後編
——5日目
僕はとても幸せな気分で、朝を迎えた。だって、君ともうすぐ家族になれるから。
それなのに、神様ってやつは、残酷なんだ。
なんでこんな日に限って、『事故後は元気でも脳になんらかの異常があった場合、容態が急変するんです。それがどんな形で出てくるかわからないので、1週間はこちらで様子を見させていただきます』って、木嶋先生の言葉を、現実にしてしまうんだろうか。
異変に気づいたのは、昼過ぎ。
君の鮮やかなグリーンの瞳は、白く濁っていた。
見えにくくなった瞳をこちらに向けて、一生懸命に鳴いている。
その声も、いつもの高い声じゃなくて、ガラガラな声に変わった。
あぁ、君には、こんな形で影響が出てしまったんだなって、僕は絶望したんだ。
何もできない僕に、君は痛みから逃げるように、必死に体をすり寄せてくる。
大丈夫。そばにいるから。
そばにいる事しかできない僕を、許して。
——6日目
君の瞳はさらに膨張して、視力を失ってしまった。それでも、僕の声、足音。それらで僕を感じ取ってくれる。
木嶋先生も岬先輩も、僕に仕事をさせない。
だから僕は、君と過ごせた。
痙攣が頻繁に起こり眠れていないと、木嶋先生は言っていた。
だから君が少しでも眠れるように、いつもの特等席で背中を撫で続ける。
僕の心音を聴きながら、君は痙攣が落ち着くと、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれる。そしてそのまま、幸せそうにまどろむ。
君が痛みから解放されたこの瞬間、時が止まればいいと、願った。
だけどさ、そんな魔法、僕は使えない。
だから僕は、僕にできる事をする。
僕がこの仕事を選んだのは、いつも人間を癒し、助けてくれる君達を、僕が助けたいって思ったからなんだ。
そしてそれは、今なんだ。
こんなにも懸命に闘っている君が少しでも安心できるように、もう見えてはいない瞳を見つめながら、それでも僕は笑顔を向け続ける。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
声をかけ続けるとね、痙攣がおさまるのが早いんだって。気のせいかもしれないと思うのは簡単だけど、僕はそれを信じて君に寄り添う。ただ、それだけだ。
——7日目
「おはようございます」
入院部屋に直結している部屋の裏口から入った僕は、木嶋先生と岬先輩に声をかけた。
君の事が気がかりで、いつもよりもずっと早めに来たんだ。
それなのに、君の声が聴こえない。
「まだ、こっちに来ない方がいい」
同じように早めに来ていた岬先輩はこっちを見ずに、そんな言葉を投げてきた。
あ……。僕だけ、間に合わなかったんだ。
木嶋先生の落ち込んだ顔と、岬先輩の言葉で、僕は理解した。
「いや、しっかり見てあげて。今、逝ったばかりなんだ」
木嶋先生は疲れ切っているはずの顔に、いつもの笑みを浮かべて僕にそう言った。
大切な君。
大切な僕の家族。
だからちゃんと向き合おう。
そう決めて、まるで水風船の上でも歩いているような錯覚を覚えながら、僕は君の元まで歩いた。
そして、いつもの君の部屋を覗き込む。
あれ? すごく幸せそうに眠ってる。
痛みから解放されて、ようやく、眠れたんだ。
「よかった」
幸せそうな君の寝顔を見たら、勝手に出てきた言葉。
だからね、その言葉に、僕はなんて薄情なんだと思った。涙ひとつこぼさない僕は、本当に君を大切に想っていたんだろうか? そんな考えが駆け巡った。
そんな僕に、岬先輩は何を思ったのか、怪訝そうな顔を向けてきた。
「意外。泣き叫ぶと思った」
「泣き叫ぶって……。痛みと闘っていたこの子をずっと見ていたから、ゆっくり眠れてるって、ほっとしたんです」
あ。答えは簡単だった。
僕の口から出た言葉に、僕は納得させられた。
「多分さ、藤堂くんの足音が聴こえて、安心して逝けたんじゃないかな」
木嶋先生が君の頭を撫でながら、そんな事を言ってくれた。
それが本当なら、僕は幸せ者だ。
『あぁ、そうですか。残念ですね。じゃあお金は払わなくていいですよね?』
君の仮の保護者に連絡をして、もらえた返事。
金なんていらない。僕の家族の事には関わらせない。
けれど、君と出逢わせてくれた恩人だから、報告だけはしっかりとした。
それにね、これは普通の反応なんだ。きっと彼女も、解放されたんだろう。誰だっていきなり命を背負わされたら、戸惑う。それでも電話のやり取りを続けてくれた事に、感謝だ。
君との最期の時間をゆっくりと過ごす。
不思議と、今日の患者さんはまだ来ない。
これは君の魔法なのかな?
そう思えるぐらい人が来ないのを感謝しながら、僕は君をどんどん綺麗にしていく。
「おぉ。すごく可愛くなった」
僕の独り言が、トリミング室に響く。
しっかり洗って、しっかり乾かして。仕上がった姿はふわふわの毛玉。可愛くないわけがない。
そんな君を抱き抱え、僕はトリミング室を出た。
「おっ! 可愛いねー! って事で、はい。この子にぴったりの可愛い箱を準備しておきましたー!」
岬先輩はとびきりの笑顔で君に話しかける。
手には真っ白な小さい箱。でも、その周りはピンクと白のレースで飾り付けられている。中にはふわふわな白いタオルも準備されていた。
「可愛いですね。でも、この子は、男の子です」
「いいじゃん、いいじゃん! 可愛いんだから、全部可愛くしちゃおう!」
ちょっと可愛らしすぎるけれど、これが岬先輩なりの君への最後のプレゼントなんだろう。だから僕はそれ以上何も言わず、気持ちよさそうに眠り続ける君を、そっとベッドへ寝かせた。
そういえば、木嶋先生はどこだろう? そう考えた時、張本人が動物病院の入り口から姿を現した。
「この花も一緒に入れよう!」
まるで岬先輩と示し合わせたように、白とピンクの小さな花束を手に持って、木嶋先生は笑っていた。
「よかったな。こんなに可愛くしてもらって」
「うーん、本当に可愛い!」
「最後までよく頑張ったな。またな」
僕の言葉に、岬先輩も木嶋先生も続くように言葉を重ねた。
白とピンクの小さな花に包まれて、幸せそうに眠る君。僕は、その可愛らしい小さなベッドに顔を近づける。頭を撫でて、笑顔を向ける。今まで言えなかった言葉をかけるために。
「また会おうな、トラ」
本当は仮の保護者と、今日、直接話し合ってから正式な家族になる予定だったんだ。
でも、もういいよな? 僕は、君と家族になったんだ。キジトラのトラって安直だけど、決めていた名前で君を呼びたかったから。
ミィ!
君の元気な声が、聴こえた気がした。
君と過ごした幸せな1週間 ソラノ ヒナ @soranohina
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