四 カプチーノ、シナモンパウダーのせ
日の長くなった春の夕暮れは意外と長い。西向きのこの部屋は、空が青から朱色に変わり、ビルの間に太陽が沈んでからも、そのグラデーションが夜の色に変わるまで、随分と時間がかかるのがはっきりとわかる。
別に、空の色ばかりを見ていたわけではないが、日の長さの変化がわかる程度にはこの部屋に入り浸っていることを、櫂はそんな風にして思い知るのだった。
「あ、そこもう無理だって……!」
「そう言うなよ、もうちょっとだけ、我慢しろって」
「なにそのエロいセリフ」
ほんの冗談のつもりでそう言った櫂に、だが和泉は予想外に固まって、口から火のついていない煙草がぽろりと落ちた。ついでに止まった手の動きのせいで、あっさりと巨大な虎に似た獣の尻尾の一撃からの突き上げで、残金ゼロ、いわゆる三乙。つまるところは、某N狩行こうぜ的なゲームに興じていただけだったのだけれど。
「あーくそっ、せっかくここまできたのに! 俺の貴重な休日を返せ!」
「たかだか三十分くらいじゃねえか、大人げねえな」
がしがしと頭をかきながら毒づいた和泉に、櫂は呆れたようにそう言った。実際のところ、昼過ぎに合流してからずっとこうしてゲームをしていたのだから、本人が言う割には実に非生産的な休日の過ごし方だ。
だいたい和泉はその外見通りかなり無精で、放っておけばずっとぼんやり煙草を吸っているか、本を読んでいるか、寝ているか、らしい。何しろこのご時世だから出かけるのも諸々憚られるし、とすると必然的におうち時間をどう楽しむかが鍵になり、櫂が提案し、二人で妥協したのが協力プレイができるゲームとなったのだった。
そして件のソフトは櫂としては、圧倒的優位に立つつもりで選んだはずだったのだが、和泉は、かつてプラットフォームが違うバージョンでかなりやり込んだらしく、昔取った杵柄だなんだと言って、意外と器用にこなしてしまう。
「あんたが最初にやったのって何年前よ?」
「あ? えーと、十年……いや、十三年前か」
「俺、まだ幼稚園児か……そりゃ、そのキャリアには勝てねーわ」
何気なく言ったその言葉に、また和泉が固まっている。ヨレたシャツに無精髭は相変わらずだが、眼鏡はかけていない。かける必要がないから、と初めて二人で出かけた時に言っていたが、じゃあその必要性は一体何なのかは相変わらずよくわからないままだった。
「
声をかけると、じっとこちらを見つめて、ひとつため息を吐いてから立ち上がった。冷蔵庫から牛乳の入ったケースを取り出して、コーヒーマシンにセットする。あまり食にもこだわりがなさそうな和泉の唯一の道楽が煙草とコーヒーらしい。準備室に置いてあるものより、ちょっといいやつだというのは後から聞いた。
櫂も立ち上がって、隣に立つ。和泉は少しだけ眉をあげてこちらを見下ろしたが、何も言わずに給水用のケースの水を入れ替えて、カプセルを放り込んでからマグカップを定位置に置いてスイッチを入れる。ズズズッという牛乳を吸い上げる音と共に滑らかな真っ白いフォームミルクが管からカップに流れ込み、それからコーヒーがその一点を穿つように注ぎ込まれる。その綺麗な泡と、ふわりと漂うコーヒーの香りに、何度見ても櫂は惹きつけられてしまう。
「そんなに楽しいか?」
「うん、なんかすごく綺麗じゃね?」
「そうか?」
どこか呆れたように言う和泉の雰囲気は、それでも以前より遥かに柔らかい。くしゃりと櫂の頭を撫でてから、冷蔵庫から何か小さな瓶を取り出すとマグカップに振りかける。渡されたそれを受け取ると、コーヒーの香ばしい匂いに混じって、ふわりとスパイシーな香りが漂う。
「シナモンだ」
自分の分のコーヒーを入れながら、和泉がニヤリと笑ってそう言う。そのスパイスの名前は知っていても、他にどんな用途に使うのか見当もつかなかったから、この家にそれがあることに少し驚いた。
「随分おしゃれさん?」
「うっせえな。俺もあんまりフレーバー系のは好きじゃないんだが、こないだたまたま近所のコーヒー店で試したら、なんかハマったんだよな」
「確かに、いつもと全然違う感じがするのに、あんま邪魔しないっていうか」
「だろ?」
そう言って嬉しげに笑った顔が、ひどく子供っぽく無邪気に見えて、思わず見惚れていると、少しだけ腰をかがめて眼鏡のない顔が近づいてきた。傾いた顔の顎のラインが無精髭だらけなのにひどく艶かしく見えて、どうしていいかわからずぼんやりしていると、普段はすぐ離れるのに、今は後頭部を引き寄せられた。右手にはカップを持ったまま。
距離が戻った後に、まじまじとその顔を見つめて、ふと櫂はふわりと微笑んだ。その表情に、和泉が怪訝そうに首を傾げる。
「何だよ?」
「や、似てんな、と思って」
「何が?」
「シナモン入れたコーヒーと、眼鏡のない湊さんの顔」
「はぁ?」
「どっちも全然違う感じなのに、なんか馴染んでるなって」
かつては生物の準備室が櫂の
だが、そう言った瞬間、和泉はカップを取り落としそうになって、ほんの少し中身が溢れたが、ぎりぎりで持ち直してことなきを得た。なぜだかそのまま空いた手で口元を押さえてあらぬ方を向いている。
「ついに手元不如意?」
「うっせ、意味がちげーだろ。とにかく、それ飲んだらもう帰れよ」
横を向いたままそう言う横顔は、もう空は夕焼けから夜の色に変わっているのにほのかに赤いように見えた。首をかしげながらも、櫂は目下の懸案事項を尋ねる。
「晩めしは? ピザでもとるって言ってなかったっけ?」
夕飯をあてにしていたのでそれを反故にされるのは若干理不尽だった。しばらくの沈黙の後、不意に獣のように和泉の顔が近づいて、首筋に生暖かい何かが触れる。それから小さな痛みと。
「美味しくいただかれたくなかったら、それ飲んでさっさと帰れ」
耳元で低く囁かれたその言葉に理解が追いつかず、一瞬固まる。脳の回路が回復してその意味が繋がった瞬間、櫂の顔のみならず、耳やら首筋までが真っ赤に染まった。
「りょ、了解……!」
そうして、首筋を押さえながら赤べこもかくやというくらい、こくこくと頷いたのだった。
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