夏休みの人魚
夏休みの間、人魚の世話係を任された。
私の高校には廃プールに人魚が住んでいる。私が入学したころには当然のようにそこにいたし、誰も特に関心を示さなかった。普段は生物の桑木先生が世話をしているけれど、毎年夏休みの間は先生が休む代わりに二年生の中から当番を決めた。その面倒な仕事を誰かに押し付けるために始まったじゃんけんで私はあっさりと負けた。私は人魚なんて見に行ったことすらなかったのに。
八月の纏わりつくような暑さの中、学制カバンに水筒とお弁当だけを入れて学校に行った。生物室の冷蔵庫に入っている餌をあげて、特別水が汚れていたり人魚の体調が悪そうだったりすれば桑木先生に電話をして、しばらく様子を見て、帰るだけ。それくらいなら桑木先生が休まずに来ればいいのに、と多分誰もが思っていることを私も思った。
生物室に餌を取りに行った時、裏紙に使われているチラシが見えた。
『動物を飼うときは 責任をもって』
先生から預かっていた鍵で廃プールの扉を開けるとすぐ水を背に浮かんでいる人影が見えた。腰から下が鱗に覆われていることだけが彼女と人間を大きく違うものにしていた。人魚を呼ぼうとして、そういえば桑木先生から人魚の名前を聞いていなかったことを思い出した。
「今年の世話係かな」
なんて呼ぼうと悩んでいると足元からしゃがれ声がした。驚いて見下ろした先にさっきまで遠くを泳いでいた彼女が足元で笑っていた。尖って隙間なく生えている前歯をにっと見せながら。
人魚が話すのだということ、人間と同じ知性を持っているのだということ、それら全てを桑木先生が教えてくれなかったことを知る。水の中から空を見たときのような色の瞳がこちらを捉えている。何故かその瞳を見ているとプールの中に飛び込みたくなって、慌てて目を逸らす。プールが汚れていないことを確認しているふりをしながら少しずつ彼女から遠ざかった。汚物はない。人魚の体調も悪そうではない。生物室の冷蔵庫から取ってきた箱を出す。ためらいもなく開けてプールに投げ込む。それは肉だった。何の肉かは分からないけれど、臭みもおかしな色もなかった。きっと牛肉か何かだ。人魚がそれを食べているところを見ないようにしながら私もお弁当を食べた。暑すぎるのと、くちゃくちゃと肉を噛む音が聞こえるせいもあって、あまり食欲はわかなかった。そんなふうにして世話係の一日目は何事もなく終わった。学校にいる間は。
家に帰ってから、夏休みの宿題をしている間も、お風呂に入っている間も、歯を磨いている間も人魚の瞳を思い出した。人魚の顔を思い描くたびにいつの間にか彼女のところへ行きたい気持ちが止まらなかった。それは彼女の瞳を見ているうちにプールの中に飛び込みたくなったときに似ていた。その日は結局学校に戻ることはなかったが、一睡もできなかった。二日目と三日目も、何も起こらなかった。
四日目の朝、私は慌てて学校に行った。どうしても彼女のことが頭から離れなかった。あの瞳。あの顔。忘れようとすればするほど身体は学校に戻る気持ちを抑えきれずにいた。走って廃プールに駆け込むと、彼女は昨日と変わらず廃プールで泳いでいた。連れて帰ろう、と思った。彼女を連れて帰ろう。そうすれば学校に行かずに世話ができるし、彼女とずっと一緒にいられる。私は餌をやるのもそこそこに、生物室に行って大きな水槽を用意した。彼女がぎりぎり入るくらいの、ガラスの水槽。そこにプールの水を満たし、彼女を抱き上げて入れた。
同じく生物室から借りた荷台に彼女の入った水槽を載せて走っている間、他の人には出会わなかった。真夏の昼だからかもしれない。おかげで私は怪しまれることもなく家に彼女を連れて帰った。彼女は私の皮膚に触れると熱がるので、なるべく触れないようにそっと浴槽にプールの水ごと移した。
「あーーー」
彼女は呻き声ともつかない声をあげた。浴槽が嫌だったのかと思いきや、水を足してやると楽しそうに口元まで浸かっていた。瞳はやっぱり水の中から空を見上げたときの色をしていた。ようやく彼女とずっと一緒だ。
生物室に水槽と荷台を返さなくてはならない。彼女に「大人しくしていてよ」と言ってからまた荷台に水槽を載せて学校に戻った。水槽と荷台は無事に返却された。プールサイドに投げ捨てたままだった学制カバンを回収して家に帰った。水筒も、お弁当箱も、廃プールの鍵もきちんと残っていた。戸締りをして学校を後にする。変わっているのは、廃プールに人魚がいないことだけだった。さっきは誰もいなかった道に子供を連れた母親がいた。子供は何かをじっと見つめていて、母親はその子供が家に帰るよう説得しているようだった。真横を通った時、子供の声がはっきりと聞こえた。
「ねえお母さん、何でこの子猫飼っちゃ駄目なの」
どうやら子猫が捨てられているらしかった。私は気にしないふりをしながら、耳をそばだてる。
「責任をもってお世話できないものは連れて帰っちゃ駄目なの」
その子の母親はそう言った。そのとき、何故か脳裏に彼女が思い浮かんだ。水の中から空を見上げたときのような色の瞳。濡れて重くなった髪。太陽は刺すように熱いのに、なぜか寒気がした。走る。胸騒ぎがしていた。お母さんは今日いつ帰ってくるって言っていたっけ? 生物室に置いてあったチラシを思い出していた。『動物を飼うときは 責任をもって』。
家に帰ってすぐに浴槽の扉を開けた瞬間、目に飛び込んだのは身体が半分なくなったお母さんと血まみれになりながら口を動かしている彼女だった。餌にあげていた肉は何だったっけ? 目の前で何が起こっているのかが分からなくて、私はそんなことを考えていた。桑木先生が授業で言っていた言葉を思い出していた。
「命を預かることには責任が伴います」
〈了〉
奇譚詰々 Yukari Kousaka @YKousaka
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