奇譚詰々

Yukari Kousaka

リタのいる生活

 【一生分の祝福を受ける器】なるものが存在するのであれば、それが溢れてしまうほどの祝福をもう少しで受け取るはずだった私の婚約者、リタ・アルブレヒツベルガ—は、6月らしい気持ちの良い朝に死んだ。24歳、若く美しい、そしてこれからますます美しくなり得ただろうオーストリア人女性の夭折は人々に嘆かれた。当然のことではあるのだが。結婚式を挙げる予定だった教会の裏の、雨に濡れた芝の香りの庭園はそのまま、彼女に別れを告げるための場所として用いられた。メイナード・シズレーやサイラス・アーモンドを初めとした私の素晴らしい友人たちも私を慰めるために、各々の大変な仕事を切り上げてわざわざ集ってくれた。

 しかしながら、私はといえば心にさざ波一つ立っておらず、そのことにむしろ驚かされていた。リタのことは勿論愛していた。これまでに出会ったどの少女よりも魅力的で優しく知的なリタ。読書家で、されど外光の下を少女のように駆ける愛らしさも持ち合わせていたリタ。まだ彼女が死んでしまったということが私には信ずることが出来なかったのかもしれない。私は婚約者の葬式にふさわしいとはいえないほど——喪主としての務めは完璧だったが——落ち着きすぎていた。私がリタに贈った婚約指輪がエディンバラの日差しに柔らかく光っているのを眺めながら、静かに私は彼女に別れを告げた。

「レイ、辛いことがあったらすぐに連絡してくれ。俺たちはお前のために必ず、必ず駆け付けるからな」

 ロンドンへ上る電車にのるメイナードを見送る時、彼はプラットホームで私の背中をたたきながらこう言った。私はひどく申し訳なかった。リタにも、メイナードにも。上手に哀しむことに長けた人の人生は豊かだ。泣きながらさようならといえる人のいる人生は幸福だ。私はいつから、そうではなくなってしまったのだろう。初めからだったのだとしたら。

 スコットランドの首都、エディンバラにある私たちの明るく美しい屋敷は、笑顔に溢れたリタがいなくなると突然、静寂の底へ沈んだ。まるで彼女こそが屋敷であったかのように。思い出がどこまでも染み付いた調度品の数々は音を立てることなく、彼女に再び触れられる日がくることを待っていた。レイモンド、リタ。私たち二人の名前が刻まれた花瓶の中には、水を換えてくれる彼女を待ち焦がれたまま枯れた1輪のかつてピンク色だった薔薇が残っていた。ひんやりとした空気を、そして私自身を暖めてくれる手はもう二度と伸びることがなかった。

「なあリタ、どうして私と結婚してくれなかったんだ。戻ってきてくれよ。君と素敵な家庭を築くはずだったのに。結婚してくれよ」

 哀しみというよりも喪失が私を蝕んでいた。


 リタの葬儀から一ヶ月が過ぎたある日。


 夏休みに入ってすぐ私の様子を見に訪れてくれたメイナードとサイラスにスコッチウィスキーを振舞うために、我らが屋敷へ彼らを招いた時だった。サイラスがふと、リヴィングルームの中ほどで立ち止まって私に言った。

「リタちゃんのドレス、皺がひどくないか」

 それは彼女が生前愛していたモーニングドレスで、何度も何度も仕立て直してもらっては着続けていたものだった。いわば彼女の形見だ。それが確かに、サイラスの言う通り、皺が寄りすぎている。誰かが着た後のように。

「誰かが着た後みたいじゃないか」

 メイナードのその言葉が、私の心中のつぶやきと同時に漏れたことに驚いた。

「メイ、君はそう思うか?」「レイもそう思ったか」

「まさか、そんなわけ。もしそうならばこの屋敷に泥棒が入ったことになる」

「気をつけておくに越したことはないね」とサイラス。「この夏はどこで過ごすんだい?」

「この屋敷だ。新婚旅行先にリタの写真を連れていこうかと思ったけれど、やはりエディンバラが良い」

 私たちの話題はすぐにドレスを逸れて、スコッチウィスキーを出すころには忘れ去られた。新婚旅行で訪れる筈だったプーケット島についての話に興じて、その日は何のことも無く終わった。メイナードとサイラスを客室に泊めて、翌日は三人でゴルフに出かける約束をした。二人とも、私の気分が晴れるよう様々なことに気を配ってくれていた。

 朝目が覚めた時、屋敷は何の代わり映えも無くリタの面影を残してそこにあった。ところがゴルフから帰った時、私は屋敷が薔薇の香りで充ちていることに気が付いた。花瓶だ、そう確信した私はブーツの泥を拭うことも忘れて私たちの寝室へ駆け込んだ。

 そこには、朝露を湛えた、ピンク色の薔薇が花瓶に刺さっていた。メイナードが呟く。「リタちゃんだ」

「なんだって?」「リタちゃんだよ! リタちゃんが帰ってきたんだ!」

 花瓶に薔薇を刺して、ドレスを着て、そして彼女はいつも何をしていた?そうだ古い薔薇は、キッチンのごみ箱に入れていた。一階に戻り、キッチンのごみ箱を確認する。

 枯れたピンク色の薔薇が、ある。メイナードが呟く。

「リタちゃんが帰ってきてしまったのかもしれない」

「まさか!」私は笑い飛ばした。「メイ、君はゴルフで疲れているんだよ」

「しかし友よ」サイラスもぎこちなく笑みを作って言う。「彼女らしいな」

 死人は帰ってはこない、復活を神に許されているのは我らが主、イエス・キリストだけなのだ。死人が服を着替えるわけがない。死人が薔薇を刺すわけがない。死人が薔薇を捨てるわけがない。

「やけに粋な泥棒だな、我が愛しの婚約者の真似事をするなど」

 私は苛立ちを抑えきれず、理性的でない友人たちを嘲るように吐き捨てた。もちろん泥棒に対してもだ。

「屋敷の防犯を強化してなくては。この麗しき地も犯罪者が巣食うようになってしまったか」

「だからレイモンド……」メイは薔薇と私の顔を交互に見た。

「メイナード、サイラス、昨日と今日はありがとう。防犯会社に相談しなくてはならないようだから、今日はここで引いてはくれないか、申し訳ないのだが」

 そうして私は彼らを追い返した。そしてゴルフの疲れと汚れをシャワーで流してから、防犯会社に向かった。翌日、すぐに防犯設備は整えられた。

 それからまた一週間ほどが経ったある日、国立博物館のまわりを散策し家に帰った私は、洗濯機の前にリタのドレスが落ちているのに気が付いた。薔薇の色が、ピンクではなく、黄色になっていた、珈琲を愛する私のために自らは嫌いであるにも関わらず、生前彼女が買ってきていたコーヒー豆の袋が開いていた。珈琲は湯気が立ったまま、まるでたった今淹れたようにダイニングテーブルに置いてあった。

「……なんて泥棒だ」

 私はすぐに防犯会社に連絡し、カメラとブザーをチェックしてもらった。カメラには何も映っていなかったし、ブザーが鳴った形跡も無かった。私は口の中が渇いていくのを感じた。「泥棒だ、よな」

 翌日、庭の手入れをして家に入るとリヴィングルームの安楽椅子の上に、彼女の大好きだったオースティン『高慢と偏見』が伏せられていた。安楽椅子はたった今誰かが立ち上がったように大きく揺れていた。さらに翌日、目を覚ました私は温かい朝食がダイニングテーブルに載っているのを目にした。そしてその日の夜、彼女の使っていた硝子ペンのインクの蓋が、しっかり栓をしておかれていた筈のそれが、音を立てて落ちた時、私は確信した。

 リタは、帰ってきてしまったのだった。

 私が強く願ったからか? それとも彼女が願ったからか?

 なんでも構わない、リタは愛していた。だが死んだリタを愛することはできない。死んだ者は死んだ者なのだ。私はメイナードとサイラスに電話をかけようと、ジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出す。足音が聞こえる。スマートフォンの電源を入れる。足音が近づく。震える手で電話番号を押し込むように入力する。足音が、部屋の前で止まる。発信音が鳴る。ドアが開く気配がする。発信音が途切れる。

「もしもし?」

 メイナードの声がする。


 優しい、冷たい左手が肩に触れる。

 右手の薬指についていた筈の婚約指輪は、その細い指の上で光っている。


「遅くなってすまないレイモンド、あの日はどうかしていたよ……」

「遅くなって申し訳ありませんわ、レイモンド。あの日はどうかしていましたの……」


 やっと、結婚式が挙げられますわね。





「おい、おいレイモンド?聞こえていないのか?レイモンド?」










  リタのいる生活〈了〉

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