結析子(ゆきこ)抄

日暮奈津子

結析子(ゆきこ)抄


ーーずっと、お兄さまに聞かせて差し上げたかったーー


     *     *     *


 夜の中にピアノの音が聞こえた気がして、僕は目を覚ました。

 ベッドから身を起こし、ぼんやりと室内を見る。

 すぐ横にある小さな丸窓の外に、暗い海のうねりが見える。

 サウザンプトンから東京へ向かう船室のベッドの中だった。

 どこから。……いや。

 耳をそばだてても、ピアノの音はもう聞こえてはこない。

 代わりに、黒い波のすぐ上に浮かぶ満月に気づいた。

 そうか。

 聞こえた気がした旋律は、『月の光』だった。

 小さな背中を向けて鍵盤を奏でる妹を思い出す。


ーーあの娘(こ)には本当に可哀想なことをした。


 たとえ、あの時はそうせずにいられないほどの閉塞感と無力感に囚われていたのだとしても、こうなったのは僕のせいだった。

 十六歳になったばかりの妹を一人ぼっちにしてしまった。

 せめて、こんな僕でも一緒にいてやれたならば、少しはましだったろうにーー。

 留学先から三年ぶりに一時帰国することになったのは、父の具合がすぐれないと電報が届いたからだった。

 けれど、結局は間に合わなかった。

 イギリスを発(た)つ前日に届いた電報が父の死を僕に告げた。

 再びベッドに倒れこみ、片手で顔を覆う。

 父の臨終に居合わせなかったことよりも、その時、結析子(ゆきこ)のそばにいてやれなかった悔いが僕に重く覆いかぶさっていた。

 

    *     *     *


 汽車から降りてすぐに、懐かしい声に呼ばれた。

「おかえりなさいませ、修一さま」

 運転手の橋本がホームで待っていた。

「ただいま」

 橋本は父よりはだいぶ若いはずだが、頭を下げると三年前にはなかった白髪が少しだけ見えた。

「旦那様のことは……」

「うん、もっと早く帰れればよかったんだが……。長男の僕が海外にいたせいで、結析子(ゆきこ)や、家の者たちにも余計な負担をかけてしまって、本当にすまなかったと思っているよ」

 詫(わ)びの言葉を口にする僕に、橋本は驚いたようだった。

「いえ、そうではなくて……さぞお力落としだろうと」

「それは、僕よりも結析子の方が、そうだろう」

 まだ十六歳だというのに、父親を亡くしてしまったのだから。

「ああ……」橋本は俯いて大きなため息をついた。

「あの娘(こ)は、どうしている?」

 僕の問いに答えようとして、橋本は言葉を詰まらせた。

 ちょうどそこへ赤帽が僕の荷物を運んできた。

「ああ、ご苦労さん」

 橋本が赤帽に礼を言って、大きめの旅行用トランクと皮の旅行鞄を受け取った。

「……これで全部ですか? 三年も向こうにいらしたら、もっと大荷物だろうと思って覚悟しておりましたのに」

 ことさらに笑顔を作って橋本が僕に尋ねる。

「当座、入り用の物だけを持ってきたから」

「え?」

 僕の答えに、橋本は意外そうな目を向けた。

「まさか……また、すぐにロンドンにお戻りになるおつもりで……?」

 責めるような響きが彼の口調に含まれていたとしても、当然だろう。

「いや……そのことは落ち着いてからでないと、まだなんとも……」

 口ごもる僕に、はっと思い直したように橋本は再び頭を下げた。

「ああ……、申し訳ありません。そうですね。なにしろ、こんなに急なことでは荷物をまとめる暇など……」

「うん……まあ、向こうに手紙を出して、残っている物は船便で送ってもらうか、処分してもらうか……あちらで使いたい人があれば譲ってもいいかもしれない」

 慌(あわ)ただしい帰国だったのも、先々のことを考える余裕がなかったのも、本当のことだった。

 だが、もう僕以外には頼れる家族もない妹を置き去りにして留学先に戻る冷淡な兄、などというそしりを受け入れられるほどの気概が僕にあるはずもなく。

 しかし、それすらも、結局は他人の評価を気にするだけの判断でしかないーー。

 僕にとって最も大きな現実での生き苦しさの象徴だった父が亡くなったとはいえ、内心のどこかでは、南条の跡取りでもなんでもないただの留学生として生きてゆく糸筋を切り捨てる決断を僕はまだ出来ずにいた。


ーー結析子がいるというのに……?


 しかし、そんな風にぐちゃぐちゃと矛盾を抱えた僕の内面を見透かされるという懸念は杞憂に終わりそうだった。

「では、この後からかなりの荷物を送ってもらうことになりそうですね」

 荷物を持って改札を出る橋本が言う。

「いや、送ってもらうのは、本だけでいい」

「えっ?」僕の答えに、橋本が振り返る。

「生活用品も、服も、必要ならこちらで買い直せばいいけれど、本はそうはいかない。特に向こうで買った本はね」

 三年間で増えた蔵書は、まだ読めてないものと何度でも読み返したいものとで、とうに本棚に収めることを放棄されて寮の部屋のあちこちに積み上がっていた。

「……日本からお持ちになった本も、随分たくさんおありでしたよね? それこそ、わざわざ送り返してもらわずとも、こちらで買い直して……」

 留学の時の荷造りは橋本も手伝っているから、知っているのだ。

「同じだよ。一度手放した本が、再び手に入る保証なんかない。服や雑貨なら、代わりに似たようなものがいくらでもあるけれど、本は違う。代わりはないんだ。手放すなんて考えられない」

 それ以外にも、向こうでも思いつくままにあれこれとノートや原稿用紙に書き留めていたものが溜まっていたが、それだけは辛うじて今回の荷物に全部まとめて持ち帰ることができていた。

 だがもちろん、そんなことは橋本はおろか、他の誰にも話すことなどできはしないーー。

 柄になく頑(かたく)なな僕の態度に、橋本は声を立てずに苦笑したようだった。

「……わかりました。まずはともかく、お屋敷に戻りましょう。結析子お嬢様もお待ちです」

 赤いレンガの駅舎を出て、車に乗り込む。

 二つの荷物と僕を乗せ、橋本は車を出した。

 しばらく僕たちは無言だった。

 ずっと折り合いの悪かった父と僕とを長年見続けていた橋本なりに、言いたいことも飲み込んでいるのだろうと思われた。

 だが、いたたまれなくなったのか、橋本が口を開いた。

「そういえば、杉野が退院したそうです。昨日、手紙がきておりました」

「ああ……」

 子供の頃から世話をしてくれていた家令の名前を久しぶりに耳にして、懐かしさが胸に沁みた。

「確か、去年の冬に倒れたと……」

「はい。卒中でした。一時(いっとき)は、まったくの寝たきりになってしまって……」

「それで結局、橋本が杉野の仕事を引き継がなければならなかったのだろう?」

「いえ、私のことなどはいいのですよ。引き継ぐと言っても、旦那様のお身の回りのことと、家の内外の力仕事くらいでしたし。お嬢様のお世話はサチが自分に任せろと言ってくれましたから」

 父は数年前からだんだんと使用人の数を減らしていて、特に女中は橋本の娘でもあるサチ一人だけになっていた。

「……杉野は、なんとか左半身は動かせるようになって、今は娘夫婦と一緒に暮らしていると知らせてきました。……せっかく、日本にお戻りになったのですから、顔を見せてやっていただけませんか。きっと喜びます」

「そうだな……」

 車は郊外をしばらく走って、僕の実家である南条家の邸宅に到着した。

 三階建て洋館の玄関前に止まった車から降り、橋本が下ろした荷物を受け取ろうとしたその時、屋敷の扉が開いた。

 五段ほど階段を上がったところにある玄関の扉が静かに、ゆっくりと開いて、隙間から小さな顔が覗いた。

「お兄さま」

「……結析子……」

 三年ぶりの再会だった。

「……お兄さま」

 僕の呼びかけに、結析子は重たげな扉を押し開けて玄関先へと出てきた。

 その様子に、橋本が小さく息を呑むのが聞こえた。

 白いワンピースに包まれた小柄な体はほっそりとしていたが、それでも最後に見た時のあどけない面影はそのままだった。

 戸口に立ち、僕の方へと進み出る。

「お嬢様ーー」

 橋本が声をかけるのとほぼ同時だった。

「あっ……!」

 ぐらり、と結析子の小さな体が傾(かし)いだ。

「あぶない!」

 咄嗟に、旅行鞄を放り出して僕は駆け寄った。

 階段の一番上から転落しかかった結析子を、下からかろうじて抱き止める。

 その体は、予測していたよりもずっと軽かった。

「大丈夫でございますか!」

 橋本も慌てて駆けつける。

「お怪我はありませんか?」

「僕は平気だ。……結析子は?」

「ええ……大丈夫、です……」

 囁くような声で結析子が答える。

 結析子はなんとかして自力で立ち上がろうとするが、脚に力が入らないのか、再びふらりとよろめいて僕にすがりついた。

「ちょっと、ここへ座ろう」

 玄関前の階段を椅子代わりに、そっと結析子を座らせた。

 ちょうどそこへ、サチが屋敷の中から出てきた。

「まあ……! お嬢様、どうしてここに……邸内(なか)でお待ちしましょうと申しましたのに……」

「いいから、早く車椅子をお持ちしなさい」

 強い口調で橋本に命じられ、慌ててサチが中へと戻っていく。

「車椅子……?」

 思わず漏れた僕の言葉に、結析子と橋本までが目を伏せた。

「そう……か……」

 固い石造りの階段に座り込んだ結析子の隣に、僕も腰掛けた。

 うつむいた結析子の横顔はほっそりと透けるように白く、首筋には静脈の色までもがかすかに浮かび、もうずっと日の光も浴びていないことは明らかだった。

 生まれた時から病気がちで、学校にもほとんど通えていない結析子だったが、いつの間に、こんなにも弱ってしまっていたのか。


ーーいや。


 いつの間にも何もない。

 留学などという名目で、三年も結析子を置き去りにしてきたのは他でもない僕自身ではないかーー。

 鉛のような固まりが心窩部に落ちて、僕を黙らせた。

「お兄さま」

 重く沈んだ空気を破って言葉を発したのは、結析子だった。

 いつしか日が傾いて、夕陽が結析子を正面から照らした。

 背中まで流れる結析子の髪が陽を淡く反射する。

 眩しそうに細めた目に、長い睫毛の影が落ちたが、再び結析子は顔を上げ、はっきりと僕に言った。

「お父様の葬儀は、無事に済みました」

「……結析子……」

 それは、知っている。

 僕の帰国は間に合わなかった。

 喪主をつとめたのは、結析子だった。

 まだ、たった十六歳の。

 それも、こんなにか弱く、儚い娘が。


ーーそうさせたのは、僕だ。


 絶句する僕に、結析子は続けた。

「たくさんの方が来てくださって……、親戚の皆様はもちろんですけど、お父様が勤めていらした研究所の方々も……。もう何年も前に退任なさっているのに、最期のお別れにと何人もの方がいらっしゃって。……ですから、それで少し疲れが出てしまっただけなんです。それだけの」

「すまなかった」

 膝の上で固く握り締められていた結析子の手に、僕の手を重ねた。

「僕のせいだ。僕は長男だというのに……兄だというのに、僕がいなかったばかりに結析子にこんな……」

「修一さまのせいではありません」

 橋本が、僕の投げ出した鞄を拾い上げて言った。

「旦那様のことは、誰にも予想などできないことでした。あんなに急なご病気では……。ですから、誰のせいでもないのです。どうか、あまりご自分をお責めにならずに……」

「でも、せめて僕がもっと近くに……」

「もういいの。お兄さま」

 結析子は静かに僕の繰り言を遮った。

「もう大丈夫です。こうして、お兄さまも帰ってきてくださったのですから。二、三日も休めば、またすぐに前のように……いえ、私、前よりももっと元気になります。だって……」

 一瞬、結析子の声は涙ぐんで震えたが、こみ上げるものを飲み込むように、僕に告げた。

「お父様ったら、最後まで、うわ言でまで私を心配して……。でもね、それを私にではなくて、お兄さまにおっしゃるの。修一はまだか。修一に伝えなければ。くれぐれも結析子のことを頼むと、どうしてもあれに伝えなければ、と」

 結析子は無理に笑顔を作って、僕に言った。

「……おかしいでしょう? 私にはおっしゃらないのよ。きっと私のことは、よっぽど頼りないと思っていらしたんだわ。……でも確かに、こんなに弱々しい私では、お父様が心もとなくお思いになるのも無理ないわ。だから私、何としてでも元気になって……お父様を安心させて……」

 だが、そこまでだった。

 結析子の両手に重ねた僕の手に、大粒の雫がいくつも落ちた。

 白く透ける頬から小さな顎に、幾筋もの涙があふれていた。

「もういい、結析子」

 か細い肩を抱き寄せようとするのと、結析子がすがりついてくるのが同時だった。

 かけてやる言葉も見つけられないままに、小さな背をそっと撫でる。

 嗚咽がとめどなく僕の胸を濡らし続ける。

 車椅子を取って戻ってきたサチの泣き声が背後で聞こえていた。

 橋本も、鞄を抱えて目頭を押さえている。

 それを見て、僕も少しだけ泣いた。


     *     *     *


 結析子は、僕が十歳の時に父と後妻との間に生まれた子だった。

 継母(はは)はもともと南条家の女中だったが、僕の実母が亡くなってからは僕の世話係となり、やがて父の後添えとなった。

 もともと南条家は、分家筋で爵位もなく、僕の祖父が御一新の際に得た奉還金を元手に生糸や小豆の相場で財をなした成り上りに過ぎなかった。そのせいなのかどうか、身分がどうのと五月蝿(うるさ)いことをいう者も少ない鷹揚な家風で、使用人から後妻に入るにもさほど波風は立たなかった。

 父は僕には冷淡だったが、継母は女中の頃から親身になって僕の世話を焼いてくれて、それは後妻になってもずっと変わらなかった。

 父が奉職していた「海洋地質考古研究所」は、当初は国内や近海の地質調査を細々と行う小さな施設に過ぎなかった。

 だが、父は祖父から受け継いだ人脈を余すところなく利用して、海底油田の探索に血道をあげる財閥企業に「売り込み」をかけては莫大な献金を出させ続けた。

 純粋な学術的探究心と高度な社交性と交渉術とを兼ね備え、欲得ずくの経済活動とつながることすら割り切って行動する父には、世間の片隅に立てこもってひたすら読書に没頭し、ささやかな猶予期間(モラトリアム)を維持するにも汲々とする僕の気性は理解しがたいものだったろう。

 植民地として新たに得た南方の島々へ大掛かりな調査団を派遣する計画が持ち上がったのは、父の再婚とほぼ同時だった。

 新婚旅行を兼ねて、父は継母を同道して調査団に加わった。

 僕は杉野や橋本と一緒に日本に残った。

 調査期間は三ヶ月で、そのうち最初の十日間を両親は一緒に過ごしたのちに継母だけが先に帰国する予定だったが、その旅程は大きく狂った。

 帰国直前、継母は急に体調不良を訴えて現地の病院に入院した。

 継母は懐妊していた。

 重度の悪阻(つわり)と切迫早産の恐れがあるとして、医師は絶対安静を命じた。

 調査団が全ての日程を終え、各種の知見と採取した試料(サンプル)とともに帰国した後も、父は妻が出産を終えるまで現地で付き添わざるを得なかった。

 そして生まれたのが、結析子だった。

 継母の産後の肥立ちは妊娠中とは打って変わって良好で、結析子を抱いて父と帰国してきた時の幸せそうな様子を僕は今でも覚えている。

 一つだけ、気がかりは結析子のことだった。

 設備の整わない外地で、しかもかなりの早産だったせいか、結析子は極めて病弱で、ほんの少しのことでも体調を崩した。

 寒くなるとすぐに熱を出すので冬の間はほとんど外出ができず、夏は夏でただでさえ食が細いのに暑さで一層食欲をなくして体力も落ち、避暑に行くことすら医師に止められるほどだった。

 三寒四温の時期や、急に朝晩が寒くなる初秋の頃には尚更体調が安定せず、つまりは四季を通して「健康」という状態が結析子にはなかった。

 これでは到底、人並みに学校に通うのも無理だろうとの医師の診立てもあり、父は何人かの家庭教師に結析子の教育を任せた。

 だがそれも、結析子の体調が落ち着くわずかな合間に断続的に行われるだけのことだった。 

 結析子が十歳になったばかりの頃に、継母が子宮癌であっけなく逝った。

 僕と父との間の不和を、影日向になって取り持ってくれていた存在が消え、根深い行き違いは加速度的に軋(きし)みを上げ、互いの感情は乾ききってひび割れた。

 そのことから目を背けるように、僕は大学と図書館と本屋と古書店とをめぐり歩き、それらの扉が閉ざされれば本を抱えて自室に籠(こも)った。

 物心ついた頃から分野を問わず注ぎ込まれた続けた大量の文章は、いつしか僕の胸の内に高く降り積もり、やがて堆積層に浸透した地下水脈のように、小説とも随想ともつかない言葉の連なりとなって紙の上に書き散らされるようになった。

 物を食べるように読み、息をするように書いた。

 匈奴(きょうど)を恐れて万里の長城を築くように、僕は興味の向くまま買い漁った蔵書と誰に読ませるあてもない雑文の束を自分の周りにうず高く積み上げた。

 自分の中で渦巻き、あふれかえる想念だけで僕の内面は手一杯で、他者との交流の一切は苦役でしかなかった。

 やがて僕の大学卒業が近づいたが、そんな社会不適合をこじらせた僕が一般人に立ち混じって生きていけるとはまったく思えなかった。

 だが、そんな壁など存在しないかのように僕の日常にそっと歩み入ってきたのが、まだ幼い結析子だった。

 体調がすぐれず家庭教師の講義が中止になったものの、思いのほか早く起き上がれるようになって退屈になると、密かに僕の部屋の扉をノックする。

 ほかの家人の誰とも違うその控え目な音は、些細なことでも不安に波立つ僕の胸にも穏やかに響いた。

「今日は何を読んでいらっしゃるの?」

 僕が開けた扉の隙間から小さな顔をのぞかせて尋ねると、中へと静かに歩み入り、机の上に広げられた分厚い本のページを覗き込む。

 学校に行けなくてもわかるように、僕がなるべく噛み砕いて内容を話してやったり、心地よい言葉の響きや情景描写に優れた種々の作品を朗読したりするのを、結析子は僕の隣に座って聞いていた。

 時には、家庭教師に出された宿題を持ち込んで尋ねたり、一人で弾くのはさみしいからとピアノの部屋に引っ張りだされて練習に付き合わされたりもした。

 何も知らない人から見たら、まるで結析子の家庭教師として雇われた書生のように見えるかもしれないなどと、僕は勝手に想像した。

 そんな風に、どこかの家で家庭教師か書生のようにしてならば、大学を出てもかろうじて口に糊して生きて行けるだろうと、冗談めかして漏らした僕に、父は心底あきれ果てたようだった。

「南条の御曹司を書生に置けと言う物知らずがどこにいる」

 いるとしたら僕だけだろうと、言外に聞こえた気がしたが反感すら覚えなかった。

 そんな内情を知ってか知らずか、大学の指導教官が僕に紹介してきたのは姉妹校協定を結んでいるロンドンの大学への留学の話だった。

 ほぼ事後承諾に近い形だったが、意外にも父の反対はなかった。

 留学期間は最低三年、と伝えると、父は答えた。

「別に何年でも構わない。気の済むまでいろ。箔が付くだろう」

 箔を付けることに意味などなく、そもそもこんなことで箔が付くなどと父が思っていないことは判りきっていたし、僕自身もそうだったから、そのことだけは僕たち親子の意見は一致していた。

 ちょうど父は地質研を退職したばかりだったが、世間体を繕うための必要経費としては留学費用など出し渋るほどのものではなかったのだろう。

 そうやって、父と僕は問題の解決を先送りすることで合意した。

 十三歳になったばかりの結析子にとって、僕ら父子の精神的断絶は理解し難く、根深い確執を解きほぐすにも幼すぎ、かつ、か弱かった。

 継母が、心ならずも僕を残して父に同行したように、今度は僕が結析子を置いて日本を出た。

 だが、その期間は父と継母が僕に与えた孤独よりも、もっとずっと、長かった。


     *     *     *


 翌朝、結析子の主治医が往診に来て、四日間のベッド上での安静と少しだけ薬の増量を指示した。

 それまでは、ゆっくりであれば歩行に支障はなかったのに、父の葬儀を終えた直後から立つことすら危うくなったのは、やはり心労が祟ったのだろうと矢口医師は僕に言った。

「また、歩けるようになりますか」

 結析子の眠る部屋を出たところで、僕は医師に尋ねた。

「……今の状況では、なんとも」

 重い息を吐いて彼はそう答えると、一週間後にまた来ると言って帰って行った。

 それでも、確かに四、五日ほど経つ頃には体調も上向きになり、起きあがれる時間も徐々に増えていった。

 その間、僕は父が懇意にしていたという弁護士や税理士らを訪ね、家督の相続や父の遺産管理についての説明を受けた。

「要するに、父と祖父が不断の努力で積み上げてくれた株式だの配当だので、しばらくの間なら、僕らはこれまで通りの生活を続けていけそうだという話だったよ」

 帰宅した僕は結析子を心配させないよう、聞いてきた話のうち先行き不透明な部分はいったん棚上げして、安心材料だけを大雑把にまとめてそう伝えた。

「これまで通り、というのは……」

 久しぶりにベッドから離れて車椅子に移り、居間でくつろいでいた結析子が僕に問いかけた。

「サチや橋本は? 二人もここにいられるということ?」

「ああ、もちろん」

 僕を見上げて尋ねる結析子の瞳に頷きかける。

「でも、しばらくの間ならって……」

「結析子が案ずることはないよ。その『しばらくの間』というやつも、いくらか不動産を手放すことでかなり引き伸ばせそうだし。……まあ、不労所得に頼りきりにするよりは、何か収入の道を探った方がいいのだろうけど……」

 だが僕の気性を思えば、その方がよほど先行きが案じられると思ったが、結析子はそう感じてはいないようだった。

「お兄さまは留学の経験がおありですから、それを生かした仕事ができます。通訳とか」

「ええっ?」

 無邪気な結析子の提案に、僕はたじろいだ。

「……いや、通訳は無理だよ」

「どうして?」

「僕のような社交性が皆無な人間に、通訳は務まらないよ。他人と会って話すのも、あちこち出かけるのも苦手だし」苦い自嘲を含んで、答える。

「そんな……。でも、せっかく英語が堪能なのですから……では、翻訳は? これなら、家で一人でお仕事ができます」

「え、翻訳?」

 思わず、結析子の顔を見返す。

 僕の脳裏に、自室の鍵付き引き出しにひっそりと眠っているノートたちの文面が浮かんだ。

 赤の他人が、それも全く違う言語・文化圏の人間が完成させた文章を訳すのと、僕がやっているような取りとめのない書き物とでは、全くわけが違うだろう。

 『書く』という行為以外には。

 だが。

 もしや、結析子は知っているのか。

 しかし結析子は訝(いぶか)しげにわずかに小首を傾げ、僕の答えを待っているだけだった。


ーーいや、それはない。


 あれは絶対に、誰にも、見せたことも話したこともないものだから。

 結析子が部屋を訪ねてくる時にも、必ず引き出しに鍵をかけてからでないとドアを開けることはなかったのだから。

「翻訳ね……」

 確かに、祖父や父の遺産だけに頼るのではなく、自分の能力でいくらかでも収入を得られれば、そのぶん、先行きも少しは明るくなるだろう。

 もっとも、僕のような何の経験も人脈も無い若造に、翻訳の仕事が得られるような当てなどまるで考えつかなかった。

 だが、こんな僕でも世間に対して何がしかの価値ありと認められることを成そうと目指すのであれば、それはささやかではあるが確かな救いになりそうに思えた。

 そんな他愛のない会話をしているところへ、サチがやってきて来客を告げた。

「誰?」

「女の方で、深浦様とおっしゃるそうです。旦那様が以前、勤めていらした研究所の職員で、大事なご相談があると……」

「失礼致します……」

 突然、背後から聞こえた声に、サチは小さな悲鳴をあげた。

 僕と結析子も、驚いてそちらを見る。

 ぎょっとして振り返ったサチのすぐ後ろに、見慣れない若い女が立っていた。

「……あの、お客様……? 私、ご都合をお聞きしてくるので、先ほどのお部屋でお待ち下さいと申し上げたはずですが……」

「えっ……?」

 サチにそう指摘されて、彼女はひどくうろたえた。

「す、すみません……! あの、私、こんなに大きくて立派なお屋敷にお邪魔するなんて初めてだったので緊張してしまって、ちゃんと聞いていなかったようで……てっきりご案内していただけたのかと……。そ、それでは私、すぐにさっきの部屋に戻りますので」

「いえ、ここで結構ですから。どうぞ、おかけ下さい」

 慌てて部屋を出て行こうとする彼女を、僕は呼びとめた。

「で、でも……、よろしいのですか……?」

「はい……まあ、あまりお気になさらず……」

 すっかり萎縮しきっている様子に、かえってこちらが悪いことでもしてしまったかのような気分になりながら、答えた。

 僕は彼女に目の前のソファに座るよう促すと、サチに飲み物を持ってくるよう頼んだ。

 おずおずとソファの一番端に座った女は、再び僕の前で深々と頭を下げた。

「お初にお目にかかります。あの、私、南条淳之助博士が在籍しておられた海洋地質考古研究所で研究員を務めております、深浦かづえと申します。以後、どうぞお見知りおき下さい……。あ、それで……」

「深浦さん、ですか……?」

 父の研究所での知り合いなら、葬儀の時に結析子が顔を合わせているのではと思ったが、自分から初対面だと言うのだから、そうではないのだろう。

 深浦かづえの対面に座りながら結析子の様子をうかがってみたが、やはり心当たりがないらしく、不審げに首を横に振る。

 深浦かづえは、男物かと疑うほどに地味な灰色の洋服を着て、髪の毛も後ろで引っ詰めにまとめただけで、化粧もしている様子がない。

 その証拠に、妙に大振りの眼鏡のレンズを通して、いくつものそばかすが散っているのがくっきりと見えた。

 年齢は僕とさほど変わらないように見えたが、今の時代に女の身で、ましてこの若さで研究員を務めるからにはかなりの才媛であるはずだが、それにしてはどうにも物慣れない様子がひどく不釣り合いに感じた。

 学究肌が過ぎるあまり、いつしか自分の研究分野のこと以外に気をつかう余地をすっかり失くしてしまったのだろうか。


ーーだが、それはそれで、羨ましい境遇かもしれない。


 なぜか、心の奥でそんな思いがよぎった。

「それで、あの……」

 口ごもっていた深浦かづえは、うつむき加減のまま、僕に向かって話し始めた。

「実は私は、南条博士を直接は存じ上げないのです。私が研究員として採用された時には、既に博士は退職しておられたので……。ですが、博士が研究所にお残しになった論文や試料(サンプル)はすべて拝見いたしまして、ですから、その研究については非常によく存じ上げております」

「では、あなたも父と同じ分野の……」

「いえ、実はそれが、少し……と言いますか、だいぶ違いまして……」

 どう説明したものか、とでも言いたげに彼女は少しだけ口ごもったが、やがて堰を切ったように話し始めた。

「南条博士のご研究は、国内外の海底地質調査を行い、深々度での地質差異を広範囲で比較検討するというものでしたが、私の方はある特定の地域に残る民間伝承と地殻変動の痕跡とのつながりを探索するという、博士が退任後に始まったばかりの歴史の浅い分野なのですが……」

「そう……なんですか?」

 その二つの研究が本当に「だいぶ違う」ものなのかどうか、彼女の話では僕にはよくわからなかった。

 だが、深浦かづえは戸惑う僕には構わずに説明を続けた。

「私は博士が十六年前に行った広域調査の範囲が、私の調査地域と重複していたことを最近になって知りまして、それで南条博士のお書きになった論文や調査記録と、研究所に残しておられた地質標本や試料(サンプル)をすべて逐一付き合わせて精査してみた結果、やはり私の研究に非常に有用であると判明いたしましたのです。ところが……」

 深浦かづえは、運ばれてきた紅茶に口をつけようともせずに語り続けていたが、そこで一層がっくりとうなだれたかと思うと、絞り出すような声で言った。


「……『あれ』だけが、ないのです」


「……え……?」

 困惑するばかりの僕を前にしながら、深浦かづえはまるで僕ではなく彼女自身の内部に確かめるかのように語り続けた。

「博士の調査記録には、ほんの短い記載しか残っていなかったのですが……しかし、『あれ』は間違い無く、私の研究にとって最も重要な、仮説を裏付ける証拠となるべき試料(サンプル)のはず……。なのに、地質研に残された南条博士の試料には、『あれ』だけが、ないのです。これはどう考えてもつじつまが合いません。そうすると、考えられうる答えはただ一つ……」

 それまでずっと、顔をうなだれて語っていた深浦かづえは、急にはっきりと僕の目を見返して、こう聞いた。

「こちらのお宅に、南条博士が研究所に寄贈せず、密かに保管していらっしゃる試料(サンプル)がまだあるのではありませんか?」

「えっ……?」

 眼鏡のレンズのせいなのか、妙に大きく見える彼女の瞳がじっと僕を覗き込んでくる。

「……いや、それはないと思いますが」

 だが、僕は自分の記憶を探り出しながら、深浦かづえの予測を否定した。

「父は退職する際に、自分が得た資料はすべて研究所に寄贈したのです。論文や、その草稿、現地調査で入手したサンプルの実物や写真、データ類をまとめたノートやメモ書きに至るまで、引退する自分が私蔵するものではなく、それらはすべて後進の者の研究に役立てられるべきだからと。ですから、その中にはあなたがおっしゃった十六年前の調査で得られた資料も全部含まれているはずです」

 それは僕がまだ日本にいた頃のことだったから知っている。かなりの分量の荷物が、父だけでは手が足りずに杉野や橋本もが手伝って、何日もかかって運び出されていったのだ。

 だが、僕の説明にうなづきつつも深浦かづえは納得していなかった。

「はい、よく存じております。だからこそ、私は先ほど申しましたように、南条博士が残した資料をひとつ残らず、全部、詳細に調査いたしました。ですがーー」

 テーブルの上で冷めてゆく紅茶には目もくれず、じっと膝の上で重ねていた両手を、彼女は固く握り締めた。

「それでも、それだけが、どうしても見つからない。ひとつだけ……。ですから先ほども申しましたように、こちらにまだその試料(サンプル)が遺されているとしか考えられないのです」

「そうは言われましても……ひょっとすると、そのサンプルは現地に取り残されたままになっているのでは……」

「いえ、ありえません。確かに『あれ』は、何らかの形で持ち帰られているはずなのです。すべての調査、計算、測定の結果が、それを示しています」

 思いつきのままに述べた僕の仮説を、彼女は自信に満ちた口調で退(しりぞ)けると、小柄な身をさらに乗り出して言いつのった。

「他のものはどうでもいいのです。私が探しているのは、ひとつだけ……。何か、お心当たりがございましたら、是非ともお教え頂きたく」

「ちょっと待ってください」

 小心で控えめそうな外見からは想像できないような、勢い込んで畳み掛けるかづえの言葉を僕は遮った。

「失礼ですが、あなたは先ほどからこの件について、一番肝心のことを何もおっしゃっておられません」

 感情のままに訴える深浦かづえに引きずられないよう、あえて僕は声を抑えて彼女に尋ねた。

「あなたがおっしゃる試料(サンプル)とは……、『あれ』とは、一体どういった物なのですか?」

「えっ?」

 何か思いもよらないことでも聞かれたかのように目を見開くかづえの様子に、僕はますます面食らったが、そのまま質問を続けた。

「海底の地質調査で得たということは、例えば、岩石だとか、地層の一部をくり抜いた標本だとか、あるいは化石とか、そういった物なのでしょうか?」

「え、ええ……と……」

 再び、深浦かづえはおどおどと目を伏せ、口ごもった。

「……まあ、大体は、……そういった類(たぐい)の物だと思っていただいて結構かと……」

「え?」

 彼女の曖昧すぎる答えに、僕は再び面食らった。

「そういった類、と言われても……、例えば大きさとか、色や形はどういう……」

「……それは、あの、非常に申し上げにくいのですが」

 それまで自信に満ちて言い立てていた深浦かづえの声が、急に弱々しい響きに変わっていった。

「で、ですが、おそらく申し上げてもお分かりいただけないと思うので……。でも本当に、本当に重要な、間違いなく世界に二つとない希少な試料(サンプル)で、見ればすぐに『ああ、これか』とお判りいただけるはずだと……」


ーーこの人は、いったい何を言っているのだ?


 他人に探し物を依頼するのに、実際のそれがどんな外観をしているかすらも伝えずにただ探して欲しいなどと、そんな頼み方が通用するなどとなぜ思えるのだろう。

 しかも、「言っても分かってもらえない」と言ったそばから、「見ればすぐにこれだと判るはず」

など、言っていることが矛盾しているとしか思えない。

 それなのに、彼女自身がそのことをおかしいと思っていないことが、僕には驚きだった。

「そんなに重要なものだったのなら、研究者である父が気づかないはずはないでしょうし、それならばなおのこと、父のことですから必ず研究所に寄贈していると思いますが。本当に、もうこの家には、そういった類の父の遺品はないのです」

 それまで膨大な量の論文やノートや覚書などでいっぱいだった父の書斎が、すっかり空になってしまったのを僕ははっきり覚えている。

「いえ、それは先ほども申しましたように、私の手がける研究は最近のもので、南条博士は全くご存知でない分野ですから、お気づきにならなくても不思議ではないかと……。おそらくは他の、なんでもないような私物の中に紛れ込んでしまっている可能性が非常に高いと私は考えております。それで……」

 深浦かづえは、また俯き加減に言い淀んでいたが、僕にこう尋ねた。

「……あの、もしかして、南条博士は十六年前の調査からご帰国された時に、変わったものをお持ち帰りになってはいらっしゃらなかったでしょうか? 何か、そういったものをご覧になりませんでしたか?」

「いや、そういったものは特に何も」

 だんだんと、深浦かづえの話しぶりに言いようのない訝(いぶか)しさを覚えていた僕はそっけなく答えた。

「では、そちらのお嬢様は? 何かお見かけになっていらっしゃいませんでしょうか?」

「えっ?」

 それまで完全に会話から除外されていた結析子は突然、深浦かづえに質問の矛先を向けられて戸惑いの声を上げた。

「何か少しでも、お心当たりは……なんでも、なんでもいいのです」

 だが、かづえは全く斟酌(しんしゃく)せず、質問を続けた。

「あの、私……」

「妹は何も知りません。知るはずもない。その頃は、この娘(こ)はまだ生まれたばかりだったのですから」

 戸惑う結析子の答えを僕が引き取って、かづえに言った。

「え……?」

 だが、その答えは深浦かづえに、それまでとは全く違う衝撃を与えていた。

「あの……では……もしや、そちらのお嬢様が、十六年前に現地でお生まれになったという……!」

 深浦かづえは両手を口元に当てて息を吸い込み、結析子を見た。

 大きな眼鏡のレンズの奥で、瞳孔が一層大きく見開かれ、彼女は車椅子に座ったままの結析子の姿を頭の先から爪先までまじまじと見つめ続けた。

「え……」

 その凝視を浴びて、結析子は車椅子の上で身をこわばらせた。 

「……あの、ごめんなさい、お兄さま、私……」

 何かの救いを求めるかのような目を僕に向け、結析子がか細い声をあげた。

「あ……」その声に胸を突かれたように、僕ははっとして、深浦かづえに言った。

「すみません、妹は生まれつき病弱の上、突然父を亡くした心労もあって、ここ最近ずっと体調がすぐれなかったのです。ようやく、昨日あたりから起きられるようになったばかりで、疲れが出てしまったようです。大変申し訳ないが、今日はこれで失礼させていただいて……」

「えっ……? ですが、あの、本当に貴重な、重要な試料でして」

「それはもう、お話をお伺いしてよく分かりましたので」

 なおも食い下がろうとするかづえだったが、僕は丁重に、だが毅然と彼女の言葉を遮った。

「近々、父の遺品は全て整理する予定ですから、その際に、お申し出があったような物が見つかりましたら、必ず深浦さんに連絡を差し上げます。……申し訳ありませんが、今日はこれでお引き取りください」

 僕はかづえと目を合わせずにソファから立ち上がり、会見の終了を告げた。

 控えていたサチが扉を開け、客人に退出を促す。

 深浦かづえは、諦め難(がた)そうに僕と結析子とを代わる代わる見比べていたが、期待する反応が得られそうもないと知ると、サチに案内されて悄然と部屋を出て行った。

 ドアが閉ざされ、僕と車椅子の結析子と、手つかずの紅茶だけが部屋に残された。

 ほうっと、大きな吐息が僕の背後から聞こえた。

 振り返ると、青白い顔の結析子が目を閉じて車椅子の背もたれにぐったりと寄りかかり、かろうじて体を支えていた。

「大丈夫かい?」

 結析子のそばに屈み込み、顔を覗き込む。僕の声に、小さく結析子はうなづいた。

「僕が悪かった。あの人とは、僕一人で会うべきだった」

「お兄さまは悪くありませんわ」うっすらと目を開いて、結析子が僕に囁いた。

 微笑みかけようとする表情が、かえって僕の胸を痛ませた。

「いや……」

 結析子の後ろに回り、車椅子のハンドルをつかむ。

「部屋に戻ろう。夕食まで、しばらく休むといい」

 ハンドルを押し、ゆっくりと車椅子を進ませながら、そっとため息をついた。

 結析子に聞こえないように。

「はい……」

 だが、結析子は車椅子の上から僕の方を振り返り、また少しだけ微笑んで見せた。


     *     *     *


 食堂で一人で夕食をとった後、小説を一冊読み終えて、気がつくと既に夜更けだった。

 眠る前にまた少し書こうかと、自室に向かう廊下へ出ると、二階への階段の前に車椅子があった。

「結析子?」

 車椅子に乗った結析子が振り返る。

「具合はどうだい?」結析子のそばへ行き、声をかける。

「ええ、一眠りしたら、ずいぶん楽になって」穏やかな笑みを浮かべて結析子が答える。

 確かに、深浦かづえに会った時と比べると顔色も良くなっているようだった。

「食事は?」

「サチが部屋にスープを持ってきてくれたのをいただきました」

「そう……」

 懸念していたよりもずっと早く回復している結析子の様子に、僕は内心で安堵の息を吐(つ)いた。

 その結析子が、こんな夜遅くに一人で廊下に出て、車椅子の座面から身を乗り出さんばかりにして二階の方を伺っている。

「どうかした?」僕は問いかけた。

「ピアノを……」

「え?」

「そういえば、もうずっと弾いていないと思って……」

「ああ……」

 車椅子の隣にかがみ込んで、僕も上階を見上げる。

 もともと結析子の居間や寝室などはすべて二階にあり、ピアノもそこに置かれていた。

 父は結析子が幼い頃からピアノ教師を呼んでレッスンを受けさせていたが、結析子の体調が芳しくなくなるうちに、次第にそれも間遠になっていったようだった。

 やがて、結析子の歩行が困難になるにつれて、階段の上がり下りをしなくても済むように家具や調度類を階下に降ろし、今では車椅子のまま一階で普段の生活ができるようになっていた。

 だが、ピアノだけは動かせずに二階に残されたままだったのだ。

 失ったものを懐かしむように、結析子は階段の先を眺めている。

 その横顔に、僕は尋ねた。

「弾きたい?」

「えっ?」

 意外なことを聞かれたかのように、結析子が僕を振り返る。

「ここで待っていて」

 車椅子の結析子をその場に残して階段を上がり、廊下を進む。

 ピアノのある部屋は結析子の元の寝室の隣、二階の一番端だった。

 部屋には鍵はかかっていなかった。

 そっとドアを押し開け、明かりをつける。

 結析子のピアノがまだ室内に置かれているのを確かめて、僕はドアを開けたまま足早に一階へ戻った。

 階段下で結析子は待っていた。

「行こう」

 結析子の身体と車椅子の間に両手を差し入れ、抱き上げる。

「あ……」かすかに、結析子が驚きの声を上げる。

 一瞬、恥ずかしげに結析子は身をこわばらせたが、そのまま、僕の腕に軽い体重をゆだねた。

 妹を両腕で抱きかかえたまま、ゆっくりと階段を上がり、ピアノの部屋に向かう。

 開け放したままのドアから室内へ入る。

 腕の中の結析子がかすかなため息を漏らす。

 ひんやりとした部屋の中央で、黒い優美な曲線を帯びたグランドピアノが静かに、僕と結析子を待っていた。

 そのまま、ピアノの前まで進み、そっと結析子を椅子に座らせる。

 鍵盤を閉ざす蓋を、僕が開けてやった。

 白と黒の鍵盤が、行儀の良い人形のように等間隔に並んでいる。

「まあ……」

 白く細い手を、結析子がピアノに差し伸べる。

 ふと、僕を振り返り、尋ねる。

「弾いてもいいの?」

「ああ」躊躇なく、答える。

 こんな夜更けだったが、僕が思いやってやるべき相手は結析子の他にはいなかった。

 ほっそりとした右手の指先が、白鍵の上に落ちる。

 ぽつり、と、澄んだ音色が静寂の中にこぼれる。

 そのまま、こつん、こつん、と高い音がいくつか連なって流れる。

 今度は左手も伸ばして、やや低めの音を重ねてゆく。

「音は狂っていない?」

「ええ、たぶん」

 結析子はピアノの音と自分の指の動きとを確かめるようにしばらく爪弾いていたが、少し離れたところにある小さなテーブルの上を指差した。

「あれを取って下さる?」

 テーブルに置かれていた青い表紙の楽譜を取り、結析子に手渡す。


『ドビュッシー 月の光』


 受け取った結析子はぱらぱらと譜面を眺めていたが、一番最初のページを開き直して譜面台の上に置いた。

「まだ指が動くかしら」

 小さくつぶやきながら、結析子は譜面に綴られた音符を指でそっとなぞっていたが、おもむろに鍵盤に手を下ろし、ゆっくりと旋律を奏で始めた。



 夜空を覆う雲が途切れ、隙間から月明かりが覗くように、ピアノの音がゆるやかに溢(こぼ)れてきた。

 ゆっくりと連なり始めた旋律は、最初はためらいがちに夜のしじまの中を流れていたが、やがてその静けさに馴染むように、部屋の空気をそっと響かせた。

 極めてしとやかな乙女が、伏し目がちに恋人のそばに控えるように。

 なごりの氷が春先に溶け、透明な雫が滴(したた)るように、月の面(おもて)からほの白い光がこつこつと落ち、暗い地上をひそかに照らし出す。

 澄んだ音色が僕の鼓膜を震わせる。

 優雅に譜面を舞う音符たちが結析子の手によって響き合う。

 白鍵と黒鍵の上を渡るように、細い指が旋律を紡ぐ。

 いとおしむように鍵盤(キイ)を撫でる動きがハンマーに伝わり、弦をやわらかく響かせる。

 足でペダル操作ができないので、細やかなニュアンスの表現は出来ていないのかもしれないが、僕には全く気にならなかった。

 むしろ、素(す)のままのピアノの音が直(じか)に響くのが心地良いような気さえした。

 楽譜の上を戯れる音符の連なりが、夜の中にこぼれ落ちる光を奏でてゆく。

 なだらかな肩と腕が奏でる情景が、僕の眼前に描き出される。

 波のように揺らめく響きの中に、どこか心地よい涼やかさを乗せた調べは、まさに暗い夜をやさしく照らす月明かりそのもののように、僕たち二人だけの空間を満たしていった。


 そっと立ち上がり、窓に歩み寄る。

 もう何年も閉ざされていたであろうカーテンを静かに開ける。

 窓の外はまさしく、ドビュッシーがピアノに託した音の描き出す月夜の光景だった。

 明るいクリーム色の光がくっきりと、夜空をまるく切り取っている。

 おぼろな雲の縁が月明かりを受けて微(かす)かに光る。

 並んだ庭木が光に照らされ、黒い影をぼんやりと地上に伸ばす。

 ふと見れば、室内の明かりを反射して、ピアノを奏でる結析子の姿が窓ガラスに写っている。

 夜色のピアノの上に、ささやかな光が落ちてくる。


ーーそれを呼んでいるのは、結析子だ。


 やがて旋律は、きらめきを響かせながら月明かりの階段を昇り詰めてゆく。

 暗い夜空をひそやかに照らしながら上昇する音色がまるで見えるようだ。

 やさしい月の光が静かに耳もとで囁き、歌う。

 ため息のような月明かりが僕の心を優しく撫でるのがはっきりわかる。

 流れるピアノの音が僕の背に寄り添い、そっと抱きしめる。

 このやわらかな音に包まれたまま、眠ってしまいたい。

 目を閉じて、聞き入る。


 ゆっくりと音が歩き始める。

 いや、歩いているのは、結析子ではないか。

 夜空の下を、月明かりを浴びて。

 白く、ほっそりとした腕がしなやかに伸びる。

 小さな足が、やわらかな草地を踏んで、夜の中を踊るように歩む。

 透き通るかけらのような月の光が、静かな夜の空気を響かせながら降る中を。


 そうか。

 これは結析子の音だ。

 結析子の内なる音と、光のーー



 がらり、と不協な和音が、優美な旋律を突如断ち切った。

 はっと振り返ると、鍵盤の上に結析子がうつ伏せに倒れ込んでいた。

「結析子!」

 急いでそばに駆け寄る。

 ピアノを抱きかかえるかのように左腕を投げ出して倒れている結析子を助け起こす。

「……お兄さま」

 僕に抱かれた結析子がうっすらと目を開く。

「大丈夫か?」

「ええ……。少し、目眩がしただけ」

 白い顔の結析子が答える。

 かすかな声で。

「部屋へ戻ろう」僕も小さな声で答えた。

「昼間も、そうおっしゃったわ」ため息のような結析子の声が溢(こぼ)れる。

「ああ……そうだね」椅子の上から結析子を抱きかかえながら、僕も思い出した。

 蓋が開いたままのピアノも、譜面台の上の楽譜も、室内の明かりもそのままにして、部屋を出る。

 階段を降りる間も結析子はじっと目を閉じていたが、心なしか、二階へ上がった時よりも固く僕にすがり付いてくるように感じられた。

 階段下にはまだ車椅子があった。

 だが、僕はそれを無視した。

 硬くて冷たい器具に結析子を委ねることを僕は拒否した。

 結析子も、それに気づいたかもしれない。

 か細い腕が、いっそう強く僕の肩に重みを伝えてくる。 

 白く小さな顔を僕の胸に埋(うず)めるように。

 その寄り添ってくる体温が、いとおしかった。

 結析子を抱いたままの手でドアを開け、寝室に入る。

「着替えた方がいいのでは? サチを呼ぼうか」ベッドの上にきちんと用意された寝巻きを見て、尋ねる。

「いいえ、このままでいいわ。こんな夜更けに起こしたら、サチが可哀想」結析子は目を開けて、答えた。

「そう……」部屋着のままの結析子をそっとベッドに寝かせ、畳んであった寝巻きをテーブルに移してから布団をかけてやる。

 ベッドサイドの明かりだけをつけておき、足早に車椅子を取りに戻る。

 朝になったら結析子が一人でも乗り移れるように、ベッドのすぐ脇に横付けにした。

「これでいいかい?」

「ええ、お兄さま」

「気分はどう? ……僕がピアノの部屋に連れて行ったりしたから、無理をさせてしまって、すまなかったね」

「いいえ、そんなこと。……だって」

 ベッドに横たわったまま、結析子が首を横に振って、それから呟いた。

「えっ?」

「……いいえ、何でもないわ……」

 何か言いかけた結析子だったが、そのまま目を閉じて言葉を途切れさせた。

 薄暗い寝室の中に沈黙が落ちた。

 枕元を照らす小さな明かりを受けて、結析子は大きく吐息をついた。

「ああ……でも、せっかくいい心持ちで弾けていたのに……」

「うん。とても、上手に弾けていたよ」

「本当に? もうずっと弾いていなかったのに」結析子が目を開き、僕を見る。

「ああ。本当だよ」

 額に落ちかかる前髪をかき分けてやりがながら、頷く。

「……よかった」大きな枕に埋もれながら、結析子も頷いた。

 あどけない微笑みで。

 僕ももう一度頷いて、笑みを返す。

「じゃあ、今日はもうおやすみ」

「おやすみなさい、お兄さま」

 もう一度頷いて、結析子は目を閉じた。

「よかったわ、本当に……ずっと、お兄さまに……」

「え……?」

 囁くような結析子の声に耳をすませたが、その言葉の続きはなかった。

 やがて、いくばくもなく、小さな唇から安らかな寝息が聞こえ始める。

 しばらくの間、その寝顔を見守る。

 留学前は、ここまで強い庇護感情を結析子に対して抱くことはなかったように思う。

 結析子もまた、仲の良い兄妹だったとはいえ、こんな風に切実にすがってくることもなかった。

 あの頃の結析子は病弱とはいえ、時々は出歩くこともできていたし、今のように寝付いたままになることも、これほどまでに多くはなかった。

 時には無邪気に振る舞う姿が、僕や家の者たちに明るい気分をもたらしてくれたものだった。


ーーでも、今は……。


 僕の目の前で眠る結析子は、まるでわずかな風にも壊されてしまう儚い硝子の人形のようだった。

 まだ十六歳だというのに突然父を失い、産みの母もすでに亡(な)い。

 世話をしてくれる使用人も減り、体も思うように動かせなくなりつつある結析子が、兄である僕に切実に庇護を求めてくるのは自然なことのように思えた。

 だとしたら、そんな結析子に対してでき得る限り応えてやりたいと感じるのも、当然なのではないだろうか。


……兄として。

 

 ベッドのそばを離れ、寝室から出る。

 音を立てないように細心の注意を払ってドアを閉じる。

 そのわずかな隙間からもう一度だけ妹の寝顔を確かめた。

 

ーーそう、妹だ。


 父も母もいない今となっては、唯一の肉親であり、血の繋がった兄として守ってやるべきたった一人の大切なーー。

 閉ざされたドアに背を預け、寄りかかる。

 自分の両手を見つめる。

 だが、その温もりは今、ここにはなかった。

 大きくひとつため息をつくと、僕は肩を落として、薄暗い廊下を自分の寝室へと向かっていった。


    *     *     *


 翌朝の結析子は、昨夜の儚げな風情をうかがわせない良好な容体だったので、僕は予定していた通りに杉野の見舞いに行くことにした。

「もう少し元気になったら、一緒に行こう」

「はい」

 ほんのり頬に血色のさした結析子に見送られ、橋本の運転する車で屋敷を出た。

 細い道の入り組んだ下町に、杉野が娘夫婦と暮らす家はあった。

「あれは……」

 狭い路地を慎重に車を走らせていた橋本が声を上げた。

「あ……」

 板塀の続く路地の先、古びた門前に小さな人影が見えた。

 杉野だった。

 もともと背の低い方だったが、それにも増して背中が曲がり、記憶の中にいたよりもずっと小さくなったように見える。

 何時(いつ)からそこで待っていたのか、杖にすがるようにして、それでもしっかりと立っている。

 おそらく娘なのだろう、中年の女性がすぐそばに付き添っている。

 橋本がその門前に車を静かに止めると、杉野は白髪がわずかに残るだけの頭を深々と下げた。

「誠に申し訳ございませんでした、修一さま」

「杉野……」

 車を降りた僕が声をかけても、杉野は顔を上げようとしなかった。

「修一さまがご不在の間は、旦那様とお嬢様をしっかりお守りするのが家礼である私の役目でしたのに、このような不甲斐ない有り様で……」

「なにを言っているんだ、杉野。不甲斐ないのは僕じゃないか」

 すっかり小さくしなびてしまった杉野の肩に、僕はそっと手をかけた。

 他家(よそ)と比べて主家と使用人との垣根が低い我が家の中でも、杉野だけは頑なに、従僕としての矩(のり)を越えることはなかった。

 だが同時に、いつまでたっても南条の後継ぎらしからぬ「不甲斐ない」僕を、時に厳しく諫(いさ)めたのも、また他ならぬ杉野だった。

「いいえ、いいえ」

 だが、杉野はますます顔をうなだれたまま、途切れることなく僕に詫びの言葉を述べ続けた。

「旦那様のご臨終にも、ご葬儀に参列することすらできず、お父上を亡くされた結析子お嬢さまの支えにもなれず、誠に、誠に情けなく……」

「お父さん、こんな玄関先で長々とお詫びを申し上げても、かえって失礼じゃありませんか。ともかく上がって頂いて……」

 杉野の娘がとりなして、僕は中へ招き入れられた。

 客間に案内され、僕は座卓をはさんで杉野と向かい合って座った。

 出された茶を口にしながら、互いに長(なが)の無沙汰を詫び、訥々と近況を語った。

 留学先での様子を聞かれたので、大学での講義や、図書館での文献調査やレポート作成、担当教授から受けた指導などをかいつまんで聞かせた。

 自分としては、内なる好奇心と読書欲をひっそり満たすだけの何ということもない日々を語っただけのはずが、感嘆する杉野の様子が、どうにも気恥ずかしかった。


ーー「箔がつく」とは、こういうことか。


 だが、半身不随とは思えないほどしっかりとした両手で僕の手を握りしめながら「ご立派になられて……」などと杉野に言われると、気恥ずかしさだけではない感情がそっと立ち上がってくるように感じられた。

 けれども、それは本当に自分がひとかどの者になれたのではなく、杉野に「立派になった」と思ってもらえるような、いわば幻想を見せてやることに成功した安堵感だったろう。

 帰り際に、父が十六年前の調査から帰国した時に何か変わったものを持ち帰ってはいなかったか、研究所へ寄贈した物のほかに資料が残ってはいなかったかと聞いてみたが、杉野は覚えていないと詫びた。

「寄る年波には勝てぬと言いますが、本当に情けないことで……」

「いや、もう随分と昔のことだし、無理もないよ。おかしなことを聞いたりして、すまなかったね」

 再び、門前で杉野に見送られて、僕は帰りの車に乗った。

 帰路の車中で、僕は橋本にも同じことを尋ねたが、やはり橋本も心当たりはないようだった。

「しかし、またどうして急にそのようなことを?」

 不思議がる橋本に、僕は昨日訪ねてきた深浦かづえのことを話した。

「……それはしかし、なんだか妙な話ですね。結局、その研究員の方が何を探しているのかも、まるでわかりませんし」

「うん……。ただ、深浦女史の言っていたようなものがあるならある、無いなら無いと、はっきり先方に知らせてやった方が良い気がするんだ」

「そうでしょうか? 大体、あくまでも旦那様の私物なのですから、わざわざ調べて、教えてさしあげるすじでもないように思いますが。……まあ、修一さまはお優しいですから」

「いや……」


ーー優しさなんかじゃない。


 橋本には、僕が深浦かづえのためにそうしたがっているように見えたのだろうが、僕にとっては教師から押し付けられた何の面白みもない課題をさっさと終わらせてしまいたい気分とさして変わらなかった。

 さしあたって、父の私室を整理しがてらそれらしきものが紛れていないか確認してみようという気になったのも、そんな後ろ向きな動機でしかなかった。

「しかし、旦那様の遺品を調べると言っても、かなりの量がありますよ。私もお手伝い致しましょうか?」

「そうしてくれるかい?」

 自宅に帰り着いて車を降り、橋本と一緒に屋敷に入ると、廊下にサチがいた。

「あ、お帰りなさいませ」

 ちょうど客間から出てきたところらしく、一人分の紅茶が盆に乗っている。

「誰か、お客様が?」

「はい、あの……」サチの持つ紅茶セットからは、まだ温かい湯気が上がっていた。

「実は、昨日の深浦様が、またいらっしゃいまして」

「えっ?」さざ波のような不安が、僕の胸をかすめた。

「修一さまはご不在だと申し上げたのですが、どうしても、もう一度お尋ねしたいことがあるとおっしゃるので、修一さまがお戻りになるまでこちらの客間でお待ちいただくようにご案内したのです。ところが、お茶をお持ちしましたら、お部屋にはいらっしゃらなくて……、一体どちらへ行かれたのか……」

 困惑するサチの横をすり抜けて、僕は客間へと向かった。

 ドアを開けて室内を見渡すが、誰もいない。

 からっぽの応接セットがそこにあるだけだった。

 かすかな沁(し)みが水の中に広がるように、不穏な色がじわりと僕の中に落ちる。

「結析子は?」振り返り、サチに聞く。

「寝室でお休みのはずですが……」

 無人の客間に背を向けて、結析子の寝室へ向かう。

 サチと橋本も後に続いた。

 足早に廊下を進み、突き当たりを曲がる。

 いくつか並んだドアの一つが半分だけ開いている。

 結析子の寝室だ。

 ぎくりと息を吸い込んだ僕の耳に、言い争う声が飛び込んできた。

「……もう、貴女(あなた)しか手がかりがないんです。お願いします、一緒に来てください。私と一緒に、あれを探しに……」

「やめて……、やめてください……!」

 切羽詰まった結析子のか細い声に、僕は駆け出した。

「修一さま!」

 置き去りにされた橋本とサチも後を追ってきた。

 半開きのドアを大きく開け、室内に踏み込む。

「結析子!」

 寝室にいたのは結析子と、やはり深浦かづえだった。

 ベッドの上で上体を起こした結析子を抱きかかえるようにして、無理やり車椅子に乗り移らせようとしている。

「お兄さま!」怯えた表情の結析子が僕を見た。

「何をしているんだ!」

 ベッドに近づき、かづえに向かって怒鳴った。

「ひっ……」

 野暮ったい眼鏡の奥の両眼が大きく見開かれる。

 やや血走った眼が僕に釘付けになったまま、しかし、結析子を抱き起こした両腕はそのまま車椅子へ向かおうとしてーー


「あっ……!」


 結析子のか細い体はバランスを崩し、支え損ねてよろめく深浦かづえの腕をすり抜けて、けたたましい音を立てて車椅子の背もたれにぶつかりながら、雪崩れるように寝室の床に倒れこんだ。


「結析子!」

 人形のように倒れたまま動かない結析子に駆け寄り、抱き起こす。

「あ……」小さく開いた唇からかすかな声が漏れたが、白い顔の結析子の目は閉ざされたままだった。

「わ……私……」深浦かづえは両手で口元を覆い、二、三歩後ずさったところで立ち尽くしている。

 部屋の入り口でいくつもの食器が割れる鋭い音がした。

「お嬢様!」

 紅茶セットを盆ごと取り落としたサチと、その後から橋本がやってきたところだった。

「サチ、矢口医師(せんせい)に連絡を。事故があって、結析子がベッドから転落したと。すぐ来ていただけるように」

「……は、はい」

 小走りにサチが部屋を出て行く。

「修一さま……!」

 入れ替わるように橋本がやってきて、僕と結析子のそばにひざまづいた。

「転落したなどと……一体どうして……」

「その人が……」

 僕は棒立ちの深浦かづえをちらりと見たが、すぐに目をそらして、答えた。

「ベッドから無理やり車椅子に乗せようとして、落ちた。……結析子は、嫌がっていたのに……」

「そんな……! なんて無茶を……」

 立ち上がり、かづえに詰め寄ろうとする橋本に、僕は命じた。

「橋本、その方を駅までお送りするように」

「え?」

 怒りで蒼白になった橋本の顔が僕を振り向く。

 僕は気を失った結析子を抱きかかえたまま、深浦かづえと頑(かたく)なに目を合わせることなく、押し殺した声で告げた。

「今後一切、あなたにはお会いしません。……僕も、妹も」

「……え……?」

 困惑するかづえに、僕は最後通牒を突きつけた。

「二度とこの家には立ち入らないでいただきたい。屋敷の敷地内にも一切、近づかないように。次にあなたの顔を見たときには、警察を呼びます」

「ええっ! そんな……、困ります、私、どうしても『あれ』を……」

 この後に及んで結析子を気遣うどころか、自分の関心だけが大事だとでも言いたげな深浦かづえの態度が、僕の感情を逆なでにした。

「出て行って……」

 深浦かづえに背を向けたまま、僕は一瞬だけ声を詰まらせた。

「出て行ってください……! 今すぐに!」

 僕が声を荒げたのに、橋本が息を飲んだのが聞こえた。

 他人に向かって怒りをぶつけたのは何年ぶりだろう。 

 僕はいま、どんな顔をしているだろう?

 だが、僕は深浦かづえにも橋本にも背を向けたまま。

 結析子も僕に抱かれたまま、目を閉ざしている。

 そっと立ち上がり、結析子をベッドに寝かせてやった。

 ゆうべ、ピアノの部屋からこの寝室へと連れて来た時のように。

 なのに、僕と結析子を取り巻く情景はこんなにもかけ離れてしまったーー。

「で、でも……、あの……」

 どもりながらも、深浦がなおも抗弁しようとロを開く。

「あんた、自分のしたことがまだわからないのか!」

 今度は橋本がかづえを怒鳴りつけた。

「次ではなく、今すぐ警察へ突き出してやってもいいくらいだ!」

 その言葉に打たれたように、深浦かづえはその場にへたり込んだ。

 橋本は、かづえの右手をぐいと摑んで立ち上がらせ、半ば引きずるようにして部屋を出て行った。

 割れた紅茶セットのかけらを腹立たしげに踏み砕く靴底の音が鈍く響いた。

 客間には僕と結析子だけが残された。

 今すぐ警察を、というのは僕も考えたが、深浦かづえがここにいること自体が一瞬たりとも堪え難かった。

 何より、いまの結析子に一番必要なのは警察ではなく医師の手当てだ。

 ぐったりと横たわる結析子の様子をうかがう。

 かすかに開いた唇から漏れる呼吸音は、やや浅く、早い。

 転落した際に、背中を車椅子にぶつけてしまったようだが、頭を打ったりはしていないようだ。

 血の気の失せた顔色で目を閉じた結析子を見下ろして、どきりと気づいた。

 結析子の着ている白いブラウスの胸元に、赤黒い染みがついている。


ーー怪我をしたのか?


 さっき、車椅子の背もたれにぶつかった時か。

 結析子のブラウスのボタンを外そうとして、一瞬、躊躇する。


ーーいや……。


 頭を振り、ためらいを拭い去る。

 僕は何を考えているのか。

 サチはまだ戻らない。矢口医師が来るのにも時間がかかるだろう。

 怪我をした妹の手当てをするのに、何をためらう必要があるのか。

 襟元を飾る黒いびろうどのリボンをほどく。

 手早く上からボタンを一つずつ外してゆく。

 その間にも、赤黒い染みがじわりと大きくなってゆくのがわかった。

 だが。

「……あっ……」

 胸元の近くまでブラウスの前を開いたところで、僕は手を止めた。

 右手がぎくりと震え、息を飲む。

 結析子の服を赤く染めていたのは、血ではなかった。

「これは……」

 濡れているのではなく、光っている。

 白い服の下にある、なにか。

 ブラウスの内側で赤黒く光るなにかが、薄い布地を輝かせている。

 だが、いったい、何が。

 動揺を押さえ、確かめる。

 ブラウスの下の肌着に手をかけ、そっと前を開く。

「えっ……?」

 絶句して、目を見張る。

 生まれてから一度も日に焼けたことのなかった結析子の白い肌の胸元に、妖しい光が宿っている。

 ちょうど僕の手のひらと同じくらいの大きさだろうか。

 薄い紙の下に隠されたランプの明かりが漏れるように、透けるような肌の内側に赤黒い光が灯っている。

 ぼんやりと赤いその光は、蝋燭(ろうそく)の炎のように、結析子の胸元で不安定にゆらめいている。

 これは一体なんだ?

 あやしい光の輝きは、だんだんと強さを増しているように見える。

 その異様さから、目を離すことができない。

「……これは……」

 突然、かすかに硬い音がして、結析子の皮膚が割れた。

 僕の目の前で。

 正中線上にまっすぐに、裂け目がひとすじ走る。

 そこから真横に、やがて八方にひび割れる。

 人間の肌が立てるとは思えないような、乾いた軽い音を響かせながら。

 割れ目が少しずつ広がって、そこから赤黒い光が差してくる。

 薄いナイフが切り開くように、赤く揺らめく輝きが漏れ出(いず)る。

 だが、それは。


「あっ……」

 

ーー生まれる。


 打たれたように、何故かそれが判った。

 白くなめらかな殻を割って外界に生まれ出る雛のくちばしのように。

 不連続な断面の一部をのぞかせながら、裂け目から出てくる。

 徐々にひび割れを押し広げながら、しかし、そこからは一滴の血もこぼれることなく。

 白い肌を内側から盛り上がらせながら隙間を押し開け、芽吹く。

 裂け目がついに完全に開いて、『それ』の全体があらわになる。

 僕の眼の前で。

 声にならない呻(うめ)きが、僕の喉から漏れた。

 一瞬、遅れて心臓が激しい拍動に変わる。

 打たれたように腕が引きつり、血の気が引く。

 どっと冷たい汗が背筋を濡らして止まらなくなる。

 息が出来ない。

「結析子……!」

 丁度その時、結析子が目を開いた。

「……お兄さま……」

 うつろだった瞳が、僕に焦点を合わせる。

「私……どうしたの……?」 

 だが、僕は答えられなかった。 

 ベッドに横たわる結析子に半ば覆いかぶさるようになっている僕を見つめて。

 かけてやるべき言葉を亡くした僕の前で、結析子は僕から目をそらして。

 目線が、自分の胸元に落ちた。

 そっと開かれた肌着の隙間からのぞいている『それ』にーー。


 ちょうど僕の握り拳の半分くらいの大きさの、赤黒く透き通る結晶が、二つの柔和な曲線の真ん中に半ば埋め込まれるようにして突き刺さっている。

 だが、それはただの結晶ではなくーーもちろん、こんな異常なものが、ただの『何か』であるはずもなかったがーーこうして見ているうちにも、不規則なカットを施した宝石のような結晶形が少しずつ形を変え、内側から照らし出す赤黒い光は、一瞬たりとも揺らめきを止めることがない。

 呼吸か、鼓動のように。


ーーそうか。


 やはり、これは生きている。

 まるで極北の海に浮かぶ氷山のように、不揃いな断面を光らせた異質な結晶が、時にぐるりと向きを変えながら、結析子の体内から僕達きょうだいをじっと見返しているーー。

「ーーああ、わかりましたわ。お兄さま」

 しばし、それを見ていた結析子が、僕を見つめて言った。


「先ほどの方が……あの方が探していらしたものは、『これ』です」


「……結析子……」

 自分の体が、そんな『もの』を宿らせているのを目の当たりにしているというのに、結析子の表情はなぜかとても平静だった。

 むしろ、ずっと自分の心を覆っていた灰色の薄靄(うすもや)が腫れて、やっと遠くが見渡せた時のような、透き通った目をしていた。

 だが、その靄が消えた後に僕と結析子の目の前に広がったのは、それとは到底比べ物にならないほどの奈落の深淵でしかなかったーー。

「いつから……」かすれた声で、僕は結析子に問いかけた。

「え……?」

「結析子……、『これ』は、いつからだ……?」

 こんなものに結析子が浸食(おか)されていたなら、主治医の矢口医師が気づかない訳がないだろう。


ーーいや、そうじゃない。


 矢口医師も、父も継母(はは)も、誰も気づくはずのない、気づきようもないかたちで、これはずっと密かに結析子の体の奥深くに宿っていたのだ。

 十六年前ーーすべての始まりから。

 それが、何故かはっきりと理解できた。

「そうです、お兄さま」

 結析子も僕にうなづいた。



「私がこの世に生まれる前から、『輝くトラペゾヘドロン』は、ずっと私の中にあったの」



 その名を結析子が口にした途端。

 ぎらり、と睨みつけるような音を立てて、激しい光が結晶からほとばしった。

 赤黒い閃光が僕と結析子を包み込む。

「あっ!」

 眩しさに、思わず目を閉じる。

「ああっ……!」

 結析子の悲鳴が部屋に響きわたる。

「結析子!」

 峻烈な光を片手をかざして遮りながら、かろうじて目を開く。

 灼けつくような結晶の光は、まだ結析子の胸元にあった。

 いや、それはもはや、そこだけに留まってはいなかった。

「結析子……!」

「ああ……」

 僕の目に映る結析子の姿は、赤い輝きに侵されていた。

 先ほどまで妖しい蟲のようにに蠢いていたトラペゾヘドロンは、赤黒く光る細い結晶状の触手を四方八方にずるずると伸ばしている。

 まるで宿主から貪欲に精気を吸い取るように、ぎらぎらと、その触手は僕が見ている間にも侵食を続ける。

「い……や……」結析子が苦痛にか細い悲鳴をあげる。

 今や、輝くトラペゾヘドロンは巨大な蜘蛛のように、結析子の上半身を鷲掴みにしていた。

 背中まであった結析子の豊かな髪は黒い艶やかさを失い、赤い輝きを放ちながらみるみるうちに更に長く伸びてゆき、うねりながら辺りを覆い尽くして行く。

「結析子……?」

「お兄……さま……」

 苦悶の表情で結析子が僕を見つめる。

「私……どうなってしまうの……?」

 かすれた声で僕を呼び、赤黒い触手に絡みつかれた手を差し伸べる。

「結析子!」

 その手に触れた途端、赤く灼けた鉄鎖に打たれたかのような衝撃が僕の右手を包み込んだ。

「ああっ!」

 激しく殴られたように僕はベッドの上から突き飛ばされ、床に倒れこんだ。

「お兄さま!」

 結析子が叫んで身を起こそうとするが、体を結晶に押さえ込まれたまま、身動きも取れずに喘ぐだけだった。

「う……」弾き飛ばされた床の上で、かろうじて身を起こす。

 結析子に触れようとした手に、目を落とす。

 僕の右腕は、肘のあたりまでが火に包まれたように赤く焼けただれていた。

「……あ……」

 その光景が、僕の中の何かを一斉に裏返した。

 皮膚と肉が熱く灼かれる激痛が脳髄を刺す。

 その痛みが、僕を逆上させた。


ーーあんなものに。


 言葉にならない声をあげながら、僕は結析子に浸食を続ける赤黒い輝きに向けて掴みかかった。

 結析子の全身を汚(けが)そうとするトラペゾヘドロンに正面から立ち向かい、結晶を引き剥がそうと焼けた右腕を再び伸ばす。


ーーあんなものに結析子を奪われてたまるか。


 その僕の怒りが漏れ聞こえたのか。

 結析子の胸元でトラペゾヘドロンが、ぎろりと蠢くのが見えた。

 次の瞬間、赤黒い衝撃が僕の右半身を殴りつけた。

「お兄さま!」

 結析子の悲鳴が響くのと同時に。

 鋭く平たい刃が、僕の右腕から胸の半ばあたりまでを薙ぎ払っていた。

 結析子の目の前で。

 焼けた腕が切り落とされ、音を立てて床に転がった。

「お兄……さま……」呆然と、結析子が僕を見ている。

 その目線を追うように、自分の胸を見る。

「……あ……」

 真っ赤に焼け付く激痛が上半身に叩きつけている。

 輝くトラペゾヘドロンは結析子の胸元に埋まったまま、ぎらつく結晶の触手を刃のように鋭く伸ばすと、まるで死神が大鎌を振り回すように僕の右腕を簡単に切断し、その勢いのまま胴部にまで食い込んでいた。

 上体を深々と切り裂かれた僕は、身動きも出来ずに横たわる結析子の上に半ば覆いかぶさるようにして、虚空に磔(はりつけ)にされていた。

 腕の切断面からは、ばたばたと激しく流れ落ちる血の音が聞こえる。

 目には見えなくても、恐るべき凶器が僕の背中まで突き抜けている感触がはっきり判る。

 赤黒い結晶は肺を深々と切り裂いて、胸骨のところで一度かろうじて止まったが、なおもじわじわと刃を進めようとしている。

「結析子……」

 金属めいた臭いが辺り一面に満ち、僕の喉の奥からも同じものが溢れ出て、結析子の胸元を真っ赤に染めた。

「いやあっ……!」絹を裂く結析子の慟哭が僕の耳に突き刺さる。

 まだかろうじて結晶と同じ色に染まらずにいた結析子の黒い瞳から、澄み切った珠(たま)のような雫がいくつもこぼれた。

 真珠のように丸い涙の粒はきらきらと流れ落ち、僕の口元や腕から滴(したた)る血溜まりに落ちると、白い煙を上げてじりじりと溶けていった。

「やめて……もうやめて……」

 涙声で訴えながら、結析子が僕に手を差し伸べる。

 だが、その白く美しかったはずの細い腕にも、異様な光が流れる血管のような赤黒い触手が何本も伸びていた。

 そして突然、どっと湧水が吹き出すように、僕の髪がうねりながら長く伸び始めた。


ーーいや、違う。


 これは結析子の髪だ。

 僕の体を通して、つややかに長い結析子の髪が伸びている。

 結晶と同じ赤い輝きの髪が驚くほどの速さと質量とで伸びてゆき、大きな繭のように僕たち二人を瞬時に覆い尽くした。

 僕の肉体は結晶の刃に深々と切り裂かれたまま、結析子と一緒に蛹(さなぎ)のように包み込まれた。

「ああ……」

 身体の内側から無数の牙が齧(かじ)りつき、噛み砕かれる激痛が襲いかかる。

 背中まで深々と貫通しただけに止まらず、トラペゾヘドロンは僕の全身にも輝く硬い触手を伸ばして行き、ずるずると貪欲に僕の体力をすすり上げて行くのがわかった。

 まるで、本当はこんな小娘では全く足りてなどいなかったのだ、とでも言いたげに。

 身体から急速に感覚が奪われてゆく。

 氷の海で溺れるように体が凍え、喘ぐ肺が息を詰まらせる。

 だが、その中でも結析子の顔だけは、はっきりと僕の目の前にあった。

「……結析子……」

 かすれる声で呼びかける。

「すまない、結析子……」

 だが、そこまでだった。

 赤黒い繭に包まれた視界が、闇に霞んで見えなくなる。

「お兄さま……!」

 僕を呼ぶ結析子の声も遠ざかって行く。


 すまない、結析子。

 僕は君を守ってやれない。

 ならば、せめてーー。


 残った左腕と、肩口から少しだけ残った右腕とを、結析子に差し伸べる。

 結析子のしなやかな両腕が、僕の背中に回される。

 か細いけれど、しっかりと。

 僕も、崩れ落ちそうになる意識を奮い起こして、抱きよせる。

 力の限り。強く。

 灼けた刀身が雪の塊を難なく切り裂いて貫くように、トラペゾヘドロンから伸びる刃はいっそう深々と僕に突き刺さっていったが、もう何の抵抗も痛みも感じなかった。


 三年ぶりに再会した、夕暮れ間近の玄関で。

 ドビュッシーの余韻に浸りつつ寝室へと降りていった夜更けの階段で。

 あの時よりも、僕たちの腕はもっと強く、強く、お互いを抱きしめて。


 僕の血管の中を、結析子の血潮が駆け巡り、心臓に至る。

 結析子の涙腺から僕の涙がとめどなく流れる。

 僕の呼吸が結析子の肺を潤し、清浄な生気を巡らせる。

 二枚の折り紙人形が重なり合い、一体となるように。

 すべての表皮が溶け合って、境界を失くす。

 小さな鼓膜が重なりあい、同じ音を聞く。

 あれは何の音だろう?

 思い出そうとしても、思い出せない。

 記憶がおぼろに溶けてゆく。

 ああ、でも、これでいい。

 目を閉じて、確信する。

 輝くトラペゾヘドロンが生み出したこの昏い繭の中にいるのは、僕と結析子だけ。

 この世界にいるのは、二人だけ。

 僕らだけの、世界。


ーーそう。これでいいんだ。


 ずっと、そうだった。

 無意識下で封じようとしていた、茫漠でおぼろな小昏い衝動は、いつの頃からか僕の奥底でうずくまり、深い眠りの中で時折蠢動(しゅんどう)した。

 胎児のように。

 それが今、解き放たれる。

 結析子もまた、ずっとためらいがちに寄せてきた繊細で切実な憧憬を、今こそ、なんの憂いもなく溢れさせ、僕に投げかけてきている。

 それをこうして、抱きしめる。


ーーずっと、聞きたかった。

ーーずっと、聞かせたかった。


 僕の中にある膨大な欠落に、やわらかい指が重なって、そっと寄り添って行く。


 結析子の甘やかな吐息が僕の中に吹き込まれる。

 お兄さまの熱い血潮が私の中を駆ける。

 肉と、意識が混じり合う。


ーーきっと、ずっと、こうしたかったのか。


 僕らは完璧なひとつ。

 私たちは全(まった)きひとつ。 

 そう。

 僕らが求めていたものはーー。


 赤黒く輝く繭は、ひとつになった僕たちを包み込んだまま急速に縮んでゆき、やがて再び小さな結晶に変わり、硬い音を立てて床に落ちた。


 だが、床の上に転がったトラペゾヘドロンの中で、ひとつに溶けた僕たちは底なしの深淵の只中をひたすらどこまでも落ちていったーー。


     *


 海底よりもなお深い、地の奥底には一筋の光も差し込まなかったので、輝くトラペゾヘドロンには何も見えなかった。

 岩盤の片隅から掘り出され、無用の物として削り落とされた後も、偶々(たまたま)行き遭った母胎に宿ってからも、それは同じだった。

 だが音だけは、いつの頃からか聞こえていた。

 トラペゾヘドロンを抱えて生まれた、私には。


 いまや全き一つである僕の耳に、それが聞こえた。

 いまや全き一つとなった私には、以前からずっと、聞こえていた。


 トラペゾヘドロンを持たない僕が抱えていたものは、ではいったい何だったのか。

 世間や他者と対峙するよりも、僕の意識は書籍に書かれた膨大で蠱惑な世界と、とどまることなく脳裏に渦巻く想念の中へと容易に逃避した。

 胸郭の内で迸(ほとばし)る情念は、どう書き連ねても足りずに際限なくうねり、僕を飲み込んだ。

 それが自然だった。

 だが、それがために僕の胸がひどく痛むことだけは分かっていた。

 痛み、軋み、震える思いに翻弄される。

 煩悶するあまりの勢いに押し流され、僕の心は現実を遮断する。

 だが、僕が抱えたものは、何故そんなにも社会を拒絶するのか。

 それほどまでに深刻な、いったい何が僕の内にあるというのか。 

 暗い目で、僕は僕を見つめる。

 怯える胸の内側を。

 だが、ない。

 ない?

 そう、ない。

 どんなに目を凝らしても。

 ただぽっかりと、暗い空隙が虚ろにただ広がっていて。


ーーああ、だからか。


 妙にあっけなく、腑に落ちる。

 そうして気づく。

 あるべきものが、僕にはない。

 他人(ひと)が当たり前のように持ち合わせ、躊躇なく社会を渡ってゆく揺るぎない力も。

 何のぎこちない遅滞もなく人々と交歓し、打ち解けあってゆく術(すべ)も。

 それらが僕にはどこにもない。

 決定的に、欠けている。

 だとすれば僕が抱えているのは。


 それは致命傷のような、欠落ーー。


 結析子は抱えて生まれてきたが、僕は欠け落ちて生まれてきた。

 結析子はそれゆえに虚弱な身体に縛られたが、僕の欠落を抱えた心魂もひどく脆弱だった。

 ごっそりと欠け落ちた広大な空洞はむき出しで、外界と触れるたびに軋(きし)みをあげた。

 胸の奥底で一人うずくまる僕の情動に絶えず響いていたのは、その軋む音だった。

 原稿用紙とノートに際限なく書き散らされた言葉たちは、すべてその深刻な欠如の中から溢れてきた。

 だが僕の中の欠落は、暗さと歪(いびつ)さゆえに表に出すことすらできずに、なお一層深く、他人を遠ざけてゆくだけの頑なな厭世観へと繋がるしかなかった。

 そう。頑なで、ひどく歪(いびつ)で。


ーーああ。


 深い奥底からのため息が、重く響く。

 どうして、こんなにも歪(いびつ)な僕なのか。

 どうして、こんなものを抱えて生きてなどゆけるものか。

 僕の中の深刻な欠落と、それゆえに父がずっと抱き続けた深い憂慮と失意とは頻繁にぶつかり合い、やがてはぶつかり合うことすら僕の方から避けて。

 しかし、その逃避がかえって軋みを増幅してゆくだけの間柄へと歪んでいったのだ。

……いや、父だけじゃない。

 現実との接触は、ことごとく軋みを上げる要因に他ならなかった。

 けれど……。

 それでも、僕は確信していた。


 紛れもなく、これが僕なのだから。

 僕は僕でしか、なかったのだから。

 こんなに大きな欠落を抱えてーー。


 失意が重くのしかかり、僕を奈落へと沈ませる。

 どことも知れぬ深淵の中で、結析子とひとつに溶け合ったまま。

 あるいは、それは僕の抱える深刻な欠損の中ではないか。

 そこから結析子の内なるトラペゾヘドロンへと通じてゆくだろう。

 きっと、そうだ。

 だからもう、これでいい。

 果てない奥底へと墜落する。

 そこへ墜(お)ちてゆく加速度はたまらなく、心地良いーー。


……墜ちる?


 私は目を開く。

 つめたく切り裂く風が私の周囲を包んでいる。

 星ひとつない深淵の只中で、私たちは真っ逆さまに落ちている。

 輝くトラペゾヘドロンに導かれて。

 小さくひとつに溶け合ったまま。

 けれど。


……あっ……。


 かけらが一つ、剥(はが)れて、闇に散った。

 あっという間に小さくなり、見えなくなる。

 黒曜石の塊が、もっとずっと堅い石に打たれて薄く欠けてゆくように。

 ひとつ、またひとつと、私たちから欠片(かけら)が落ちてゆく。

 落下加速度に負けるように。

 その度(たび)ごとに、硬い音が虚空に響く。

 

……もしや、あれは。


 頑なにこわばった互いがぶつかり、傷つけ合い、痛々しく軋(きし)る音。

 トラペゾヘドロンがもといた海底のように深い魂の奥底から響くその音が、小昏い結晶の中で木霊(こだま)する。

 その響きには、聞き覚えがあった。

 ため息と共に、いつも、いつも聞こえていた。

 そうだ。

 あれはお兄さまの心が、魂が、軋る音ーー。

 欠片となって剥がれ落ちてゆくのは、お兄さまだった。


……ああ……!


 世界に身をさらして生きているだけでも、絶えず軋(きし)みを上げながら。

 原稿用紙とノートに書かれてゆく間すらも痛ましく響いて。

 なぜ、それをもっと早く気付いて差し上げられなかったのか。

 ずっと、輝くトラペゾヘドロンが私だけに聞かせてくれていたのに。

 せっかく、こうして私の元に帰ってきてくださったのに。

「いけない……、お兄さま……!」

 欠け落ちてゆく破片に手を伸ばす。

 なのにーー。



 いいんだ、結析子。

 もういい。

 だって、父は死んでしまったのだから。

 父が決して見せなかった痛みと憂慮とに、今さら僕が気づいたところで、どうにもならないのだから。

 それに。


 それにどのみち、僕たち二人がこうして全き一つとして重なり合って生きてゆくことなど現実の中ではできはしないのだからーー。



 かなしく軋る囁きが指の間をすり抜け、虚無の中に消える。

 ああ、そんな……。

 だめよ。だめ。

 必死に伸ばした私の手が、暗闇の中で何かに触れた。

 なめらかな手触りの。

 これは、なに?

 手をかける。

 こつん、と、澄んだ音が響いた。

 ああ、これは。

 もう一方の手も伸ばす。

 今度は低音が重なる。

 白と黒の連なりが、懐かしい音色を響かせる。

 ピアノのやさしい和音が私の耳に届く。

 でも、まだ足りないーー。

……そうだわ。

 

ーーあれを、取ってくださる?


 テーブルの上の青い表紙を指差す。

 優しい手が伸びて、楽譜を手に取る。

 そうでしょう? お兄さまも、聞きたいでしょう?

 白と黒が並んだ鍵盤に、私の指を滑らせる。

 私の記憶の中から手繰り寄せた旋律を奏でる。

 音の連なりに呼ばれたかのように、闇の中にかすかな光が差した。


ーー『ドビュッシー 月の光』。


 そう、お兄さまも聞きたかったのでしょう?

 だからあの夜、連れて行ってくださったのでしょう?

 ピアノの部屋へ。

 だから、今度は私が。

 想いをこめて。

 黒鍵と白鍵につながる機構が弦を響かせ、さやかな音色がこぼれ出る。

 ドビュッシーの描いた旋律が、はるか上空から月明かりを降らせる。

 音階が紡ぎ出す光が、こつこつと積み上がる。

 最初は蜘蛛の糸のように細く、かすかだったものが、ふたすじ、みすじと重なり合い、淡いレースのカーテンのように、底なしの深淵の中で白く光り始める。

 ひとつ、またひとつと、階(きざはし)が重なり、伸びてゆく。

 つややかな音が水晶のかけらのように辺りに散らばり、空虚な闇は徐々に透き通る光で満たされてゆく。

 楽譜に連なる音符はドビュッシーが描いた通りに、やさしくきらめく響きを立ち上(のぼ)らせる。

 やがてそれはピアノの旋律の高まりとともに、はるか上方へと導く月明かりの階段となった。


……これでいい。


 いっとき、鍵盤から両手を離し、胸に当てる。

 二つのまろみのちょうど真ん中に、不思議な輝きが宿っている。


ーー輝くトラペゾヘドロン。


 ほんのりと赤い光が、ろうそくの灯りのようにゆっくりと揺らいでいる。

 そのゆらめきを意識しながら、目を閉じる。

 呼吸を整え、呼びかける。

 さあ、いらして。

 輝くトラペゾヘドロンを介して私と一つになってしまったあなた。

 私の呼びかけに、耳をそばだてているのがわかる。

 離別の痛みと再び生まれ出(い)づる果てしない不安にふるふると怯えているのもわかる。

 だって、今の私たちは全きひとつなのだから。

 でも。

 でもね。

 息を詰め、ゆっくりと指先を胸元に差し入れる。

 水面(みなも)のように抵抗なく、私の手は私の胸にするりと潜り込んだ。


ーーどこ?


 トラペゾヘドロンの内部は、どろりと藻が生い茂る沼のように生ぬるい。

 赤黒く濁った結晶の中を手さぐりで探す。

 どこにいらっしゃるの?

 必死に呼びかけ、答える声はないかと鼓膜に意識を集める。

 どこなの。お兄さま。

 波紋のように広がった呼び声が、何かにぶつかり、はね返る。


ーーあっ……。


 懐かしい匂いに、ほんの指先がかすかに触れる。

 それは思いのほか、近くにあった。


ーー見つけた。


 ああ、やはりいらした。

 こんなところに。

 繊細で、小さな、けれどこの世に二つとない魂。

 まぶしい夕陽のさす階段で、倒れこむ私を支えた優しい腕の。

 胸に抱き締められて階段をのぼったあの夜と同じぬくもりの。

 私の小指の先ほどに。

 さあ、行きましょう。

 爪の先をかすめた感触をようやっと手繰り寄せ、手のひらに包み込む。

 壊れ物を扱うかのように、そっと。

 だがその途端、辺り一面に赫々(あかあか)とした閃光がほとばしった。


ーーあっ……!


 鋭い刃のような奔流がどっと溢れ、私を包み込む。

 私の手と、その中の小さな魂を無慈悲に翻弄しようとする。

 輝くトラペゾヘドロンが、全きひとつを分かつ試みを断固として拒んでいる。

 まるで意思ある者のように。

 凍てつく氷海を割って激しい熱水を噴き上げる海底火山のように、赤い結晶の内部が混沌と渦巻き、荒れ狂う。

 焼けつくように冷たく、凍えるように熱い。


ーーいいえ、いいえ!


 腕を落とされ、胴を半ば離断された痛みに比べれば何程(なにほど)のものだというの。

 自分で自分の身を引き裂き、胸を砕く激痛に必死に耐える。

 お母さまが私を産んだ時もこんなに苦しかったかしら?

 けれど、それでも。

 何としてでも私はあなたを守らねばならないの。

 だから。

 だから、出ていらして。

 お兄さま。


ーー出ていらして……!


 巨大なガラスの柱が砕けるような音がして、私の中から小さな魂(たま)が生まれ落ちた。

 まぶしい光が視界を奪い、一切の音が消える。

 全身を駆け巡る激しい苦痛に消えそうになる意識を、必死でつなぎとめる。


ーーああ……。


 体がばらばらになったかと思うほどの衝撃に、一瞬、すべての認識が遠くなる。

 けれど。

 ほどけて崩れそうになる自我をかろうじて掴み取る。

 ゆっくりと、目を開ける。

 私の体と意識は、まだここにあった。

 見れば、ちょうど私の眼の高さにガラスのように透き通る小さな玉が浮かんでいる。

 その中に、ほのかに白く光る一体の胎児がいた。

 私の頭よりもやや小さい球体の中で、もっと小さな手足を縮こめて、眠っている。


ーーお兄さまだわ。


 目を閉じていても、こんなに小さくても、私にはそれがはっきりとわかった。

 そっと、手を触れる。

 ぴしり、とガラス玉に小さな罅(ひび)が入る。

 かすかな音を立て、触れたところから割れ目が広がる。

 その響きは、かつて数え切れぬほど聞いてきたあの軋(きし)る音に似ているようで、けれどもっと純で、透き通っていた。

 次々と、無数の罅が殻の表面に走る。

 ふるりと、玉の中の児(こ)が小さく震える。

 そして甲高い響きとともにガラス玉が砕けて、その児が生まれた。


ーーああ……!


 目を見張る。

 暗がりを照らす月明かりの中に、お兄さまが生まれ落ちた。

 小さな胎児だったお兄さまは、しばしの間、その場にふわりと浮いていた。

 だが、みるみるうちに手足と身長が伸び、成長して、私の見覚えのある姿になった。

 それはーー。


ーー十歳のお兄さま。


 初めてお会いした、少年の。

 幼(おさ)な子のようにあどけないその瞳が、目の前に現れた階段を見上げる。

 その行き着く先は、はるか上方の夜闇に溶けて、見通すことはできない。

 淡い月光の階(きざはし)の、最初の段に小さな足をかける。

 だが、ふと足を止め、ふり返る。

 私と目が合う。

 その瞳が、かすかに震えている。


ーー大丈夫。


 震えるお兄さまの瞳に、私は微笑みかける。


ーー大丈夫よ。


 この先も、あなたの魂は容赦ないこの世の無情さに軋(きし)るけれども。

 繊細な胸が痛んで、よろめき倒れ、内心に叫ぶことがあっても。

 それでも……。


ーーあなたは、それで生きていいのだから。

 

 その願いが、聞こえたのか。

 十歳のお兄さまは再び前を向き、月の階段を上(のぼ)り始めた。

 一歩ずつ段を上がるたびに背が伸びてゆき、子供からやがて少年を経て、お兄さまは二十六歳のお兄さまになった。

 そうして。

 小さな月明かりと、清らかに降りくる音とが連なる階段を上っていくお兄さまを、私は見送った。

 ぽっかりと胸に空いた空洞を抱えて。

 ただ一人で。


     *     *     *


 かづえが南条邸を最後に訪れてから半月後に電報が届いた。

 研究所内の彼女宛に届けられた文面は短かった。


「オサガシモノアリマシタ ユキコ」


 ひくっ、と異様な声を立てて、その場に立ち尽くしたまま、彼女は何度も何度も電報を読み返した。


ーーやはり、あれはあった。あの家に。


 すぐにでも確かめに行きたかったが、南条修一に「次に来た時は警察を呼ぶ」と宣告された事を思い出し、悶々と時を過ごした。

 翌日、追いかけるようにして手紙が来た。

 白い封筒の裏、たおやかな女文字で書かれた「南条結析子」の署名を見るや、机の引き出しからペーパーナイフを取り出すのももどかしく、かづえは素手で封を引きちぎった。

 震える手で便箋を開き、文面を読み下す。

 内容は、先日の非礼を詫びる言葉から始まって、面会厳禁を言い渡した兄は家督相続の手続きを終えて留学先のロンドンに戻り、使用人たちも全て暇を出したと書かれていた。

 だが、彼女にとって最も、そして唯一重要な内容は、その先だった。

 

「……わたくしの体調も幾分回復いたしましたので、改めて亡父の遺品を精査しましたところ、お探しであったと思(おぼ)しき試料(サンプル)が発見できましたので、是非、貴女にお引き渡し致したく……」


 そのまま手紙を握り締めて、かづえは研究所を飛び出し、文面に記されていた待ち合わせ場所へと駆けつけた。

 指定された銀座のカフェに着いたのは、待ち合わせ時刻よりも一時間も前だった。

 こんな自分にはまるで馴染めない、洒落て高級そうな店内の空気に気圧(けお)され、メニューの中から一番安いコーヒーを選んでーーそれでも普段の彼女の食費三日分よりも高かったーー黒く苦いだけの液体をカップから啜(すす)りながら、かづえは身を硬くして待った。

 ちりん、とドアベルが鳴る音を耳にして、顔を上げた。

 夜色のワンピースの人影がカフェのドアを開けて入ってきた。

 その姿に、かづえは目を見張った。

「え……?」

 その端正な顔立ちと、ほっそりとした肩と、やや小柄な背に流れ落ちる艶やかな黒髪は、確かに彼女をここに呼んだ南条結析子に間違いはなかった。

 だが。


ーーこの人が、あの……?


 まじまじと、深浦かづえは彼女の横顔を見つめた。

 その視線を感じたのか、結析子がこちらを振り向いた。

「あっ……」

 どきりと大きく、かづえの心臓が跳ねた。

 しかし結析子は、どぎまぎするかづえとは反対に、ほんのりと赤みのさした頬に微笑を浮かべて、かづえの方へとやってきた。

 あの日、床に倒れたまま身動きすらできなかった病弱な少女とはまるで別人のようにしっかりと、だが優美な足取りで歩み寄ると、結析子はかづえと向かい合わせの席に着いた。

 喪服かと思えるほど暗い、限りなく黒に近い青のシンプルなシルエットの洋装が、南条結析子を十六歳よりもずっと大人びた存在のように見せていた。

 ミッドナイトブルーのワンピースに同じ色の丸い小さな帽子を頭に乗せた姿は、父の喪に服す娘というよりも、何故か寡婦のようにかづえには思えた。

 テーブルに置かれたカップの底に残る、乾ききったコーヒーの痕を結析子は見た。

「まあ、ずいぶんお待たせしてしまったようで。申し訳ありませんでしたわね」

「あ……、いえ……」

 かづえは壁にかかった重たげな柱時計を見たが、それでも針が差しているのは待ち合わせ時間の十分以上前だった。

「……私が、早く来過ぎてしまっただけですから、お気遣いなく……。それよりも、その……」

「ええ」

 言い淀んだかづえに、結析子はうなづいた。

「あなたがお望みのものを、お渡しいたします」

「ひ……っ」

 かづえの喉が引き攣(つ)るような異様な声を立てた。


ーーついに、『あれ』が……。


 言い知れぬ期待とも不安ともつかない感情が、かづえの内側で今にも破裂しそうなほどに沸騰した。

 その胸中を知ってか知らずか、結析子は言葉を続けた。

「手を、出してください」

「えっ?」

 思いがけない申し出に、かづえは結析子の顔を見返した。

 つややかな桜色の唇の、口角をわずかに上げて結析子は微笑んでいる。

 白く滑(すべ)らかな手の甲と形良く整えられた爪を見せて、彼女はかづえの方に右手を差し伸べた。

 かづえも恐る恐る、右の手のひらを結析子に差し出す。

「先日あなたが仰った通り、父はそれを密かに日本へ持ち帰っておりました。ですが誰も、父自身ですらも、実はそのことに全く気づいてはおりませんでした」


ーーということは。


 結析子の答えを、かづえは今はっきりと予測できた。



「あまりにも自然に、『これ』が私として受肉されてしまっていたからです」



 ぐっ……と、息を呑むような声が再びかづえの喉から漏れた。

 凍てつく真夜中の氷原に放り出されたかのように、彼女の全身が震える。

 その手の上に、結析子の手が重なり合う。

 だが、その結析子の手の甲を透かして、『それ』の形と、色と、輝きとが、かづえの目には見えていた。

「ああ……」

 かづえは目を見張った。


ーー輝くトラペゾヘドロン。


 彼女の手のひらの半分にも満たない、小さな結晶。

 不規則なカットを複雑に施した、いびつな宝石のような欠片(かけら)が、そっと手に乗せられる。

「これが……」

 かすれる声に喉を詰まらせながら、その輝きにじっと見入る。

 いや、見入られる。

 葡萄酒(ワイン)のように赤黒く透き通る光が、内部で絶えることなく複雑に渦を巻き、獰猛な獣の瞳のようにこちらを見返してくる。


ーーやはり、これは「生きている」。


 婉然と目の前で微笑む結析子が、そうであるように。

 彼女の美しさそのものであるかのように。

 『輝くトラペゾヘドロン』は熱く、また同時に冷たく、彼女の手の上であやしい光を反射させながら、その小ささにまるで不釣り合いな、ずっしりとした重さを彼女の手のひらに伝えていた。

「でも、何故……」

 喘ぐように何度も大きな吐息をつき、吸い込まれそうなほの昏い輝きの石からようやく目を引きはがして、かづえは結析子に尋ねた。

「何故、あなたはこれを手放そうと思ったのですか?」

 結析子はわずかに首を傾げた。

「理由を、お聞きになるのですか?」

 人形のように無垢な瞳で、彼女はかづえにこう答えた。


「けれど、その理由は、あなたにとって何の必要もない事項ではありませんか?」


「あ……」

 その答えはあっさりと、かづえの腑に落ちた。

 確かに、そうだ。

 結析子と、彼女の父や兄との間に何があったにせよ、無かったにせよ、そんなことはどうでもいい。

 輝くトラペゾヘドロンの実在を確かめることこそが、かづえにとっては自分自身の存在全てよりも重要な、たった一つの事柄で。

 だからこそ、自分はこんなにも常軌を逸した振る舞いをし続けることに何のためらいも無かったのだから。

 再び、手の中の石に目を落とす。

 静脈血のように赤黒い輝きが、まるで自分の体内を巡るかのように鼓動を打っている。

 昏く赤い光の奥に、渦巻くような黒い輝きが見える。

 透き通るような黒の、さらにその向こうは、もう何も見えない。

 なにもない。

 それなのに。

 まるで吸い寄せられるように、そこから目が離せない。

 なにも見えない。


……いや。


 忽然と、彼女は気付いた。

「ああ……、いあ……!」

 わななくような吐息が、かづえの口から漏れた。


ーーそうだ、これが、輝くトラペゾヘドロンの中にある、地球上の何人たりともたどり着くこと能(あた)わざる彼方の深淵へ至る回廊……。


 だが、次の刹那。

「えっ……」

 彼女の手の中には、もう何もなかった。

 小ぶりながらもずっしりとした重さを手のひらに与えていた輝くトラペゾヘドロンが、どこにもない。

「……これは」

 かすれた声が、かづえの唇から漏れる。

「どういうこと」

 向かいの席に座っている結析子の方を見る。

 しかし、そこにも、誰もいなかった。

 驚愕に、心臓が激しく跳ねあがる。

 どくどくと轟く鼓動が全身を揺さぶり、赤黒い激流が頭蓋内を駆ける。

 そして、気付いた。


ーーいや。ある。

 

 ふるえる手で、自分の胸を押さえる。

 正中線の、やや左。

 厚く硬い胸骨を通しても、激しい拍動がはっきりわかる。


ーーそう、ここだ。


 ここにある。……いや、「いる」。

 伝えてくる。

 輝くトラペゾヘドロンが、そこにいると。

 もはや如何なる秘術と叡智をもってしても切り離すことができないほどに、自分の心臓にもぐり込んでいることを。

 ついさっきまで、南条結析子の中でそうだったようにーー。

 がたん、と大きな音を立ててカフェの椅子がかづえの真後ろに倒れた。

 弾かれたように立ち上がった彼女に、隣のテーブルの女性客たちがちらりと怪訝そうな視線を向けたが、すぐにその興味は失せた。

 かづえは、そのままふらりとカフェの出口へと向かった。

 わずかに蝶番の音を立て、ドアを押し開ける。

 大きく開いた扉の向こうーー



 かづえの目の前に広がっていたのは、さっきまで自分の手の中にあった光景。

 彼女の内なるトラペゾヘドロンが通じている、果てしない深淵の彼方へと続く昏い回廊だった。

 賑やかな銀座の街並みは、今や消え果てた。

 すべての光を吸い込む闇へ導く、はてなく暗い道筋だけがどこまでもどこまでも続いているーー。


「ああ……、いあ……い……、メネ・メネ・テケル・ウパルシン……!」



 かづえはカフェの入り口から深淵の果てにつながる宇宙の回廊へと一歩を踏み出して。

「あっ……」

 そのまま真っ逆さまに、闇の底へと墜落した。

 頭上の遠くで鳴った、カフェのドアベルの音は吸い込まれるように消えた。

 まるで、いきなり真夜中の空の只中に放り出されたかのように、彼女の周りには暗い宇宙と、はるか遠くに光るわずかな星明りしかなかった。

 その中を、かづえの体はもの凄い勢いで落ちてゆく。

「そうか」それで、彼女は気付いた。

 輝くトラペゾヘドロンが回廊を開いてくれたとしても、矮小な地上の人間でしかない自分には深淵の彼方にまで飛び立つ力など持てるはずもなかったのだ。

 かづえの小柄な体がぐるぐると回転しながら落下する。

 機首を真上に向けすぎて、失速して墜ちてゆく、未熟な飛行士のように。

 だが、激突して微塵に砕け散る地表は恐らく、ない。

 きりもみのように落ちて行くうちに、彼方の星々の光は急速に遠ざかり、あっという間に周囲は完全な闇に包まれた。

 もはや自分の手足すらも見ることはできず、そもそも自分すら、本当にそこにいるのかもわからないまま、それでも落下してゆく加速度だけは感じていた。

 どこまでも、果てのない真の闇の中を落ちて行きながらも、きっともう自分はどこにもたどり着くことはできないーー。

「ああ、それでも」

 かづえは闇に囁いた。

「それでも構わない。私のこの手が、わずかでも深淵に届こうとしたのなら……」

 その声を聞いた誰かが、笑った気がした。

 彼方のどこかで。

 かづえも、それが嬉しかった。

 それすらも、あまりにもおこがましい感情だったかもしれないがーー。

 そうして、やがて彼女だった最期の思念すらも溶けてゆき。

 いつしか血も肉も肌も髪も剥がれ落ち、筋(すじ)と腱もほどけて骨だけになった身体も、落下速度の中で少しずつ削れてゆき。

 溶け残った脳髄も、やがて灰のように崩れ落ち。

 最後にわずかに残った彼女の聴覚神経だけが、はるか頭上から月明かりのように降ってくるピアノの音をかろうじて受け止めていたが、それもついには擦り切れて。


 輝くトラペゾヘドロンは、底なしの奈落をひたすらに落下していった。

 

 どこまでも。


      *     *     *


 その有り様を、僕は見ていた。

「……あっ……」

 弾かれたように身を起こし、辺りを見渡す。

 しかし、そこはもう深浦かづえが墜落した彼方の回廊ではなかった。

 部屋の中には白い朝日が差し込んでいる。

「ここは……」

 懐かしい、見慣れた光景。

 あの夜、ドビュッシーを聞いた部屋。

 南条家の屋敷の二階、結析子のピアノが置かれた部屋に、僕はいた。

「いや……」

 ぼやけていた記憶が、少しずつ鮮明になる。

 だが、僕たちがいた部屋はここではなく、結析子の寝室でーー。

「あ……」

 赤黒い刃に切り裂かれる瞬間を思い出し、反射的に胸元に手をやる。

 だが僕の体も、衣服も、わずかな切り裂き一つ残ってはいない。

 切り落とされたはずの右腕も、ちゃんとある。

「どうして……」

 呆然と、呟く。

 悪い夢か、幻覚だったかのように、全てがもとどおりになっている。


ーーもとどおり?


 では、結析子は?

「結析子?」

 僕の呼びかけに、返事はなかった。 

 視界の端に、大降りのソファの上に横たわる人影が見えた。

「結析子!」

 ほっと胸をなでおろし、ソファに駆け寄る。

 大丈夫か、と声をかけようとして、しかし、僕の体と頭は一瞬にして凍りついた。

「え……?」

 呼びかけようとする声が喉の奥で詰まる。

 差し伸べた僕の手が、震える。

 目を閉じた結析子の表情は、まるで眠っているかのように静かだった。

 艶やかな長い髪が小さな顔を縁取っている。

 目の前に横たわる妹の、あどけなさを残した面差しも、一人の女性として花開く直前のたおやかな体のシルエットも変わってはいないのに。

 だが、その姿はもう、僕の愛(いと)おしんだ結析子とはあまりにもかけ離れてしまっていた。

「……結析子……!」


 結析子の全身は、身につけていた衣服ごと、まるでガラス細工でできた等身大の人形のように、透明な結晶に変わり果てていたーー。


「ああ……!」

 静かに横たわる結析子の身体を抱き上げて、息を飲む。

 なめらかに透き通る顔と、透明になってもなお艶やかに長い髪とは裏腹に、結析子の上半身は傷ましくも大きくひび割れていた。

 輝くトラペゾヘドロンが埋め込まれていたはずの胸元にはえぐられたような空洞が口を開け、痛々しい亀裂が乱暴に打ち割られたガラスのように、そこから深々と八方に走っていた。

 その罅(ひび)が、さらに少しずつ広がってゆく音が絶えず、かすかに僕の耳に届き続けていた。

「そんな……結析子……!」


 いまや結析子の体は、僕の腕の中で冷たくひび割れてゆこうとしているーー。


「結析子!」

 血を吐く僕の叫びに、結析子がうっすらと目を開いた。

「……あ……、お兄さま……」か細い声が、答えた。

「結析子……」

 かろうじて焦点を結んだ瞳が僕を見つめ、ほほ笑む。

「よかった……お兄さまを、助けられて……」

 ため息のように、かすかな声で囁く。

「え……?」

 

ーー助けられて? 僕を?


「……どういうことだ……? 結析子……」

 輝くトラペゾヘドロンに切り裂かれたはずの自分の体をもう一度見る。

 何事もなかったかのようにそこにある自分の腕と。

 変わり果てた結析子の体とを、愕然と、見比べる。

「まさか……」


 これが。

 これが僕を救うために、結析子が支払った代償だったというのかーー。


「そんな……結析子……」

「お兄さま……」

 声を震わせる僕を、結析子は静かに微笑んで、見つめた。

 そうしている間にも、結析子の体を無慈悲に砕くひび割れはみるみる広がっていく。

 僕の目の前でーー。

「どうして……」

 涙がひとすじ、僕の頬をつたって落ちた。

「どうして、結析子……僕なんかのために……」

 だって僕は。

 僕は結析子を助けられなかったのに。

 このまま何もかもを諦めて、結析子と一緒に壊れてしまおうとしたのに。

 僕が結析子に聞かせていたのは、あんなにも軋(きし)る音だけでしかなかったのに……。

 そんな僕を。どうして。

「どうして……って……」

 だが、結析子は無残に砕かれつつある身体とはまるで裏腹に、美しく透き通る微笑みを僕に向けて、答えた。


「だって、ずっと、聞かせて差し上げたかったのですもの……私のお兄さまに」


「あ……」


 その時、僕の耳にピアノの音が聞こえてきた。

 ほの白くきらめく、ドビュッシーの旋律がーー。


「……結析子……」

 にじんで見えない視界を何度も拭う。

 その涙に、結析子が手を差し伸べる。

 僕の手と、それから、唇に触れる。

「結析子……!」

 僕の唇に触れた手に、結析子は小さく何かを呟きながらそっと口づけようとして。 


「お兄さま……」


 細く透明な結析子の指先が、自らの唇に触れようとする寸前で折れて、砕けた。


ーーお兄さま。


 囁きは、そのまま結析子の透き通る体に響き渡り、無残なひびが鋭く全身に走った。

「……結析子?」

 右腕が硬い音を立てながらひじの上で大きな断面を見せて折れ、床に落ちてかけらを無数に散らせた。

「ああ……!」

 小さな爪先の滑(すべ)らかな脚が先端の方からひび割れて、みるみる欠け落ちてゆく。

 なよやかな首から肩の曲線と、細い胴とがガラス細工のように割れ、僕の手の中からすり抜けるように砕けて落ちる。

「結析子……!」

 それでも結析子は僕の腕の中で微笑みながら。

 なめらかな頬も、額も、優しい瞼も、まだわずかの欠けも罅もない。

 水晶の瞳はゆるぎなく、僕を見つめたまま。

 一点の曇りも沁みもない、完璧に透き通ったその顔がーー。


「ーーお兄さま……」


 一瞬にして高い音とともに割れ砕け、微塵の欠片(かけら)を無数にきらめかせて、飛び散った。


「結析子!」


 いくつもの、いくつもの破片が窓から差し込む朝の光を反射しながら僕の目の前で舞い散って。

 それすらも、次の刹那には消え去って。

 そこにはもう、何も残らなかった。

 ほんの小さな欠片すらも。

「あ……」

 がっくりと床に両膝をつき、うなだれる。

 さっきまであんなに強く抱きしめていたはずの結析子が、今はもう、どこにもいない。

 震える手を床に伸ばし、指をそっと滑らせても、たったひと粒の欠片すら残ってはいない。

 みるみる溢れる涙だけが代わりに零(こぼ)れて染みになる。

 止まらない嗚咽に、僕の視界が朧に霞む。

 それでもーー。


 それでも、はかない最期の刹那のきらめきだけが、僕の目に焼きついていた。

 だが、その間もどこからか、かすかにドビュッシーが聞こえている気がしたーー。


「……結析子……!」



 こうして、僕は結析子を失った。

 永遠に。




   『結析子(ゆきこ)抄~トラペゾヘドロンの娘』 終 

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結析子(ゆきこ)抄 日暮奈津子 @higurashinatsuko

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