神崎ひかげVS人の心

和田島イサキ

人の心は難しいですか?

 出てきた人類の八割がたが藤原だった。

 人が今際いまわきわに見るというアレ、いわゆる人生の走馬灯の話だ。思えば彼女とはいつも一緒で、とはいえそれはあくまでも友人としての話、そこによこしまな他意のようなものなど存在するはずがないのだ——と、神崎ひかげは人知れずそう祈った。

 きっかけは熊だった。まさかあんなに大きいとは思ってもみなくて、どう見ても普通のOLが無手で対処できる範囲を超えていたのだけれど、それでもどうにか頑張った。本当は逃げてもよかった。むしろ一旦退いて体制を立て直すべき場面、そこを神崎は深追いした。私も少しくらい藤原を見習おうと、そんな柄にもない気持ちが勝った結果だ。

 結果、まあなんとか息の根は止めてやったものの、でもさすがにタダでなんて虫のいい話はなかった。知ってた、とまではさすがに言わないにしても、でも薄々予想がついていたのは事実。世の中、無理を通すには相応の対価が必要で、だからこれは結果を焦ったがゆえの当然の帰結なのだと、そう後々になって悔いるのはいまや毎度のこと。

 山深い森の奥、大木の根元に背をもたれるように座って、神崎ひかげはひとりため息をつく。もともと何の変哲もない平凡なOL、それが何の因果か数多の巨大生物を退治してきて、でもいつまでもそんな生き方でやっていけるとは思っていない。いなかった。ちゃんとわかっていたのについつい後回しにしてきて、いざそのときが来てから後悔する。いつもと同じだ。少なくとも週に三日以上は迎える、あの酷い二日酔いの朝のように。神崎にとってアルコールは燃料と一緒で、それさえあれば何でも〝やっつける〟ことができた。つらい仕事も、嫌な上司も、それこそいままで始末してきた、凶暴な野生動物たちだって。

 ハンドバッグから取り出したスキットルをあおり、その中身を口いっぱいに含む。そのまま俯くようにして、顔ごと視界を下へと向けた。目の前に、真っ赤に染まった自分の胴体。深く抉るかのような巨大な爪痕。うげっ、と思わず顔を背け、その勢いのままつい飲み下す。口の中に溜めたままだった、高純度のウォッカが喉を焼く感覚。声が出た。思わず、「くぅーっ、最高!」と。やっぱり一仕事終えた後の一杯に勝るものはないなと、即座に神崎の頭の中、飲んだくれモードのスイッチが入る。あれ私いま傷口を消毒しようとしたんじゃないっけ、なんて、そんな現実はもはや忘却の彼方だ。

 きっとOLなら誰もが憧れる仕草、口に含んだアルコールを霧吹きみたいに、傷口めがけてブワーッと吹きかけるやつ。それやんなくてよかったねと、雑菌含んじゃっててきっと逆効果だよと、もしこの場に〝彼女〟がいたならそう言っていたはずだ。

 藤原。神崎がいつも「タマちゃん」と呼び慕う、いつもの親友であり幼なじみ。彼女が一体どんな人間であるか、それを語るための言葉を神崎は持たない。藤原は藤原だ。強いて言えばわりとアホだと思う。藤原のことを思い返すとき、真っ先に浮かぶのはあの独特の笑顔。穏やかで、でもいつもそこそこにテンションが高くて、なにより不思議な温かみのある朗らかな笑み。親友としての身びいきを差し引いても、あんなにも心を許せる笑顔は他に見たことがない——と、いまや消えかけの意識の中、神崎は繰り返しそう思う。

 ——やっばい。これ、思った以上に傷が深いっぽい。

 クラクラと、まるで目眩めまいのような感覚。足りないのは血だ。これまで様々な猛獣珍獣怪獣と格闘してきたけれど、でもよくよく考えてもみれば初めてのこと。神崎は、これまでただの一度として、これほどの深傷ふかでを追った経験がない。それどころか目に見える傷さえ稀なこと、だからこういうときは一体どんな処置が必要なのか、まるで見当もつかなかった。当然だ、彼女はあくまでただのOLにすぎない。医師でもなければ看護師でもなく、それでも強いて人と違うところをあげるとするなら、それは多少の腕力とあと常に酔いどれていることくらい。実際、いまも酔いどれていた。そのぐでんぐでんに酔いどれた、もはや用をなさない頭で神崎は思う。どんどん抜けていく血液の代わりに、とりあえず何か入れないとまずい。何かこう、とてもパワーのある液体を。そうだこれがいい、とスキットルを煽る。満たされる。隅々まで、生命のガソリンが満ちていくような錯覚。

 この錯覚で、そこから生まれる錯誤の腕力で、一体どれだけの猛獣を屠り去ってきたか。

 害獣狩り。私なんかには荷が重い。そう思えど、でも実際倒せてしまえるという現実は覆しようがない。様々な危険生物の返り血を浴び、でもその度に神崎はすり減っていった。身体ではなく、先に神経や精神の方が。無為に他者の命を奪うこと、それは少なくとも彼女自身の望んだ生き方ではなくて、だからこそ心を消毒する必要があった。自ら胃のなかに流し込む、馬鹿みたいな量のアルコールによって。

 酒と女。神崎の命を繋ぎ止めるのはいまやそれだけで、そしてそのうちの後者が藤原だった。

 彼女は太陽だと神崎は思う。どんな泣き言もわがままも受け止めてくれて、荒んだ心を手厚く癒してくれる聖母。一見大仰にも思えるその賛辞は、もちろん嘘偽りのない本心ではあれど、でも神崎は知っている。その実、とても褒められたものじゃない、と。自覚はあった。結局、ただ藤原を都合の良い女として使っているだけだ。そう理解しつつもなおその悪習を断ち切れないのは、当の藤原がこの関係を拒まないから。お互いすべて承知の上での、いわゆる共依存みたいな泥沼の付き合い——。

 なんて。

 自重気味にかぶりを振って、神崎はハンドバッグを漁る。やがて中から取り出したのは、最近買い換えたばかりの携帯電話スマートフォン

「タマちゃん。私たち、本当にそんな関係だったら、きっとどれだけ幸せだったろうね」

 いま気づいた。生死の際、幽明の境に立たされて、初めて本質に向き合う瞳を持てた。タマちゃんはずるい、と神崎は思う。きっと彼女、藤原の方は常日頃から、ずっとこれくらいの解像度で世界を見つめていたのだから。

 神崎と藤原の付き合いは長い。だから薄々、なんとはなしに察していた。藤原は、いつも元気に笑顔を振りまくあの「強いて言えばわりとアホ」の女は、どうやら恐ろしく冴えた頭脳の持ち主らしい、と。

 これまで何くれとなくつるんできて、お互いの立ち位置を意識したことはあまりなかったのだけれど。でもどちらかと言えば私がリードする側なのかなと、そんな無意識下のおごりが神崎にはあった。それは例えば序列や上下関係であるとか、そこまで強い言葉には当たらないにせよ、例えばもし私たちが姉妹だったとするなら、まあお姉さんは私の方だろうな、くらいの感覚。なんだか居心地の悪いものを感じて、神崎は再びスキットルをあおる。長い長い走馬灯の中、いかにも頼りない藤原の笑顔が次々思い出されて、でも死の際にあって冴え渡る神崎の意識に、その優しい思い出はいかにも嘘臭く見えた。

 藤原は頼りない。すぐ迷子になるし、電車なんか何度だって乗り間違えてみせるし、いつも仕事でへとへとになって、それでも弱音を吐かないものだから心配になる。自分で飼い始めた正体不明のトカゲに、頭から丸呑みにされてなお飼い続けるとごねたことだってあった。もうだめだ。この子は私が守ってあげなきゃ、と、その考えそのものが無条件に傲慢だとは、少なくとも神崎は思わない。実際、藤原ひとりではどうにもならない事態を、外でもない神崎だけが守ってやれる事例もあった。さっきのトカゲもそのひとつだし、他には人食いザメだって撃退した。

 そうして何度も守ってきた藤原の笑顔が、神崎を慕い、頼り、なにより一途に立ててくれたいくつもの思い出が、でも今はどこか空々しく思える。

 薄々、本当にうっすら勘づいてはいたのだ。時折見せる何らかの片鱗、例えば本と映画をこよなく愛する藤原が、興奮冷めやらぬ様子で垂れ流しにする感想の、その深い理解とそして研ぎ澄まされた感性。複雑に入り組んだ機序や心の機微のようなものを、適切な形容で端的に整理してみせる洞察。話ぶりそのものは決して賢しらではなく、なんなら平素の印象の通り能天気っぽさに溢れて見えるのに、でもよくよく冷静に考えてみると、どうやら私よりも一回りも二回りも広い視野を持っているかのような——。

 いまわかった。考えてもみればまったく当然の話だ。より多くのものをり、正確に俯瞰できるくらいの冷静さがなければ、どうして目の前の相手を自分よりも立てるだなどと、そんな高度な人間関係が実践できるだろう?

「本当、すっかり騙されてた——なんて、そんなことは全然、思わないけどさ」

 喋り続ける。携帯電話スマートフォンを相手に、きっと誰に向けるでもなく。霞む視界の中、それでも録音メモアプリを起動できたのは幸いだった。これは書き置きだ。ひとりの平凡な酔いどれOLの、せめて最後に残したい自分の生きた証。そう考えて、特に何も浮かんでこなかったのは神崎自身笑ってしまったものの、でも藤原のことは別だった。私のことはまあいいや、でもタマちゃんについては一個だけ、みんなに知っておいてもらわなきゃいけないことがある——。

 藤原は誰も騙さない。誰かを欺くような人間ではないと、神崎はその点だけは確信していた。

 笑顔の裏に隠されていた聡明さ。それは打算や計算のような、意図して行われた偽装じゃない。藤原は頭が良いかもしれないけれど、器用な人間とは到底呼べそうもなくて、だからそれはおそらく当人にとっても、まったく意識すらしていないこと。意図せず、ごく自然な振る舞いの結果として、相手を自分よりも上に立ててしまう。ちょっと乱暴な言い方をするのであれば、相手に自分を〝侮らせる〟という、なんとも特異な能力の持ち主。狙ってやっているわけではない、ただ自動的に出てしまう対人関係上の防御反応として、他人には認知できないほどのごく細かい機微を通じて、相手の機嫌を無限に取ってしまうのだ。

 道理で一緒にいると気分がいいわけだ、と、その不均衡に気づいてしまった時点でもうおしまいだった。

 楽しい猛獣討伐の時間は、ひかげとタマちゃんのスリリングな冒険の日々は、今回の獲物——結果的にそれはなぜか日本国内に発生した巨大灰色熊グリズリーとなったのだけれど、とにかくそれを最後に幕引きとなる。神崎ひかげ、夕陽に死す。感動の最終回は相討ちで、いやそのつもりが明確にあったわけではなかったにせよ、でも未必の故意程度にあったことはもはや否定できない。

 振りかぶられたその巨大な爪に、なぜだか藤原のあの笑顔がよぎって、そしてその瞬間に神崎はもう、その余計な好奇心が芽生えてしまうのを止められなかった。

 ——これを思い切り食らったら、タマちゃん、どんな顔するかなあ?

「ねえ。もしいま、これを聞いているのがタマちゃん本人だったら、いますぐ自分の顔を写真に撮ってくれる?」

 そして私の棺に入れるなり、墓前に供えるなりして欲しい。見たいから。私のこの告白を聞いて、あなたが一体どういう顔をするのか。そのためだ。あなたをそこから、私よりも遥かに理性的で高潔な、その優しさと気遣いの牢獄から無理矢理引き摺り出して、その瞬間あなたは一体どんな顔をするのか? 一瞬前でも後でもダメで、だってあなたはその他者への限りない尊重で、すぐに笑顔で私を送り出そうとしてしまう。その顔を、私の心を幾度となく癒し、どこまでも私にとって都合の良かった聖母の微笑みを、でも力ずくで無理矢理ひっぺがした先、本当のタマちゃんの顔が見たい。そのためならなんだってする。もちろん、命を投げ出すことだって——というのは、さすがに私自身驚いているけれど。

 とまれ、付き合いが長い分、神崎ひかげはよく知っていた。

 タダで、なんて、そんな虫のいい話はない。藤原の人格の根っこ、すっかり染み付いて取れなくなったそれを引き剥がすには、やはり相応の対価が必要になる。こんななんてことのない飲んだくれの命ひとつで、足りるかどうかはわからないけれど——。

「一度でいいの。こういうのってきっと脱臼みたいなもんでさ、一度自分にもこんな顔ができるんだってわかれば、もう無理に笑うことだってなくなるでしょ?」

 その先、きっと本当に告げるべき言葉を、でも神崎はどうしても口にできない。藤原にとってはともかく、神崎からすればそれは最初からひとつ。〝ごめんなさい、こんなことにばっかり付き合わせて——〟何度危ない目に遭わせただろう、何遍酔っ払いの相手をさせただろう。猛獣とやりあっていつも傷だらけの心を、でも藤原にいつも介抱してもらうばかりで、いつしかすっかり役割ができてしまった、そんなふたりの関係性の袋小路。

 行き止まりデッド・エンド。気づけば目の前に立ちはだかっていた分厚い壁を、でも突き破るだけの力がなかったことに——。

 投げ捨てる。最後の力で、手の中の携帯電話スマートフォンを、そこだけは決して録音されないように。

「ダメだー。この期に及んでまだ『強い神崎ひかげ』でいたがるあたり、これは本当に致命傷っぽいや」

 瞳を閉じ、手足を投げ出して、神崎ひかげは人知れず祈る。さようなら藤原、私の人生の八割がたを持って行ってしまった女。この細腕に行き止まりの壁は荷が勝ちすぎて、それでもその優しい笑顔くらいは叩き割れたらと、最後に願うのはそれだけだ。そのままじゃいけない。こんな得体の知れない飲んだくれなんかに、そこまで優しくしてしまうようじゃ。この先は笑うばかりでなく泣けるように、いや別に怒るとかでもいいのだけれど、とにかく隣を一緒に歩く誰かと、同じ高さで世界を見られるように。せっかくこの命を捧げるのだから、次の女とはせいぜいうまくやんなさいよ——なんて、別に藤原の側から何かカムアウトがあったわけでもないのに、なぜか同性と幸せになる前提で祈ってしまう。失血に目眩を起こす神崎の、すっかり曖昧になってしまった自他境界。もしこれを録音してしまっていたなら、きっと最後の尊厳まで失われていた——。

 そう思う。思った。この先、神崎ひかげはしみじみと、若干顔を赤くしてもじもじしながら、個室の広いベッドの上で、具体的にはこれから数日の後。


 朦朧とした意識が闇へと落ちる、その直前に神崎はふと思う。

 ——果たしてそれは、現実に鼓膜に響いたものだったか?


「ひかげちゃん!」


 響き渡るその声は、もはや神崎にとっては耳慣れたもの。藤原。いつも「タマちゃん」と呼び慕う彼女が、でもどうしてかこんな山深い森の奥にいる。どうして、と掠れた声で尋ねたつもりが、普通に「えぇぇどうしてぇ!?」とくっきり発声できてしまったことを神崎は恥じた。健康だ。自分で思うよりもまだ全然。いや結構な重症のはずなんだけどなあと、そう言い訳すべきか迷う神崎の内心を知ってか知らずか、心配そうな顔で駆け寄る当の藤原。

「ひかげちゃん、忘れ物だよ!」

 ドジだなあ、と突然、手渡された武器。忘れたのではなく使い方がわからなかったから置いて行ったのであって、それでも無手では厳しいとわかった瞬間、一旦これを取りに戻ろうか迷ったのだけれど。結局深追いのあと刺し違える形になって、だから神崎は驚きながら藤原に尋ねる。

「危ないよ。どうすんの、まだ普通にこいつ﹅﹅﹅がピンピンしてたら」

 目線をやったその先に、全身の骨という骨を滅茶滅茶にヘシ折られた熊。しかし藤原はそちらを見るでもなく、ただ自信満々に微笑んで、

「大丈夫。だってひかげちゃんは、絶対私を守ってくれるでしょ?」

 それにわたしじゃないとひかげちゃんを探せないから——その言葉に、よく見れば泣き笑いにも見えるその気丈な笑顔に、神崎はさすがに二の句を継ぐことができない。待って、何その「探せない」って。つい思い浮かべたのはさっき投げ捨てた携帯電話スマートフォンで、でもこんな山中が通話圏内であろうはずもなく、だからそっち﹅﹅﹅じゃ﹅﹅ない﹅﹅方の﹅﹅電波﹅﹅直接﹅﹅拾う﹅﹅しか﹅﹅なか﹅﹅った﹅﹅んだと、その藤原の言葉がでも神崎には理解できない。何その「そっちじゃない方の電波」って。そしてよく見ればどうにも見慣れない形の、いま後ろ手に隠した謎の端末っぽい機械は何。訊くべきことはきっと山ほどあって、またくっきりした発声ももちろん可能だったのだけれど、でも神崎のそれを手早く阻止したのは、きっとこの地上で何より手強い存在。

「でも、よかった。ひかげちゃんが全然、かすり傷で」

 満面の笑顔。いやかすり傷ってそんな大雑把な嘘を言うものじゃないよと、そう言ってやるよりも早く決壊する目の前の防壁。ポロポロと、まるで剥がれ落ちるみたいに大粒の涙が溢れて、結局わあわあ泣いて縋り付いてくる頃には、もう神崎も自分がどうしたいのかわからなくなっていた。

 身に負った明らかな致命傷。それを笑って「かすり傷」と呼び替えて、直視するには負荷の高い現実をうまく軟着陸させたところで、物理的な傷が治ってくれるものでもない。いつもの藤原の得意技は通じず、結果としてその笑顔をひっぺがすことに成功したのはいいけど、でもいままで散々頑張って無理だったのがまさかこんなことで、と、その事実に感じる一抹の敗北感。何より神崎はこんな形で、藤原を泣かせたかったわけじゃない。もう誤魔化しようがなかった。とどのつまり、結局のところ、まったく実に単純な話——。

 ただちょっと、彼女に意地悪したかった。

 それだけなんだと、そんな駄々っ子みたいな自分の思わぬ本音を、もう神崎ひかげは直視しないわけにはいかない。

「ずるいよ、タマちゃん」

 ぽん、と藤原の頭に手のひらを置く。ちょうどいい位置にあったから。こんな血まみれスプラッタのOLに縋り付いて、おかげで藤原の方がむしろ全身血みどろ、だから髪に血がつくことくらいはもう今更だった。なんなら抱きしめてやろうかとも思ったものの、さすがにそこまでの余力はない。もし無事に生きて戻れたら、そのとき改めて抱いてやろう——なんて、あくまでその瞬間は本気だったはずの神崎の決意は、でも結局いつまでも果たされることはない。知っていた。人は自分に余裕ができたとき、少なからず冷静さを取り戻してしまうもので、だからこそいつも酒に逃げてばかりのこの神崎にとって、素面しらふでも可能なことなんてひとつ。

 ——人の心は難しいけど、物言わぬ何かが相手だったら。

 わざわざ手ずから届けてくれた、大事な命がけの贈り物。擲弾グレネード。基本的に自分の四肢を武器とするこの神崎が、この先いざというときの奥の手として使うことになる武器。ことにこの思い出の一発は、これから神崎の自宅のクロゼットの奥——少なくとも、やがて管理方法の不味さにより爆発するその日までは——捨てることの叶わぬこの日の記憶とともに、大事に保管されることになるのだった。




〈神崎ひかげVS人の心 了〉



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神崎ひかげVS人の心 和田島イサキ @wdzm

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