隙間
江川太洋
隙間
上司のIさんが大学生の頃の話だという。
都内の大学に合格したIさんは、入学前の三月に一人で上京して、大学近くの学生街にある不動産屋で物件を見て回った。
時期が悪くて条件に合わない物件が続く中、比較的条件の折り合う物件が一軒見付かった。
二階のその一室は典型的な六畳のワンルームだったが、そのワンルームが長方形ではなく微妙な台形になっていたのが気にかかったという。
南側の窓を背にすると、左側の壁は普通に真っ直ぐで、そのまま玄関へ続く廊下に繋がっていたが、右側の壁が奥に向かうにつれて幅が狭まる形に傾斜していたそうだ。その傾斜は突き当たりの襖の閉じた収納まで続き、襖を開けると収納の中も中途な逆三角形のような台形になっていた。
角部屋でもないのに何故この部屋は台形になっているのかと、Iさんは不動産屋に尋ねたが、分からないとのことだった。
傾斜以外に不都合はなさそうだったし、日が傾いて時間がなかったこともあり、Iさんはその物件で契約した。
最初は特に不便を感じなかったが、暮らして半月ほどすると、Iさんは部屋にいると違和感を覚えるようになってきたという。どんな違和感かという私の質問に、Iさんは無理矢理言葉に例える感じで説明してくれた。
「酔った感じに近いかな。何か平衡がおかしくて、眩暈とか立ち眩みほど急激じゃないけど、それがずっと続くんだよね。軽く袖を引っ張られてるみたいな感じがあって、見るとだいたい襖の方向なの。収納の。一度床に掃除機かけてたら眩暈がして、奥襟をぐっと摑まれて引っ張られる感じで後ろに倒れかけて、はっと後ろを振り返ったらやっぱりその先に襖があるの。しかも僅かに開いててさ。隙間から真っ暗い空間が覗いてんのよ。普段は閉めてるからそんな中途に開けた覚えないし。何かぞっとしてね」
Iさんは症状が治まることを願ったが、逆に違和感は日々増したという。
どんな体勢になっても平衡の乱れを感じ、目を閉じて寝ると、周囲の床がルーレットみたいに激しく回って感じられたという。
この症状を脳の病気と考えたIさんは怯えたそうだが、Iさんはそれも見当違いだったことを思い知らされた。
ある夕食時に、味噌汁の入った椀をローテーブルに運ぶ途中で、Iさんは急に眩暈を起こして味噌汁を零したという。思わず声を荒げて布巾を探そうとしたIさんは、床に零した味噌汁を見下ろして唖然としたという。
履いたスリッパ越しに踏み締める感触からして、間違いなく床は平衡なのに、零れた味噌汁は傾斜を滑り落ちるようにゆっくりと糸を引いて、床の上を伸びていった。味噌汁が糸を引くその先には、僅かに開いた収納の襖があった。
これが症状ではなく現象だと認知した瞬間、Iさんは、「自分が立ってると思ってた地面が、実はただの空洞だと気付いて、ぐにゃりと時空が歪む」ような怖さを覚えたという。
円錐型のコショウの壜を床に置いたIさんは、襖の隙間に向かって、ひとりでに壜がゆっくりと回転するのも見たという。
その頃からIさんは、隙間に対する強迫神経症を患ってしまったという。今でも僅かに開いた隙間が苦手で、なるべくその付近にはいたくないそうだ。
Iさんは執拗に襖がぴったり閉じていることを確認したが、それでも平衡の歪みを感じてぱっと襖を見る度に、必ず僅かに隙間が覗いていたそうだ。それが厭なのは、Iさんが見る度にその隙間が徐々に拡がりつつあることだった。
特に夜は、傾斜の角度がより急に感じられてきた。背中や手足はベッドに密着しているのに、床自体が収納に落下する角度に傾いているように感じ、布団をすり抜けて滑り落ちることを恐れるように、ふとシーツを両手できつく摑んでいる時が増えてきたという。
それが夢なのか現なのか、次第に自分でもよく分からなくなってきたそうだが、ある夜、床の傾きを感じたIさんが反射的に両手でシーツを摑んで、足の先の襖を見ようと首を持ち上げると、起こした顔に向かって冷たい強風が吹き寄せるのを感じて、もうこれは駄目だと思ったという。
風は開いた襖の奥に拡がる闇から吹き寄せていて、どう考えても襖からそんな強風が吹き寄せてくるはずがなかったからだ。
Iさんは早急にここを出ないと終わると思ったそうだが、そこからさらにもう一月近くそこに住み続けたらしかった。私がその理由を尋ねると、Iさんが声を荒げて答えた。
「幾らこっちが説明しても、全然親父が真に受けてくれなかったんだよ。遊ぶ金欲しくて嘘付いてるんだろうって。もう怒ったね。毎日電話で怒鳴り合って、じゃあとにかく一度こっち来いと。証拠見せてやるって。したら二週間ほどして、ようやく来てくれてね」
「それで、どうなったんです?」
「すごかったよ」
Iさんはそう言うと可笑しそうに笑った。
「その頃には、俺的には部屋にいるだけで、スキーのジャンプ台並みにすごい傾斜を感じてて。親父は何とも感じてなかったけど、床に塩を撒いたの。したら親父の目の前で、掃除機で吸ったみたいに、あっと言う間に襖の隙間に吸い込まれてってね。それを見た親父が、急に鶏みたいにきょときょとし出して、『すぐ引っ越さなきゃ』って」
それが何だと思うかと私が尋ねると、Iさんは首を傾げながら、「さあ」とだけ言った。もしそのままその部屋にいたら、どうなっていたと思うかという私の質問に、Iさんは確信に満ちた口調で言い切った。
「確実に、あっちに引っ張られてたと思うよ。親父が来る二日くらい前から、もう耐えられないから、満喫に泊まるようになっててさ。金もなかったし、親父が来るのがあと数日遅かったら、ほんとどうなっちゃってたんだろうって、今でもたまに思うよ」
隙間 江川太洋 @WorrdBeans
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