王子と王女の朝

蜜柑桜

王都城下、初春

 地平線を茜色に滲ませる朝の日が、影に覆われていた城下を徐々に照らし出す。町の中央近くに立つ王城に及んだ光は石の壁を上り、美しい尖塔の姿を町の中に浮かび上がらせる。

 とある上層部の窓に行き着いた朝日は、硝子を覆う布を透かして室内へ入り込むと、濃い茶色の床板を端から染め上げ、少しずつ部屋の中に浸食した。それは隅に置かれた寝台に辿り着き、柔らかな布団を、そしてそこに眠る娘の顔を暖かく撫でる。


「ん……」


 不意に訪れた眩さを感じ、娘は身じろぎし、数回、瞼を瞬かせた。美しい紅葉色の瞳がしばらく眠そうに布団をぼんやり見ていたが、すぐに目をぱっちりと開く。

 すると、娘は突如弾みをつけて身を起こし、その動きから続けて寝台を飛び降りる。寝巻きを脱ぎながら衣装棚に近づき、引き出しの奥から灰色の服を引きずり出す。下着を身につけ、膝下まである簡素な服を頭から被って腰紐を結ぶ。

 そうっと部屋の扉を開ければ、まだ城の中はひっそりと静まりかえっている。少女は靴を手に持って廊下へと滑り出した。


 ***


 まだ当直の物見番や城門の門衛くらいしか起きていない朝の王城を抜け出すのは造作もないことだ。下女の服を着て誰にも気付かれずに城の中を階下まで移動できれば、通用門の脇からうまいこと外に出られる経路を作ってある。娘は今日もそれを使うと、身も軽く城下への道へ躍り出た。

 段々と春に変わってきた朝の空気。厳冬のように頬を打つ冷たさは和らいだが、まだ冷んやりと夜の名残を肌に伝える。

 だが顔を冷やす風とは裏腹に、娘の身体はどんどん温かになってくる。

 城から出て最も大きい通りを横切れば城下中央。そこに立つ美しい時計台を横目に市場を抜け、娘は走った。しばらくそのまま直進すれば、前方にきらきらといくつもの珠が輝いているのが見える。川面だ。珠は色を変え、大きさを変え、波に弾んで流れとなって動いていく。この国を南北に流れるシューザリエ大河。


「おはようございまーすっ」


 川の端に人影を見つけ、娘は走りながら大きく手を振った。声に気がついた婦人は、恰幅の良い身体をくるりとこちらに向ける。


「ああおはよう、早起きできたね。今日は水がいい塩梅で冷たいから、綺麗な色が出やすいよ」

「わぁ嬉しい! ねえ、本当にやらせてくださるの?」


 嬉々として叫ぶ娘に、婦人は眉を下げて困ったように笑う。


「王女様に市民の仕事を手伝わすなんて怒られちゃいそうだけど……」

「なに仰るの」


 娘、もといこのシレア国第一王女は、紅葉色の瞳を大きく開けて小首を傾げた。


「私がお願いしているのだもの。むしろ感謝しなきゃばちが当たるわ」

「じゃあそっち、売り物じゃなくてうちで使うやつをやってごらん。私がやるのと同じようにね」


 微塵の疑いもない娘の言いように婦人は目を細め、横に置いてある籠を指し示す。中にはいくつもの反物が重なり合っていた。その中の一枚を取り上げると、婦人は川の流れの中にそれを浸す。


「うわぁ」


 婦人が左右に手を揺らすのに合わせ、白い布が水の中を泳ぐ。するとそれは、見る間に鮮やかな薄紅色へと変わっていった。


「どうだい、目が覚めるような綺麗な色だろう?」

「本当、これが見られるならどんな早起きだって耐えられそうだわ」

「ふふ。じゃああんたさんもやってみなさい」


 婦人に促され、王女も細い帯布を手に取り流れに浸す。水中で広がった布は、流れにのって揺れながら、端から段々と色を変えていく。真白にごく薄い紫色を帯びたと思うと、次の時には柔らかな春の花を思わせる優しい淡い紅色に。王女は思わず見惚れて嘆息した。

 布を動かしていると、速い水の流れが素手に当たって通り過ぎていく。初春の川の水は刺すように冷たく、つい手を引っ込めそうになった。


「すごい冷たいのね。まだまだ春は遠いみたいに」

「でも真冬だと温度が低すぎるのさ。春露花で作った染料はね、春の朝のこの時間の水温じゃないとうまく色が出ないんだよ」


 ふと見ると、横で動かす婦人の手はあかぎれて目に痛々しい。しかし婦人はそれでも水の冷たさに耐えるような顔はせず、次々にたゆたう布を微笑んで見ていた。

 国の工芸品の一つである草花の染物。国外からも高く評価される美麗な品々は、こうして厳しい条件下で働く人々の手があって生まれているのだ。

 王女は布を握る指に力を入れ直し、婦人の手つきを真似ながら、朝日に煌めく水の下、自分の手の動きとともに生まれていく色彩を見つめる。一つに色がついたら、また次を。そしてまた次を。どれも同じ染料のはずなのに、仕上がる布は一つ一つ違う階調を持ち、布端から落ちる滴はそれぞれ唯一の色を持つ宝玉のよう。


「あっ」


 夢中で手を動かし、染め上がった布がある程度の高さに積み重なった頃、澄んだ音が空気の中に突き抜ける。時計台の鐘楼だ。


「ごめんなさい、私もう行かなきゃ」

「おや、もうこんな時間かい」

「ありがとう。今日の布の仕上げが終わったら、また見せてくださいね!」


 そうして布を婦人に渡し、王女は縛り上げた服の裾をほどいて駆け出した。背中に「今日は怒られないようにね」という声を聞き、顔だけ振り返って手を振る。


 木々の間を抜け、通りに戻り、市場を突っ切る。時計台の鐘の音は鳴り続け、ちらと見上げれば、文字盤に嵌った水晶のような宝玉が光を反射した。このシレア国でたった一つしかない時計。唯一時を伝える国の宝。その針がカチリと一つ動く。王女に「急げ」と伝えるように。

 大通りを渡り、王女はつま先でぐっと地を蹴って小路に飛び込んだ。狭い道を縫い、いくつもの角を迷いなく曲がっていく。よほど細かい地図でないとこの道は載っていないが、城に帰るには一番の早道だ。


 あと一つ曲がればもう城までは直進するだけ——その時、前方に見知った人影が飛び出した。


「おはようお兄様! お兄様も?」

「アウロラか。ああ、鍛冶屋の主人のところに。約束があってな」

「あら、昼じゃだめだったの?」

「公務の時間を削れないだろう」


 並んで走りながら兄が答える。脇には磨かれた剣を差していた。兄は端正な顔を正面に向けたまま、向かい風をも楽しむように笑う。


「それにあそこの主人は私が一人で行った方が喜ぶから」

「とか言って自分もそうしたいくせに」

「アウロラは騙せないな。そちらは川に?」

「ええ、秘密の約束があって」

「血は争えんな」


 二人で笑い合う。もう城は目前だ。衛士のいる門を傍目に塀沿いを走り、小木の間の木戸の鍵を開けて中に滑り入る。速度を緩めずそのまま使用人の通用口へ二人揃って駆け込んだ。


「お帰りなさいませ、姫様。そして今日は殿下までお二人ともお揃いとは。またしても抜け出しとはよろしくありませんね」


 ばたん、と扉を閉めた直後、息をつく間もなく冷ややかな声が石壁の間に響いた。顔を上げると、大臣が濃い眉をいささか寄せてこちらを見ている。どうやら、言い逃れはできそうにない。


 王女は横目で兄を見た。蘇芳色の王子の瞳が、王女の紅葉の瞳に無言で伝える。二人は一瞬、見つめ合うと、口元に笑みを浮かべ瞬きで合図をし、大臣に向き直った。


「おはよう大臣。川に行ってきたわ」


 大臣がぴくりと眉を上げる。


「昨日の雨で水量が増えたと心配していたけれど、今朝はもう流れも通常。問題ないわね」


 大臣は開きかけた口を止めた。そこで王子がすかさず続ける。


「あと、まだ書面では見えていないが輸入鋼の値段が上がり気味らしい。あとで細かい数字を洗い出す」


 清々とした顔で言われ、大臣はもはや反論の言葉を失った。苦々しく顔を歪め、やっと口にする。


「お二人とも、今日は目を瞑りましょう。しかし次はありませんぞ」


 そう言われて、王子と王女は顔を見合わせて肩をすくめた。そして同時にふっと微笑む。


 国を見るには、自分の足で行くしかない。だからやめられない。


 シレアは今日も、平和である。

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