彼は家で何をしているのか

黄黒真直

彼は家で何をしているのか

彼は女の家で、軟禁されていた。


「ちょっと出かけてくるけど、大人しくしててね?」

と、女が笑顔で手を振った。玄関が閉まる音を聞くと、彼は室内を振り返った。


彼は軟禁されている。だが、縛られてはいない。四肢の自由は効き、家の中を歩くことも走ることもできる。しかし窓や玄関は施錠され、内側からでも彼には開けられないようになっていた。


女は一日の大半を家で過ごしているが、時々こうして、外出する。こういうとき、彼は家の隅々を歩き回ることにしていた。


家といっても、一軒家ではなく、賃貸マンションの一室である。出窓の景色から察するに、四階だろう。周りの建物はすべてこの部屋より低く、外にいる誰かに発見してもらうことは期待できない。


間取りは2LDK。女の一人暮らしには不釣り合いなほど広い。初めから、彼と暮らすことを想定して借りたに違いない。


一番狭い部屋は、本と紙ばかりの仕事部屋だ。女は、自宅で仕事をしているのだ。なんの仕事なのか、彼はよくわかっていない。ただパソコンに向かって、ずっと何かを書いている。彼は幾度となくその画面を見たが、彼には理解できないものだった。


というのも、それは彼には読めない言語だったからだ。どこの言語なのかも、彼にはわからない。女が普段、彼に話しかける言葉は、ごく普通の日本語である。だが電話口などで女が話している言葉は、彼には全く理解できなかった。


仕事部屋に置いてある本も、すべて彼には読めなかった。書かれている文字が読めないからだ。

過去に一度、何が書いてあるのかどうしても気になって、床に積んである本を取ろうとしたことがある。そのときうっかり本の塔を崩してしまい、女がひどく怒った。数日後には本棚が増え、床の本はすべてそこにしまわれた。そのせいで、彼には本を開くことすら難しくなった。


仕事に集中している間に、脱出しようと試みたこともある。だが玄関前で音を立てているうちに気付かれ、咎められてしまった。以来、彼は日中のほとんどを、リビングで過ごすことになった。


リビングは快適だった。常に空調が効いているし、日当たりもいい。物は多いが、常に整頓されている。特に、食卓の上やキッチンは片付いていた。彼がナイフなどに触らないよう、しっかりとしまってあるのだ。


ソファには小さなぬいぐるみやクッションが置いてあり、テレビの横にも間接照明などのインテリアがあった。これらで窓を割れないかと考えたこともあるが、彼には動かせないよう、固定してあった。第一、割ったところで、四階からの脱出はさすがの彼でも難しいだろう。


空気清浄機が時々音を立てたり、自動掃除ロボットが定時で動き出したりと、常に何かが動いているような部屋だった。それは多少のストレスにもなったが、家から出られない彼にとっては、良い暇つぶしにもなった。


女の仕事中、彼はリビングで自由に過ごしていた。女に用意された食事を食べていてもよいし、ソファで寝ていてもよい。女が彼を軟禁する目的はわからないが、しかし、彼がただリビングにいるだけで、女は安心するようだった。


唯一女が不安な様子を見せたのは、彼がリビングの壁を軽くひっかいたときである。彼が壁に触れていることに気付くと、女はすぐに、彼を壁から引き離した。壁の向こうに何かがあるに違いない、と彼は思ったが、それが何かはわからなかった。


翌日には壁紙が新しくなり、部屋に物が増えた。壁への興味を、他へ移そうとしているように見えた。無論、そんなもので誤魔化されるはずはなかったが、あまり反抗しない方が賢明だと考え、壁へ触れるのはやめることにした。


この家の三部屋のうち、残りひとつは、女の寝室だった。ベッドもカーペットも、落ち着いた色合いで統一されている。女は寝るときくらいしかこの部屋に来ないが、代わりに、何体ものぬいぐるみが部屋を占領していた。彼は時々、そのぬいぐるみの上で横になっていた。


寝室にも、彼の入室は許可されている――女が寝ているときでさえ、だ。女は彼に寝込みを襲われるなどと思ってもいないし、彼にもそんなつもりはなかった。


彼は、女を殺そうなどとは思っていなかった。軟禁こそされているが、扱いはひどくない。快適な室温の部屋と、まずくはない食べ物を提供してくれる。むしろ女の方こそ、彼の機嫌を取ろうとしているように見えた。


彼が唯一抱いている反抗心は、脱出である。生活に不自由しないとはいえ、今後の一生をずっと、マンションの一室で過ごすのは耐え難い。それに、親や兄弟と会えないのもつらい。みんな、無事だといいのだが。


女は一日の大半を家で過ごしているが、今のように、時々外出することもある。そうしたときはこうやって、家の中を隅から隅まで歩き回り、これまでの女の行動を思い出すのだ。


女の目的はなんなのか。

なぜ壁に触っただけで慌てたのか。

ここから脱出するにはどうすればよいか。

どこかにきっと、それらを知るヒントがあるはずなのだ。


だが、今日の探索の時間は、もう終わりのようだ。玄関先で、鍵の開く音がする。


「ごめんね~、遅くなっちゃった~」

女が扉を開け、甘えた声で言う。彼は玄関へ行き、女を見上げると、言った。













「にゃ~ん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼は家で何をしているのか 黄黒真直 @kiguro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ