パステルカラーの四畳半

パステルカラーの四畳半

 五月。 

 可愛いワンルーム。初めての一人暮らしだからと、けちけち貯めたバイト代を有効活用して、安物だけどこだわった内装。


 ピンク色の加湿器。

 水色の可愛い電気ケトル。

 淡いイエローの遮光カーテン。

 オフホワイトの、もこもこのカーペット。

 黄緑色で爽やかに植物の図案が描かれた寝具。


 そんなパステルカラーに包まれて、私は重たい瞼をゆっくりと開く。

 目覚めてすぐ、もう3日もお風呂に入っていないことが真っ先に頭に浮かぶ。肩にだらしなく垂れた黒髪が、ほのかに油じみているように感じた。自分の体が、ひいては自分が、ひどく汚れていることを感じて、胸を燻すような嫌悪感に包まれる。

 体を起こそうと力を入れようとして、体が鉛のように重たいことに気づいた。体が動かない。眠ったはずなのに、ひどく目が疲れている。

 私は這いずるようにしてベッドから抜け出し、机の上のスマートフォンを手に取った。

 十一時半。

 昨晩は早々にベッドに入った。最後に時計を見たのは九時半。十二時間以上は眠っていたことになる。まったく目覚めることなく昼を迎えていた。今日が土曜日で良かった。

 カーテンを閉め切った部屋では、朝の陽光も、夕暮れの斜陽も、夜の街灯も意味を持たない。

 音のない、諦めたようなため息が、口から漏れた。


 〇


 ホワイトノイズのようなシャワーの音が耳を覆う。

 椅子の上、胸部を太ももにくっつけるようにして体を折りたたみ、頭から勢いの強いシャワーを浴びている。熱い湯が、膝にかかる束になった髪を絶え間なく伝い落ちる。

 その様を、じっと見ている。

 ずっと。

 目をそらすことなく。

 湯が時折目に入るが、そんなことを気にすることもなく。

 じっと。

 目を見開いて。

 瞬きすらせずに。


 どれほどそうしていただろうか。

 ごぽっ、と湿った音にハッとした。

 排水溝のフタが浮き上がり、髪の浮いた水が足元にうっすらと溜まっているのが見えて、慌ててシャワーを止めた。

 ざあああ、と今まで鳴り響いていた音が止んだ。

 耳を覆っていた音が失せたその瞬間、

 強烈な不安が頭を覆い、体が硬直した。


 大学のキャンパス移動と忙しくなった研究で一人暮らしが決まってすぐ。世界が未知のウイルスに覆われ、「つながり」が断たれた。

 授業がない。

 友人に会うこともない。

 片道三時間かかる実家にも帰りづらい。

 引っ越したばかりでアルバイトも決まらないまま。

 人に会うことがない。孤独に心が覆われた。

 人々は戸惑いながらも順応し、SNS上ではオンライン飲み会だ、おうち時間だ、断捨離だと楽しそうな様子が見て取れた。

 オンライン授業にはまだ慣れない。先生方の温かい励ましや距離を測りかねたディスカッションの声が、電波に乗って虚しく耳を通り抜ける。

 人付き合いが元々苦手な自分は、この四畳半の小さな牢獄で無限にも感じる時間を潰すことになった。


 スマホを見れば、SNSやネットニュースにあふれる、新たなルールを守らない者への心無い言葉。自己責任論。次々と流れる情報。つるし上げ。ネットというおぞましい監視者により、自分の世界が脅かされていくのを感じた。

 瞼を閉じれば、ルールを破ってしまったばかりに拡散され、踏みつぶされる自身が夢に出るようになり、眠るのが怖くなった。


 何だこの世界は。


 責め立てられる己の幻を夢に見るうち、自身のかつて犯した、幼い頃の過ちを思い出すようになった。

 親や友達、先生についた嘘。

 友人の、受け入れられない価値観にかつて放ってしまった言葉。

 大小さまざまな罪悪感が、眠れずに目を見開く暗闇で蠢いた。

 いつしか起きているのが怖くなり、ずっと眠っているようになった。


 私はこの二か月、自分と世間と、ひたすらに向き合った。

 元々きれい好きで掃除もこまめにするタイプだったが、今はゴミが散乱している。本当に情けない。だがそれをどうにかする体力がない。毎日家にいるのに。数時間のオンライン授業以外何もしていないのに。

 溜まってゆく自己嫌悪。

 可愛らしいパステルカラーのおうちで、ひとり、どす黒い腐敗した感情が脳を食い散らかしていく。

 寂しい。

 世間が憎い。

 自分が憎い。

 淀んだ思考。


 そして今。

 限界が来ていた。


 風呂場に突如として訪れた静寂を契機として感情が汚れた水のようにあふれ、不安とともにひどい渇きのような焦りを感じて、

 濡れた髪を引きちぎるように左手で掴んで歯を食いしばり、

 硬直した右手がぎこちなく、されど衝動的に正面の鏡の前に置かれたカミソリを握りしめ太ももに力強く振り下ろし―


 ―私は、今何をしようとしている?


 手が止まった。

 涙が流れた。


 〇


 風呂上がり。所々ほつれた、着古した柔らかいパジャマが心地よい。

 ふと、真昼の明かりを部屋に満たすように、カーテンを開けた。

 眩しくて、すぐに閉めてしまいたくなる。

 パステルカラーのちいさな、かわいいおうちの中。

 どす黒い時間の積もった、埃っぽい四畳半のおうちの中。

 乱雑に団子にまとめた髪から首筋を伝い落ちる水滴をそのままに、私は外に向けて音もなく口を動かす。


 ―だれか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パステルカラーの四畳半 @22koa8hako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ