第3話 天国

「あの丘の向こうには、何があるんだろう?」

私の息子はいつも、目を輝かせながら、窓から見える小高い丘を眺めていた。

実際のところ、丘の向こうにあるのは、ごくごく普通の街並み。

それでも、私の息子にとっては、未知なる世界。

息子にとって、この小さな部屋とベッド。それから、消毒薬の匂いが染み込んだ、真っ白な病室だけが、存在することを許された世界だった。

「想像してごらん。」

私はよく、息子に言った。

「あの丘の向こうに、何があると思う?」

考えてみれば、残酷な問いだった。

息子が知っているのは、白衣のよく似合う、穏やかな顔の主治医と、優しい看護師さん達と。

歯を食いしばって耐えている注射と、鬱陶しい点滴の管。

病室の窓から見える景色の中には、手入れの行き届いた緑と水。

青い空、白い雲。

そして、寝巻き姿の患者達の姿しかないのだから。

考え込む息子に、私は再び声をかける。

「それじゃあ、何があったら嬉しい?」

とたんに、やつれた顔を輝かせて息子は言った。

「いっぱいのお友達!遊園地!それから、海と、お船と電車と・・・・」

耐えきれず、妻がそっと部屋から出る。

私は、飽きることなく楽しい空想を広げる息子の笑顔を、やるせない気持ちで見つめていた。


いつしか、窓から見える小高い丘は、息子にとっての生きる希望になっていた。

もちろん、私にも、妻にも。


「お父さんは、見たことあるんでしょう?」

ベッドに横たわり、窓の方へ顔をむけたまま息子がそう言ったのは、冬も近づいてきた秋の終わり。

「ねぇ、丘の向こうには、何があるの?」

この頃には、丘を見ても、楽しい空想に笑顔を見せる事すら少なくなっていた息子は、きっと、幼いながら自分の命の終わりを感じていたのだろう。

「何が、あるの・・・・?」

ゆっくりと頭をめぐらし、こちらを向いた息子の顔は、ひどく疲れていた。

まるで、生きることに疲れた、老人のように。

「じゃあ、こうしよう。」

息子の小さな頭をくしゃくしゃと撫でながら、私は言った。

「病気が良くなって、先生が外に出てもいいって言ったら、あの丘に行くんだ。もちろん、お父さんもお母さんも一緒だ。3人で、一緒に見よう。あの丘の向こうに、何があるのか。自分の目で見る方が、いいだろう?」

息子は、じっと私を見ていた。

そして。

微かに笑い、小さくうなずくと、再び窓の方へと顔を向けた。


その年の冬。

小雪が舞う、寒い朝。

息子は静かに息を引き取った。

一度もその目で、丘の向こうの景色を見る事無く。


「さぁ、見てごらん。」

息子の遺影を胸に、丘の上に立つ。

「どうだい、いい眺めだろう?」

冬の冷たい空気が、青空を澄み渡らせていた。

「・・・・見せて上げたかった・・・・」

傍らで、妻が声を詰まらせて俯く。

「こんな、こんな簡単な事なのに・・・それなのにあの子は・・・・」

「いや。」

私は腕を伸ばし、もうずいぶんと細くなってしまった妻の肩を抱き寄せた。

「あの子はちゃんと、見てるよ。誰よりも素晴らしい景色を、この丘からね。」

「そうね。」

弱々しい笑顔を浮かべ、妻が顔を上げる。

「どんな景色を見ているのかしらね・・・・」

「天国、だよ。」

「え?」

「そうだな、海の見える遊園地。海には船が浮かんでいるんだ。園内には電車が走っていて。あの子はそこで、今頃きっとたくさんの友達と遊んでいるさ。」

言いながら、目の奥が熱くなってきて、私は妻から顔を逸らし、眼下の景色へと視線を戻した。

目の前に広がっているのは、ごく普通のありふれた街並み。

だが私には、息子が楽しそうに声を上げながら遊んでいる光景が、目に浮かぶようだった。

「えぇ、きっとそうよね・・・だって、あの子はあんなに頑張ったんだから・・・」

目が合った妻に、私は深く頷いた。

その、妻の頬。

滑り落ちた涙の滴に、弾けるような息子の笑顔を見たような気がした。

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平 遊 @taira_yuu

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