
「お前はなにかと、俺の癇にさわることをしでかすな」
そして、兄は急に語気を荒くし、俺に言い放った。
「そんなに、エリスが忘れられないか! そんなに、エリスを奪った俺が憎いか!」
「……お分かりではないですか、兄上」
俺は数秒の沈黙の後、やっとそれだけを返した。そのかつての想い人の名を呼ばれた途端、忘れかけていた面影が胸に広がり、俺の胸は苦しくなる。
「あの女は勝手に自ら死を選んだのだ。俺のせいではない!」
兄のその言に、俺の中で、十数年の月日を超えた激情がはじけ飛ぶ。俺は叫んだ。
「エリスは私の手から奪い去られたことを嘆いて、自ら命を絶ったのです! 兄上が無理に私の恋人だった彼女を、側室にすることさえしなければ、あんなことにはならなかった……!」
……確執が冷たい沈黙となり、俺たち兄弟の間を支配する。荒い息を弾ませる俺に向かって、やがて、兄は淡々と俺に問いかけた。
「それはもう過ぎたことだ。……で、あの娘を渡すのか? 渡さないのか? どっちだ、ゲオルグ?」
「お断り……いたします」
「そうか……、ならば、今日はこれで辞する。だが、よく考えておけよ。俺の力を持ってすれば、お前の命ひとつ奪うことくらい、わけないことなのだからな」
兄はそう言い捨てると、ソファーから立ち上り応接間の扉を乱暴に開け、出て行った。
……いや、出て行こうとした。だが、それはかなわなかった。なぜなら、扉のすぐ外には、ローザが立っていた。その手には庭仕事で使う鋏が握られている。そして、ローザは、突然のことに直立不動になった兄の喉元に、その鋏の刃を、ゆっくりと、近づけた。
「私……嫌です……! ゲオルグ様の元を離れるなど! そのくらいなら、そのくらいなら……!」
「ローザ……! やめろ!」
俺は扉に歩み寄り、一歩一歩と、震えながら鋏をかざすローザの元に歩み寄った。そして未だ動けぬ兄の身体越しに、彼女の腕をぐっと掴む。すると鋏は、するりとローザの手から離れ、カターン、と音を立てて大理石の床に転がった。
「まただ、また、お前に俺は負けたのか……」
やがて兄は喉元から、絞り出すように言葉を放った。思いもよらず、それは、それまでの尊大な兄からは聞いたことのない、小さく弱々しい声音だった。
「ゲオルグ、お前に愛されざる者の悔しさが分かるか? エリスのことを、俺が愛していなかったとでも? 俺は持てる全ての愛情を注いで、彼女のことを慈しもうと試みたのだぞ。俺は……心底、彼女に惚れていたのだぞ……なのに、俺を拒み、彼女は死んだ。お前への愛に俺は、負けたんだ」
「兄上……」
「幼い頃から、俺がお前に敵うものは、兄としての権力しかない。だから、いつもそれをもってお前に相対するしかないんだ……だが、当たり前だが、そんな俺を愛する者はいない……。権力を持って、愛を奪い取ろうとしても、また、今回のように拒まれる……今度こそ、今度こそと、愛を得ようとしても、拒まれる……」
呆然とする俺とローザの前を、よたよたと横切りながら、兄は廊下にその身を滑り出す。そして、俺に背を向けたまま、語を爆ぜさせた。
「だから、俺はお前が憎くて仕方ないんだ……!」
兄が門から出、馬車で去って行くのを窓越しに見ながら俺は思った。俺は小さい頃から兄に憎まれているとは感じていた。エリスを奪われた時もそうだ。だが、ついぞ憎まれている理由が分からなかったのだ。今日の兄の独白を聞くまでは。
「愛されざるものの、孤独。愛するものを奪われる、孤独。いったいどちらが深く昏いものなのか……」
知らず知らずのうちに、俺の口からそんな言葉が零れた。その背に、ローザがそっと寄り添ってきて、俺は思わず彼女の手を握る。
「ゲオルグ様……」
「ローザ、俺にお前を引渡してくれた兄上には、感謝せねばならぬな……」
それが兄に対するさらなる皮肉にしかならなくとも、とは、分かってはいたが。
……晩夏の陽が暮れる。秋を予感させる涼しい風が、開け放したままの扉からすうっ、と舞い込んで俺たちを包み込む。得も知れぬ矛盾に淀む俺の心を、さらに惑わせるかのように。
愛するもの 愛されざるもの つるよしの @tsuru_yoshino
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