明朝。

 あしたの信濃。

 夜来の霧が明け、天に雷雲が曇るものの、緑の山野が、計見城の前に広がり始めた。


 長尾景虎かげとらは夜明け前に目覚め、早くも甲冑を身につけ、旗を掲げた。


毘沙門天びしゃもんてん、ご照覧あれ」


 はためく毘の旗印に手を合わせたのち、小姓の用意した朝餉あさげの膳を持ち、ひときわ豪奢な幕営の元へ運ぶ。


御前ごぜん、朝餉をたてまつる」


 御前と呼ばれた人物は寝ぼけまなここすりながら礼を言い、膳を受け取る。そして、向後の首尾はと聞いた。


「間もなく計見城をとしてご覧に入れる。しかるのち、武田を降し、その上で御前の旧領を服する戦いに参る所存」


 御前は大いに機嫌を良くし、景虎に、自身の跡を継がせよう、と言った。景虎は恐れ多いと固辞したが、御前の懇望に負け、「いずれ」と退出した。


「しかし……悪くない」


 後世、義を尊ぶ戦国大名として名高い景虎であるが、彼とて野心はある。越後は統一した。信濃はこの戦いで制圧する。そして次なるは……。



「幸綱どの! 長尾が攻めて参りましたぞ!」


「ふむ。払暁ふつぎょうを狙ったか」


 真田幸綱はあくびをひとつしてから、緩やかに立ち上がり、甲冑を身につけながら寝所を出た。

 市河藤若は泡を食って慌てており、しかも昨晩甲冑を付けたまま不寝番をしていたらしく、無精髭を生やしていた。


「落ち着き召され」


「こ、これが落ち着いていられるか。もう市河は終わりだ」


 大げさな、と幸綱は言おうとしたが、一方で、一度所領を失ったことがある自分が言えた義理ではないかと考えあぐんでいると、城の庭に、端然と立つ男が居るのに気がついた。


「霧隠」


「殿」


「間に合ったか」


「間に合いました」


 真田の草の者、霧隠が一礼して消えると、幸綱は藤若の肩を叩いた。


「藤若どの、お待たせ申した。これにてわれら、勝ちが見えてきまいた」



 遠雷が聞こえる。

 北信濃の山野の中で。

 長尾景虎は暗雲立ち込める計見城を見すえていた。


「雨か」


 景虎は肌に水滴を感じた。


「……では、始めるか」


 本降りになる前には終わろう。

 昨日の真田幸綱との戦闘で、計見城の兵力は見定めた。

 長尾の敵ではない。

 采配だけでなら、幸綱は景虎に拮抗することもできよう。


「だが、惜しむらくは兵が足りぬ」


 戦を芸術であると思い込んでいる節のある景虎である。戦略戦術を駆使して勝ちをつかむことは好きだが、実際に勝つとなると、興が冷めるところがある。


「最後まで、熱くなれる対手あいてというのは、あまりいないものか」


 今回、武田晴信は出てきそうにない。何やら企んでいるのだろう。面白い対手だが、そういうところが嫌いだ。


「殿、下知を」


 景虎はうなずく。


「かかれ」


 長尾勢は、暴風となって、計見城へと襲いかかった。



「変に出なくて良い。むしろになる」


 人が変わったように冷静になった藤若により、市河勢は計見城に籠り切り、長尾勢の力押しに抗した。


「これで良うござるな、幸綱どの」


「左様」


 幸綱はやぐらの上から、藤若にこたえた。

 その目に、遥か彼方にいかづちが走るのが見えた。


 地の上を走る雷を。



「何だ、あれは」


 意外に堅い計見城に眉をひそめる景虎の目にも、は見えた。


「地を這う……雷!?」


 兵らも気づいたのか、動揺と共に、その言葉が漏れた。

 雷というものは天から地へ走るものだ、落ち着けと叱咤する景虎。

 しかし今度は雷鳴にも似たが聞こえ、長尾の兵はさすがに算を乱しはじめた。


「落ち着け! いや、これは……馬蹄の!?」


 轟きだ、と言おうとしたところで、その雷に似た、黄色のよそおいの軍勢は、まっしぐらに長尾勢に突っ込んできた。

 何者、と目をく景虎は槍をかまえた。

 その軍勢の先頭に立つ武将が、槍を突き立ててきたからだ。


「南無八幡大菩薩!」


 咆哮する武将の旗印は、「八幡」と大書されていた。

 景虎もまた、武将の槍を弾き返さんと、己の槍を、振りかぶる。


「毘沙門天、ご照覧あれ!」


 毘と八幡の旗がひるがえる。

 槍と槍がみ合う。


「ぐっ……強い……名を、名を名乗れ!」


「小僧。人に名を聞くときは、己から名乗れ」


 その武将の睥睨へいげいに、思わず景虎は言うとおりにしてしまう。


「長尾……景虎! われこそは長尾景虎なり!」


「よかろう。われこそは北条綱成。北条の黄備きぞなえなり」


 北条綱成。

 北条家随一の名将であり、北条家五色備えと呼ばれる部隊のうち、黄備えを率いていた。


 地を走る雷。

 それは、綱成率いる黄備えが、馬蹄を轟かせて、地を馳せていたから見えた雷だった。


 そして――その黄備えと八幡の旗から、綱成は二つ名を持っていた。


地黄八幡じきはちまん!?」


「左様。盟約に基づき、武田に加勢に参った」


 甲相駿三国同盟。

 武田、北条、今川三家の同盟。

 晴信は、その盟約に基づき、北条家に対して援軍を要請した。むろん、それは無償のものではない。

 綱成は槍に力を込める。

 景虎が押される。


「何だこの力……これが……これが、河越を戦い抜いた男の力か!?」


 河越夜戦において、河越城に籠る綱成は、半年間にも及ぶ籠城に耐え、包囲軍の外側から攻めかかった主君・北条氏康に呼応して、城内から出撃、見事に氏康と連携して八万の軍を完膚なきまでに叩きのめした。

 虚名だ、と言って、綱成は特段に誇ることはなかったが。


「長尾の。ひとつ聞く。貴様……山内上杉憲政をかくまっておろう」


「ど、どうしてそれを……」


 景虎はこらえきれず、ついに槍を手放す。刀を抜く。


「真田どのが調べてくれた……もらうぞ、憲政の首!」


 綱成も槍を捨てて、抜刀した。

 山内上杉憲政は、河越を包囲した八万の軍の総帥といえる立場であった。そして河越で敗れた後、北条と武田に攻め込まれ、ついには領土を失い、いずこかへと落ち延びたのである。

 氏康は憲政の行方を追っていた。関東を治める氏康にとって、禍根を断つに越したことはない。

 そしてその憲政は、越後の景虎の元にいた。彼は憲政を「御前」と呼んで尊び、復仇を誓っていた。


「かかれ!」


「やらせるか!」


 北条と長尾の兵が激突する。

 だが、綱成の電光にも似た突進突撃を食らっていて、先手を取られた長尾勢は不利を隠せず、やがて後退しはじめた。


「くっ、おのれ……」


 ここで勝ちに拘泥して留まると、かえって敗ける。敗けて憲政の首を取られる。

 戦の天才である景虎の判断は速かった。


退けい!」


 景虎自身が殿しんがりを務め、長尾勢は整然と退却していった。



「いやはや、お見事でござった」


「幸綱どのも、よう耐えた……藤若どのも」


 綱成は景虎を追おうとしなかった。景虎の采配に油断ならぬものを感じ、無駄な犠牲を避けたのである。


「しかし……ようござるのか、山内を取り逃がして」


「いや……行方が分かっただけで重畳」


 幸綱の心配に、綱成は笑ってこたえた。山内上杉憲政が行方不明となっては対応に困るから、まずはそれを潰す。


「神出鬼没よりも、どこに居るか分かれば、対策を打てると、わが主は申しておりました」


「ははあ」


 幸綱は北条氏康の呑気のんきな表情を思い浮かべた。まああの御仁なら、越後の龍が相手でも何とかなるか、と思い、藤若と共に、綱成を慰労するのであった。



「あれが地黄八幡……面白い!」


 景虎は哄笑していた。

 あれが。

 あれこそが。

 武田晴信とならんで、わが生涯の敵に相応ふさわしい。


「待っていよ、北条綱成……いずれ私が上杉となり、関東管領となった暁には……必ず!」


 長尾景虎――山内上杉憲政の養子となり、上杉を継いで、関東管領となり、やがて彼は、北条との決戦に臨むのであった。





【完】


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朝(あした)の信濃に、雷(いかづち)、走る。 ~弘治三年、三度目の川中島にて~ 四谷軒 @gyro

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