冷たい夜に絶望は嗤う

恵喜どうこ

第1話 冷たい夜に絶望は嗤う

 尻が凍りついている。水たまりに浸かっているせいで、ぐっしょりと下着まで濡れてしまっていた。一月の外気にさらされた雨水は骨盤までも凍らせる冷たさだ。震えがずっととまらない。

 どうしてこんなことになったのか――塩田朋美は顔をあげた。視線の先に、年配の女の赤ら顔があった。汚物を見るような目で朋美をねめつけている。


 よく太った、だらしのない体型の女だ。年齢はおそらく朋美より一回りほど上。六十歳くらいではなかろうか。

 薄手のダウンジャケットも、赤と黒のボーダーラインのセーターもずいぶんとくたびれて見えた。そのうえ、みずみずしさが抜けきった白髪まじりのおかっぱ髪が脂ぎった顔にべたりとしがみついているのがまたひどく醜い。


 しかし、『醜い』と思う決定打になったのはニオイだった。えたニオイが女から漂っている。朋美の大嫌いなニオイがマスクをつけていてもなお鼻の奥まで追いかけてくる。


 朋美は不快さを気取られぬように視線を周りへ散らした。通り過ぎていく人もあれば、遠巻きながらも足をとめて様子をうかがう人もいる。それほどに大きな声をあげて女は朋美を突き飛ばしたのだ。


「すみません」


 か細い声で謝りながら、朋美はアスファルトにぽつんと投げ出されていたリンゴを掴んだ。朋美とぶつかった拍子に女の手からこぼれ落ちたものだ。アスファルトにたたきつけられたせいで、表面にいくつも穴があいてしまっている。傷ついたリンゴの顔を軽く拭ってから、そっと差し出す。同時に頭を下げるのも忘れなかった。だが決して女に対する申し訳なさからではない。


 大型ショッピングセンターの駐車場内、入り口へと続く歩道の真ん中近くで立ちどまってスマホをいじっていたのは事実だし、迷惑行為だったろうと反省はする。

 しかし朋美だけに非があるとは言いがたい。道幅は充分にあった。避けようと思えば避けられたはずなのだ。問題は避けようとする意志が相手にはなかったことだった。


 女はまっすぐ進みたかったのだろう。それこそ障害物を避ける労力さえも煩わしかったのだ。勢いよく朋美とぶつかって「どうしてくれるんだ」と因縁をつけた。本来ならばお互いさまで済む話なのに、なぜか朋美が一方的に責められる形になった。

 それでもリンゴは実際にケガをしている。この事実だけは変えようがない。ゆえに朋美の謝罪は傷ついたリンゴに対するものだった。


 その結果、女の機嫌はよくなるどころか、ますます悪くなった。マスクを顎まで勢いよく押し下げると「そんな汚いもの、もう要らないわよっ」とリンゴを払いのけた。直後に重たい破裂音が響く。リンゴが飛んだ。地面で一度跳ねてから、ころころと転がる。

 あっと息を飲んだときにはもう遅く、リンゴは走ってきた車にぺしゃりと轢かれて粉々になった。この世から一瞬で粛清されたリンゴを見ても、女はフンッと鼻を鳴らしただけだった。


「千円」


 そう言って、女はむくんでいるのか、肥えているだけなのか判別しがたい手を突き出した。

 女の指先から顔を出した長い爪の間に黒いおりがこびりついている。朋美の顔は自然とこわばった。饐えたニオイが強く立ちのぼってくる気がして、すっぱいものが喉を押しあげてくる。


「リンゴとクリーニングの代金だよ。さっさと寄こしな。それで勘弁してやるから」


 女が怒気を込めて放った言葉に、朋美は再び顔をあげた。リンゴ代はわかる。クリーニング代はなんだ。服を汚した覚えはこれっぽっちもない。むしろ汚れているのは朋美のほうだ。請求権は朋美のほうにこそあるはずだ。

 理不尽を抱えて見上げた女の額には、先ほどよりも濃いしわが刻まれている。朋美の不満を察したのか、女は「ここだよ、ここ」と足元を指した。朋美が尻もちをついたときに跳ねた水がズボンを濡らしたと淀んだ声で言っている。


 気持ちが悪い。自分が生きる同じ世界に、これほど醜いものが存在しているのが信じられない。いや、人と呼べるのか、こんなものが。人というにはあまりにも腐って・・・いや・・しない・・・


 いらだった女がさっさとしろと手を上下に振った。湯通しして膨らんだソーセージみたいだ。赤黒くて、ぶにぶにしている。反射的にあごを引いた。体に力が入る。水たまりに浸かった尻がますます冷たくなっていく。アスファルトと自分の尻の境界線が消え、ひとつになってしまったような感覚だ。それはじわじわ範囲を広め、太ももまで侵略してきている。


 震えが一層強まった。歯ががちがちと音を立てる。朋美は奥歯に力を入れると、アスファルトへ視線を戻してバッグを探した。

 バッグは朋美から三十㎝ほど先に落ちていた。おずおずと手を伸ばす。財布を探り出して千円札を抜き取ると女に見せた。

 女はもぎ取るように千円札を掴んだ。札がくしゃっと乾いた音を立ててつぶされる。朋美はすぐさま手を引いた。女に触れたら終わり・・・だと思ったからだ。

 女は札ごと握った手を上着のポケットへ乱暴に突っ込むと、また鼻を鳴らした。「これくらいで済んで感謝しな」と口にした。それから「これからは気をつけるんだね」と唾と一緒に投げつけて、駐車場の出口へと大股で去っていった。  


 女がいなくなると、見物客たちもまた蜘蛛の子を散らすように離れていった。朋美に声を掛けてくるような人はひとりとしていない。仮に自分が見る側の立場だったら絶対に声はかけない。トラブルはトラブルを呼ぶ。誰だって、そんな面倒事は避けたい。朋美も例外ではなかった。

 にも関わらず、文字通り接触した。


 手にした財布の中身をあらためながら朋美は考える。二枚あった千円札が一枚になっているのだから現実に起こったことなのは間違いない。あの女はして・・いる・・

 けれど、あれはやはり人ではなかったのではないか。現実と非現実の境界はひどくあいまいで、あの女のことを正しく表現できる言葉が見つからない。強いて言えば『不運』という言葉が一番しっくりくる。それもめったやたらと出くわさないレベルの『不運』。


 朋美はふうっと息を整えてから転がっていたスマホを拾った。強化ガラスにひびが入っているが中までは傷ついていない。防水加工のおかげで水に濡れても壊れることはない。不幸中の幸いと言うべきか。


 ゆっくりと立ちあがる。濡れた下着が冷たいし、重たかった。全身の空気が抜けるかのように大きなため息がもれる。安堵と不満が入り混じっているが、どちらかと言えば不満のほうが勝っていた。


 スマホの表面の水滴を拭って朋美は時間を確認した。午後七時三十五分。


 娘の一花を剣道の道場へ送ったのが七時ちょっとすぎ。そこから一番近いショッピングセンターへやってきた。たしか二十五分を過ぎたころだ。八時半前には迎えに行くと一花には伝えている。戻る時間を考慮すると、あと三十分ほどしかない。その間に晩御飯を買う必要がある。動線は最小限。濡れたズボンを拭くタオルを買う時間も、お金を新たに下ろす余裕もない。むしろさっさと買い物を終えて、車のヒーターで濡れたズボンを乾かすほうが効率もよさそうだ。


 朋美は歩を早めてショッピングセンターの自動ドアを潜った。暖房が効いていて温かいのに凍りついた尻が溶ける気配はない。

 なんて日だ――朋美は何度目になるかわからないため息を吐くと、食品売り場へまっすぐに向かう。どうかしていると思えるくらい今日はツキに見放されている。


 ほんの一円の小銭が見つけられなくて一万円札を崩すことになったり、仕事に出かけたはいいが水筒を忘れてしまったり、一週間前に注文したネックフォーマーがやっと届いたと思ったら中国製の偽ブランドのニット帽になっていたり。

 だが、それはまだ取るに足りないことと笑っていられる程度の不運だった。

 仕事から帰って来て、娘の一花を送っていくときからが本当の不運のはじまりだったような気がする。


 今月に限って、いつも通っている道場が使えなくなった。道場を貸し出している学校が一時的に使用禁止を決めたのだ。そのため、普段とは違う急遽決まった道場へ送っていかねばならなかった。以前にも二回ほど利用しているから場所はなんとなく覚えている。特にナビゲーションを利用する必要もないだろう。そう思って、気軽に出掛けた。


 ところが朋美は道に迷った。己のひどい方向音痴を甘く見ていた。曲がるところを間違えて遠回りした。目印になる店の黄色い看板も間違っていないのに、何度も、何度もくり返し同じところを周回した。目的の道場にはどうしたってたどり着けない。おかしい、こんなはずじゃない。たしかこっちだったはずだ。ここを曲がれば――そうやって三十分以上も走り回った。ナビを設定したけれど、周辺地図を出されるだけでゴールをはっきりとは示してくれない。

 後部座席に座った一花は呆れたように「ナビを見なよ」「ここさっきも通ったよ」と口にする。それがまた朋美の神経を逆なでた。「誰のためなの」「あんたの習い事よ」と言いたくもない棘が言葉になって飛び出した。一花は「別に休んだってよかったのに」と投げやりな返事をよこすと押し黙ってしまった。険悪な空気が狭い車内に充満して、息苦しくなった。そうやってやっとの思いで道場をみつけたのに、道場には誰もいなかった。

「時間、間違えたんじゃないの」という一花の言葉に急いでスマホを確認する。言うとおりだった。朋美は開始時間を間違えて覚えていたのだ。稽古が始まるまで三十分もある。


 本来なら一花を置いて、すぐに家へ帰るつもりだった。行きがけに洗濯機を回していた。帰るころにはちょうど脱水も終わるだろう。それに今晩は一花の好きなから揚げにするつもりで鶏肉も解凍してあった。戻って下準備をし、迎えに行く。帰ったら揚げたての熱々を食べる――それが朋美の今日の計画だったのだ。

 だが、時間を間違えたことでスケジュールは大幅に狂ってしまった。よしんば帰宅できたとしても家にいられる時間は十分かそこらだ。洗濯物を干すぐらいはできても慌ただしいだけで、朋美が描いていた計画からは程遠いものになってしまう。そういったことが尾を引いて、きっとまた一花に当たってしまうのだろう。


 母子家庭でも親ひとり、子ひとりであったなら、稽古帰りに外食すれば済む話だが、朋美にはもうひとり子供がいる。一花の兄でもある慶四郎が家で待っている。彼一人を置いて外食はできない。かと言って、わざわざ出かける準備をしろというのも気が引けた。


 お金に余裕があったなら――と思う。安定した収入を得られないパートの身の上だ。収入自体も多いわけではない。以前勤めていた先で陰湿ないじめにあって以来、心身を壊してしまった朋美は正社員で働けるほど体調が整っていないため、仕事も単調で、負担のないものを選ぶしかなかった。人間不信に陥っていることもあって、人間関係を気にしなくて済む短期間契約の仕事を渡り歩いている。まさに綱渡りという状況だ。それに加えて、特に資格も持たない朋美が選べる求人は極端に少ない。何件も履歴書を送って、いくつも落ちた。やっとつかんだ仕事も働く時間は短い。


 それでもまだ仕事に就けるだけありがたいのだ。資格という資格も持っていない、学歴だってあるわけではない人間を使ってくれるところがある。綱渡りであろうと、給料が少なかろうと無職ではない。そうやってなんとかしのいでいる中で、高校二年生と中学一年生という大人顔負けの勢いで食べるふたりを連れての外食は贅沢すぎる。

 契約満了まで二カ月。次の仕事は決まっていない。もしかしたら当分決まらないかもしれない。失業保険をもらい終わってしまっている。できるだけ出費は控えたい。そうなるとガソリン代を節約する意味でも家には戻らないほうがいい。一花は残念がるだろうが、出来合いのもので我慢してもらおうと一番近かったショッピングセンターへやってきたのだ。今の時間帯ならば通常価格よりも値引きされた弁当や総菜があるだろう。

 入口へ向かう途中で慶四郎へ連絡を入れた。そこへあの女だ。


 今日の出来事をぐるりと思い出して、朋美はぶるっとひときわ大きく身を震わせた。女から漂ったニオイが不意によみがえった。くしゃみが出る前のツンとした痛みが襲うのを、両手で鼻頭を覆って堪える。

 まずいな。このままじゃ風邪を引きかねない。ちょっとの体調不良でも仕事は休むように言われている。仕事を休めば生活はますます苦しくなる。一日だって休みたくない。いや、休むわけにはいかないのだ。

 その思いが朋美の足をさらに加速させた。

 なかば走るようにして食品売り場へと向かった。買い物かごを手に取った。どうせ総菜を買って帰るだけだから荷物は重くならないだろうとカートはやめた。

 青果売り場を通り過ぎれば総菜売り場はすぐだ。

 赤ちゃんの握りこぶしくらいのサイズの大きなシュウマイはたしか五つ入りだったはず。骨付きチキンは三本入りでいくらだったか。てんぷらの盛り合わせもあったし、から揚げは鉄板だ。かつ丼、五穀米のヘルシー弁当。さて、なにを選ぼうか。


 しかし食品売り場に足を踏み入れようとしたところで「ダメですよ」と声を掛けられた。ショッピングセンターの従業員らしいえんじ色のエプロンをした男性が近づいてきて「今日は時短営業で七時半までなんで、もう入れません」と天井を指して言う。指をたどると降りてくるシャッターが目に入った。「すみませんね」と男性は小さく頭を下げると、シャッターの向こう側へと走っていく。

 待って――と伸ばした手がシャッターに阻まれる。床まで降りたシャッターがガシャンッと乾いた音を立てた。

 その瞬間、びゅおうっと凍える風が吹いて朋美の顔から笑顔を剥がした。目の前が暗転した。床が液状化でもしたかのようにぐらぐらと頼りなく揺れていて、ずぶずぶと足がぬかるみに捕まってしまう。体中を流れる血が一斉に動きをとめた。息が――つまる。誰かに後ろから喉を締め上げられているような苦しさが急激に襲った。めまいがする。視界がぐにゃり、ぐにゃりと曲がって歪になっていく中、耳元で嗤い声が聞こえる。腹の底からわきあがるような声だった。

 嗤い声に聞き覚えがある。二年前、体を壊したときに聞いた声と同じだ。これは――


 手にしていたスマホが突然振るえ、朋美は我に返った。ディスプレイに通知がある。慶四郎からだ。


 ――『なんでもいい』


 たったそれだけだった。味も素っ気もない。朋美の唇がわずかに震えた。

 慶四郎が『なんでもいい』というのが朋美への気遣いだとよくよく理解していた。なにが食べたいと尋ねたところで彼は、買ってくれたものに文句は言わないからいいよと言う。

 だが、今日はそんな彼の優しさがつらくて悲しかった。

 だってのだ。いつもならいろんな種類の総菜や弁当が所狭しと並べられているはずの食品売り場に入ることも許されなかった。

 予想もしていなかった。何の前触れもなく絶望が朋美の肩を叩いた。絶望が朋美の傍らで嗤っている。


 ああ。ああああ――


 うめき声が漏れる。手が大きくわなないた。耳の奥で心臓が激しく鼓動している。見開いた目の端がぷちりと裂けた気がした。

 どうしてこうなった。どうしてこんなことになった。どうして弁当にまで裏切られた――


 そんなこと、決まっているじゃないか。


 耳元で誰かがささやく。ゆっくりとそちらへ視線を動かした。

 ワタシがあんたの大事なものを奪ったからに決まっているじゃないか。

 女が嗤っていた。だらしない体型の赤ら顔をした女が朋美の耳元でニタニタと嗤っているのだった。


 返して――


 朋美は叫んだ。

 女はその体からは信じられないほど俊敏に飛び退って『ダメさ』と答えた。イヒヒヒヒッと嗤って人の合間を踊るように抜けて出口へと走っていく。

 朋美は慌ててきびすを返した。女の姿を急いで追った。買い物かごを投げるように戻して駐車場へ一目散に駆けだす。

 こうなったのは全部、あの女のせいだったのか。あの女が最後に残っていた運を朋美から根こそぎ持っていったのだ。今なら間に合う。そうだ。取り戻せばいい。あの女に奪われたものを絶対に取り戻して不幸の連鎖をとめるのだ――


 車に乗りこんでエンジンをかけた。大丈夫と繰り返し口にして車を発進させる。

 震えがとまらない。硬くなった指はステアリングに張りついた。尻どころか全身が凍りだしている。


 女はどこだ。どこにいる――自分のものとは思えないほど俊敏に目の玉がぎょろぎょろと左右に動く。

 ときどき、こちらを煽るようにちらちらと振り返りながら女は小走りに出口へ向かっていた。人間とは思えないほど速い。だけど車なら追いつけないことはない。

 アクセルを踏む。左側からやってきた車がパパーンッとクラクションを鳴らした。運転手がなにか怒鳴っている。しかしそれどころではない。女の姿が暗闇に消えていく。


 やっとの思いで出口を通過したのに渋滞に捕まった。赤信号が煩わしい。女の影を探すようにぐるぐると近所を回る。まだ遠くにはいっていないはずだ。

 細い脇道も躊躇なく入る。一方通行。同じような家が並んでいる。人は歩いていない。後続車もない。周りに気を配って進む。車がT字路に差し掛かった。一旦停車の白線がヘッドライトに照らされてくっきりと浮きあがる。

 朋美は停止線の手前でブレーキを踏んだ。そこで一度左右を確認してからゆっくりと車を滑らせて、もう一度とまった。

 右を見てから左を見た。視界がぎゅうっと収縮して、一点に集中した。黒い色の薄いダウンジャケットに白髪交じりの乾燥した髪。醜く肥えた体がゆっさゆっさと上下に揺れながら道を行く。


 見つけた。あいつだ。あの――


「バケモノだ――」


 取り戻さなくてはならない大事なものだ。奪われたままではいけない。このまま車を近づけて後ろから轢けばいい。あのリンゴと同じようにあっという間だ。

 ラッキーなことに、アレはまだこちらに気づいていない。絶好のチャンス到来だ。

 ステアリングを握る手に力がこもる。左へと切ろうとアクセルペダルに足を乗せたとき、スマホが震えた。車内に通知を知らせる光の帯が走って朋美の目を一瞬くらませる。

 腿の上に置いていたスマホに目線を落とした。


『終わった』


 一花からの通知だ。

 けれどその文字はこの世の終わりを宣告するように朋美の目の前にくっきりと浮かんだ。


 ここを右へ曲がれば一花を迎えに行ける。だが――


 左へ顔を向ける。ヘッドライトが女の背中を照らしていた。

 ライトに気づいた女がゆっくりと振り返る。目が合った。女がにやりと嗤う。女の開いた口の中に闇が広がっている。爪の間にこびりついた澱と同じく真っ黒だった。 

 饐えたニオイが通気口から噴き出してきて鼻の奥を刺激した。

 朋美はエアコンのボタンを押してヒーターをとめた。

 いつの間にか体を駆けていた震えはとまっていた。凍りついていた尻が溶けていく。口角がわずかにあがる。

 車内にはけたたましく電話のコール音が鳴り続いている。ナビのディスプレイには一花という文字と顔写真。


 もう少しだけ待っててね――朋美は前を見据えた。


 冷たい夜の下で絶望が嗤っている。

 「これで全部おしまいよ」とつぶやいてステアリングを切ると、朋美はためらうことなくアクセルを踏み込んだ。




(了)

 

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