五 迂闊な僕と、後の祭りはカーニバル
久しぶりに訪れたそこは、三年間当たり前のように通っていた頃が嘘のように、何だかひどくよそよそしい雰囲気を醸し出していた。校門を抜けて、通用口から入る。持参したスリッパを履いて、見慣れた廊下を歩いていると、ほんの半年前までの記憶が、ふっと鮮やかに蘇ってきた。赤い薔薇の巨大な花束の搬入経路はいまだに誰にも知られていない高難度ミッションである。
職員室の前で立ち止まって、ノックをしようとしたところで向こうからガラリと戸が開く。驚いた顔でこちらを見つめてきたのは、三年の時の担任だった。
「あら、
艶やかな赤い唇に、眩いばかりの笑顔。びしっとしたスーツに包まれた体はこう言っては何だが大変に魅力的なラインを描いている。
どう考えてもそちらにも惹かれてしまうはずなのに、何をどう間違ってあんなことに、と彼は一人で遠い目をする。
「……越後くん?」
「あ、
「相変わらずねえ。今日は薔薇の花束は持ってないの?」
ぐぐ、とつまった彼に、相模はくすくすと屈託なく笑う。こういうところがまた純朴な男子を惹きつけてしまうのだ。
「ちょっと卒業証明書が必要になって、発行してもらおうと思いまして」
「ああ、そういえば
聞き慣れた名前にギクリと肩を強張らせると、相模はさらになぜか瞳を妖しく煌めかせて、彼の耳元に口を寄せる。
「もうちょっとちゃんとうまくやんなさいって伝えておいて。彼、人気だから意外と見てる人は見てるのよ」
「……は、はい?」
「まあ、もう卒業しちゃってるからそこまで大騒ぎにはならないと思うけれどね」
そういえば、と何気ない調子で続ける。
「一昨日から休んでるけど、大丈夫かしら」
「えぇ⁉︎」
今度こそうっかり大声を上げてしまった彼に、職員室からの怪訝そうな視線が突き刺さる。
「あ、越後くん、証明書の発行は事務室よ」
それじゃあね、となぜだか鼻歌を歌いながら、相模は去っていってしまった。
手早く事務室で必要書類を受け取って校舎を出るなりメッセージを送る。そういえば一昨日あたりから返信がないなとは思っていたが、何しろ出無精の筆無精だ。気にも留めていなかったのだが、よく見れば既読すらついていない。
「あの無精髭……!」
即座に通話ボタンをタップして、待つこと数十秒。タイムアウトで二回ほど切れて、自分の忍耐もキレるぞこの野郎と独り言を呟きながら、タップし続けること五回目でようやくつながった。だが、聞こえてきたのは地獄の底から響いてくるような低い声だった。
『うるせえ』
「うるせえじゃねーよ。生きてんなら返事しろって。男ヤモメに何トカが湧くとか言うけど、自宅で行き倒れるとかマジか!」
『何とかなるからこっちくんな』
「はぁ? そんな死にそうな声で何言ってんだよ。いい大人なんだからもう大人しくしとけよ!」
とりあえず声が聞けたことに安堵した自分にちょっと呆れながら、和泉の自宅マンションへと急ぐ。
あいにくと鍵は渡されていないから、ピンポンピンポン連打したら、向こうから勢いよく扉が開いてガッとおでこを強打する。
「いってーな! これ以上馬鹿になったらどうしてくれるんだ!」
「馬鹿の自覚はあんのかよ……」
「言葉の綾だ、否定するとこだろ、そこは普通」
軽口を叩きながらもよく見れば、大きな手で額を押さえる顔はいつもよりさらに三割増でヨレていて、珍しいTシャツ姿にちょっと目を見開く。
「まじで寝込んでたんすか」
「帰れ」
「え?」
「今日はお前より頭まわんねーから、帰れ」
「俺の頭は地球と同じで常に高速回転だわ! 何でもいいけど、最後に食ったの何?」
問い詰めてみれば案の定、目を逸らされる。とにかくもぐいと押し入ると、それ以上抵抗する気力もなかったのか、何も言わずに扉を後ろ手に閉めて、よろよろと寝室に戻っていく。
元々怠惰に生きている男だが、さらにここ数日は拍車がかかったらしく、枕元にはスポーツドリンクのペットボトルが数本転がっている。だるそうにベッドに横になったその額に手をのせると、それでもそう高くはなさそうだった。
「だから言ったろ。何とかなるからもう帰れよ」
「ピークは?」
「39.8。ただの副反応だからあとはもう大人しくしてるだけだ」
「あー、ワクチンか。っていうか、それならそうと言えよ!」
突発的な病気もだが、計画的なものなら事前に声をかけてくれれば、とベッドの脇に座り込んで上目遣いに見上げると、何だか鉛でも飲んだような顔をして、片手で両目を押さえてため息をつかれた。
「
「……呼ぶな、それから寄るな」
「はあ? 何それ?」
声をかけたが、背を向けてこちらを振り向こうともしない。とりあえず、ペットボトルを拾い集めてキッチンへと向かう。
何の買い物もせずに来てしまったことを少しだけ後悔しながら冷蔵庫を開けると、卵と調味料らしきもの、それから某国民的ネーミングなレンチンごはんが見つかった。レンジで温め、鍋にお湯を沸かして出汁の素で軽く煮込み、最後に溶き卵を流し込む。軽く塩を振ってから、いつのものかとも知れない海苔を冷蔵庫の奥で発見して、一応匂いを嗅いでから、ちぎって振りかける。
海苔って水をかけると不死の生き物の如く蘇るんだったな、というどうでもいい生物知識を和泉から聞いたことを思い出した。そんな他愛もない会話をするようになって結構久しい気がするけれど、そういえばこの家で料理をするのは初めてだった。
鍋敷きが見つからなかったので、鍋ごと持っていくのは諦めて、棚にあった丼に雑炊を盛り付ける。スプーンを持って戻ると、和泉は先ほどよりは少し落ち着いた顔で、ベッドの上に半身を起こしていた。
「雑炊作ったけど、食えそう?」
「お前が?」
ちょっと驚いたように目を見開いたその顔に、ドヤ顔で胸を張ったら丼を取り落としそうになったので、とりあえずサイドテーブルの上に置く。
「料理しなそうなわりに卵とか出汁の素とかあったけど」
「ラーメンに入れると美味いんだよな」
「不摂生にもほどがあるだろ」
「死にゃあしねえよ」
憎まれ口を叩けるくらいには元気になってきたらしいその顔にホッと息をついて丼を差し出すと、素直に食べ始める。一口目を含んだところで目を見開いて、こちらをちらりと見た顔が何か言いた気だったが、ニヤニヤ笑いすぎたせいか賞賛の言葉は降ってこなかった。
「ごちそうさん」
食べ終わったところで律儀に両手を合わせる。片付けのためなのか、ベッドを降りようとするのを押しとどめて丼を受け取ろうとしたら、思いの外顔が近づいていて、眼鏡を通さない目が何やら強い光を浮かべていた。自然な感じで丼はサイドテーブルの上に置かれて、空いた手で腕を引かれた。
気がつけば、いつもよりさらに無精髭の伸びた顔が真上にあって、何か言うより先に距離がなくなっていた。それほど回数を重ねたわけではないけれど、上からのしかかられるように、拘束されて繰り返されるそれは、今まで経験したそれとは違っていて、何だかヤバい、と本能が警告する。
「み、湊さん……な、何してんの?」
「言ったろ、頭まわんねーって」
間近にある顔は、無精髭まみれでもそれなりにやっぱり男前に見えてしまったのがさらに危険な気がして、なるべく爽やかに見えるようににっこり笑ってみせる。
「ちょっ、一旦冷静にほら、何だっけこういう時は、サインコサインタンジェント、水平リーベ僕の船にいい国作ろう鎌倉幕府?」
「いつの覚え方だよ、それ。今は1185年だろ?」
「せ、先カンブリア時代の生物の化石と推定されるオーストラリア北部でよく発見される生物の化石群——」
「エディアカラ生物群」
間近にある顔が、呆れたように言いながらも、馬鹿みたいにふっと甘く緩んだ。頭回ってるじゃねーか、という抗議の声を上げる前に、ぐっと顔が近づいていつもより温度の高い笑みを浮かべる。
「お前が悪い」
頭の脇に肘をつかれて逃げ場を失って、腰が引けたその時、ピンポーンと呑気な音がした。
視線が逸れたのをこれ幸いと、何も考えずに玄関まで走る勢いではいはいと返事をしながら扉を開けて、それから海より深く後悔した。
「越後くん?」
にっこり艶やかに笑った顔は、それでも全然意外そうではなくて、だからより深く後悔する方向に傾いた上に、この馬鹿、と後ろから低い声が聞こえたから、とりあえず考えるより先に故事成語が口から洩れていた。
「——前門の虎、後門の狼?」
「あらやだ狼になっちゃってた? そこのところ詳しく聞かせて?」
そんなわけで彼は、後悔先に立たず、という先人のありがたい言葉を、これ以上なく噛み締める羽目になったのだった。
倍希釈のコーヒー 橘 紀里 @kiri_tachibana
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