有象、無象。
砂田計々
有象、無象、子ゾウ。
明日から来なくていいと言われてショックを受けたがよく聞くとそれは違って、明日からリモートワーク、つまり自宅でできる仕事を各自自宅でしましょうということだった。よかった。
朝。
いつも通りの時間に起床し、私はすぐにそわそわした。
というのも、ここは自宅であり、しかし今日からは職場でもあるのだ。起きた瞬間に出社が完了し、リモート会議が終わったかと思えばもう帰宅している。それは妙な感じだった。
いつもと同じ時刻に、簡単なリモート朝礼があり、話を整理するとつまり私の所属する製造部は今日することがないということだった。今日だけではない。明日も明後日も、製造部は自宅にいる限り何もできないのだ。ほかの部署からは働け。給料泥棒。異動したい。と羨ましがられたが、そんな幸せは長く続くわけもなく、私はまもなく暇を持て余し、ついにゾウを飼い始めた。
ゾウといっても子ゾウで、室内で十分飼えるサイズだ。私は、ルウちゃん、と名付けた。
ルウちゃんは人懐っこい性格で、飼い始めて一週間もすればすっかり家にも慣れた。もともと賢いゾウなのだろう、トイレもすぐに覚えた。とてもかわいい。
「ルウちゃんは子どもなのにしわしわだなぁ」
鼻をくるんとさせたときにできる皺のカーブに沿って撫でてやると、うんうんと頭を揺さぶって喜んだ。
ルウちゃんはよく食べた。なんでも嫌がらずに、出されたものも、出されていないものも、その鼻で器用につかんで口に運んだ。手があるのに鼻を使うなんてかわいい!と食事をしているときが一番ゾウらしくて好きだった。
日に日に大きくなっているような気がして、諸々が少し心配になり始めた。
私はいまさらながらゾウの飼育方法を調べてみた。
ネットにはなんでも情報が転がっていて、一説によるとゾウの食事は、野菜や果物を毎日100キロ近く与えないといけないらしかった。動物園の画像では、芋やリンゴやバナナが貢ぎ物のように積み上げられている。そして何より驚いたのが、ゾウは生きている限り、成長し続けるそうだ。
私は思わずルウちゃんを見た。ルウちゃんはまだ子どもなのでそんなに食べないにしても、たぶん本当はもっとエサが必要なのだろう。ごろんと横になるルウちゃんとがっちり目が合って、私は苦笑いした。
リモートワークも二ヶ月目に入ったころ、このままクビになるんじゃ……と心配になってきたけど、製造部にもようやくPC仕事の雑務が回ってきて、リモートワークらしくなってきた。
ルウちゃんはこの頃痩せてしまっていて、寝てばかりいた。体に見合った飼料を用意できていないからだ。
これも「いまさら?」と言われてしまうのでしょうが、そもそも個人でゾウを飼ってもよいのだろうかと、ふと思ってさっそく調べてみると、すぐに出た。
結果だけ言えばだめだった。
個人でのゾウの飼育について許可がおりないと分かった以上、ルウちゃんがこの家にいるということは絶対に知られるわけにはいかなかった。入手ルートに関しても同様で、墓場まで持っていくしかない。彼を売ることはできない。彼は男女の仲を超えた小学校からの親友なのだ。
「ルウちゃん、家にいちゃだめなんだって」
うるんだ瞳のルウちゃんの頭を撫でてやると、ルウちゃんは鼻だけで喜びを表現した。
私はすっかりルウちゃんが邪魔になっていた。
来週から通常出勤になりますと連絡が入って突然に長いリモートワークは終わりを迎えることとなった。
このままではどうしようもない。来週からは、元の生活に戻ってしまう。この先ずっと、室内で飼い続けられる代物でもない。ルウちゃんは死ぬまで成長していく。
「逃がすか……」
運よくまだ子ゾウだし。車にも載るしね。
晴れてくれてほんとうによかった。
昨晩いっぱい食べさせたルウちゃんは、好奇心旺盛にすんなりと自分の足で車に乗り込んでくれた。ルウちゃんがちょっと足踏みをするだけで車はぐらぐらと揺れて、今になってゾウの巨体を思い知った。私はルウちゃんがひっくり返らないように、ゆっくりと車を発進させた。
私とルウちゃんは無言で数キロ走った。
後部座席を倒して広げたスペースにルウちゃんはぴったりと収まっていた。ルウちゃんは外を見ているらしかった。ときどき体を方向転換するので、その度に車体がギシギシと鳴った。バックミラーに鼻がくねくねと過ぎり、私はルウちゃんに話しかけた。
「どこに行こうかなー」
ルウちゃんは静かだった。もっと暴れるのかと思っていたのに。
「ねぇ、ルウちゃんはどこがいい。動物園か、それともやっぱり自然かな。自然なら、きれいな川が流れてる静かなところがいいよね」
ルウちゃんの反応はない。思えば外に出してやったことは一度もなかった。初めてみる外の景色に感動しているのかもしれない。私は左にハンドルを切って、山の方面へと車を走らせた。
「そうだ、ルウちゃんの大好きなキャベツがいっぱいあるキャベツ畑なんてどうかな」
思いついて、私は後部座席を振り向いて言った。すると、長い鼻を上下させて私の言葉に反応するのがわかった。
「そうかそうかキャベツ畑か。よっしゃ」
しばらく山あいの集落を走ると、前方に畑があらわれた。
徐行しながら見ていると、いろいろな作物が並ぶなかにキャベツも数株確認できた。
「あーキャベツあるよ、ルウちゃん。ほらほらあそこ」
ルウちゃんも見つけて、前足を持ち上げて喜んでみせると、ドスンと足をおろして車体を大きく揺らした
不審な車に気付いたのか、ふいと野良仕事をしていたおばあさんが草の繁みから飛び出てきて、私は知らないふりをして、その場を急いで離れた。おばあさんは不思議そうにずっとこちらを見ていた。
「でも今のはちょっと少ないよね、キャベツ。ルウちゃんなら三日で食べきっちゃう。もっとさ、どーんと、一面キャベツ畑じゃなきゃ。ね?」
ルウちゃんは何も言わなかった。昨日はいっぱい食べたのに、もうお腹が空いているのかもしれない。
「ルウちゃん?」
私は引き返して、もと来た道を急いで戻った。
無人販売所に並ぶ新鮮な野菜をルウちゃんはすべて食べた。私が見張っている間に、端から順に鼻で上手に絡めとって、次々に食べてしまった。生野菜なのに、それはとても美味しそうに見えて、やっぱりゾウだなと思った。木箱に百円だけ放り込んで、私たちは逃げるようにその場を立ち去った。
自宅に着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
バックドアを開けてやると、ルウちゃんは満足げにいびきをかいて眠っていた。おしりを叩いてたたき起こすと、小走りに家に入っていく。
もうちょっとだけ飼ってみて、それから考えよう。これからのこと。きっと大丈夫だから。
私は周囲を警戒して静かに戸を閉めた。
了
有象、無象。 砂田計々 @sndakk
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