三 不機嫌な彼女と戸惑う僕と余裕のあいつ
卒業式も済ませて晴れて高校生を終え、あとは新生活を待つばかりのうららかな春の日。和泉の方はといえば、卒業から新年度まで何かと忙しい様子だったが、それでもせっかくの自由時間を無駄にするのも勿体無い。カジュアルに国立博物館に行きたいと送ったメッセージの数分後、チケットのオンライン予約日程と待ち合わせ場所が送られてきた。
「い、意外とまめ……?」
独り
——のだが。なぜか凛と和泉と三人で上野の国立科学博物館を見て回ることになった。特別展示は混んでいそうだったので、常設展を下から上までゆっくりと回る。途中で動物の剥製がずらりと並ぶエリアで和泉がなぜか呆然としているので尋ねると、子供の頃に動物園で見たものの実物——を剥製化したものらしい。
「トントン……」
今日はいつもより若く見えるいでたちだが、それなりにいい年こいたおっさんが両手で顔を覆って何だか今にも泣き出しそうにしているのを、凛が冷ややかに見つめている。あまりにもその背中が哀れになって、ぽんぽんとその肩を叩くと、凛の表情がさらに極寒に変わっていた。
「何してるの?」
「ま、まあ凛ちゃん。人にはそれぞれ思い出ってものがきっとほら……」
そう言えば和泉の家族構成や生い立ちを櫂は全く知らない。下の名前でさえ最近認識したくらいだ。一方で和泉は櫂の生い立ちや恋の悩みまでほとんどを把握している。情報の不均衡さに今さらのように思い至った。
「とりあえず、昼飯でも食う?」
「そうだな」
すでに午後もだいぶ遅い時刻になっていたし、いったん博物館から出て、公園へと向かう。駅前まで戻れば食事をするところもいくつかあったが、混雑を避けて緑の人魚がロゴマークのコーヒーチェーンでコーヒーとパンとドーナツを買って公園内でのんびりと食べることにする。
代金はすべて和泉がカードで払ってしまい、割り勘でと申し出たが面倒くさそうに手を振られた。その様子に凛がなぜかますます頬を膨らませていたが、二人とも見ないふりをすることでそっと合意する。
すでに桜は満開で、休日のこの時間はかなり人が多い。人混みを避けて、端の方にある桜の木の下の石段の端に腰を下ろし、ホットサンドを頬張り桜を見上げながら飲むカフェラテは控えめに言っても最高だった。
「
「お前、本当にちゃんと味覚あったんだな」
「あんたこそ」
生物準備室であの薄いコーヒーを飲む以外は、一緒に食事をするのさえこれが初めてだから、互いの嗜好はまだよくわからない。彼が和泉について知っていることといえば、いつもヨレヨレの白衣を着て無精髭を生やしており、かなりのヘビースモーカーだということくらいだった。
「あと、意外に面倒見がいい、とか」
「何だ?」
内心で呟いていたつもりが声に出ていたらしい。ハムとチーズのフォッカチャを頬張っていた和泉が眉を上げ、凛がまた険しい表情でこちらを見つめている。その表情に気づいたのか、和泉がため息をつく。
「
「そんな顔って……!」
さらに眉根に皺が寄せられた凛に、和泉は呆れたような顔をしてから、けれど何か悪戯を思いついたかのように、口の端を上げて笑う。
「可愛い顔が台無しだぞ」
顎をすくいあげて、間近に顔を寄せてそんなことを言う。側から見ててもいつもの眼鏡も無精髭も無いその横顔は、文句なしに
「な……っ、最低!」
言って、和泉の手を振り払って立ち上がる。ドーナツの袋を手に持ち、ソイラテのカップを握ると、そのまま踵を返した。
「り、凛ちゃん……もう帰るの?」
「も、元々、午後から用事があったの! まだ今なら急げば間に合うし……!」
なぜか怒りモードでこちらを睨みつける凛に戸惑う櫂とは裏腹に、和泉はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている。それはまた凛を刺激するんじゃないかと内心で思ったところで、案の定、凛は手を握り締めたせいでカップが若干歪み、蓋からラテが少しだけ溢れ出す。
「もう帰るけど……先生、櫂くんに変なことしたら許さないから!」
「変なことって、例えば?」
平然と聞き返す和泉に、凛の怒りが臨界点に達したのか、手に持っていたドーナツの袋をその顔面に投げつけると、背中に怒りを充満させて駆け去っていった。投げつけられたのがカップの方ではなかったのがせめてもの幸いかもしれない。
「大丈夫スか?」
「こんなもんでも思い切り投げつけられると意外と痛ぇな」
言いながらも和泉は紙袋から中身を取り出し、平然とかぶりつく。白い粉を口の周りにつけながら、何が楽しいのか頬を緩ませて食べる様は、なんというか子供のように見えた。
「凛ちゃん、何であんなに怒ってんの?」
「お前が鈍いからだろ」
ほんの少しだけトーンを落とした声音に、どきりと心臓が跳ねた。こちらを見つめる伊達のレンズを通さない眼差しは、わりと率直で正直だ。
実際のところ、さすがに櫂も心当たりがないわけではない。すれ違っていた期間が長すぎて、ついでに別の深みにはまってしまったような気がする今は、それをどうすればいいのか戸惑いしかなかったのだけれど。
「もういっぺん、真っ赤な薔薇の花束、用意するか?」
金なら貸してやるけど、と言うその表情はどこか意地悪で、何かを試すように不穏だ。じっと見返していると、ふとその眼差しが緩んで、顔が近づく。ざらっとする甘い感触と匂いに呆気に取られているうちに、すぐに離れて、平然とコーヒーを飲み始めた。
「い、いくらなんでも大胆すぎじゃね⁉︎」
「みんな満開の桜と自分たちのことでいっぱいで、他の連中なんて気にしてもいねえよ」
ニッと笑って言うその言葉に周囲を見渡せば、確かにカップルたちは花を見上げるか、お互いを見つめ合うのに忙しい。走り回っていた子供が何やらこちらを指差して、近くの母親らしき女性にしきりに何かを訴えているような気はしたが、とりあえず見なかったことにする。
「何なら、もう一回試してみるか?」
余裕のその表情に、日差しと温かいコーヒーのせいばかりでなく何だか熱が上がった気がしたけれど、とりあえず首を振って若干の距離を置く。和泉はただ笑って、それから立ち上がると、櫂に手を差し伸べた。
「さて、今度はどこ行く?」
その表情は凛がいた時とは比べ物にならないほど甘く緩んでいたから、櫂は呆れながらも、その手を取って立ち上がった。
「もっかいパンダ見る?」
「……あれ見るくらいなら、
予想外に心底へこんだように肩をすくめたその顔に櫂は思わず笑って、それから二人で並んで、動物園の方へと歩き出す。
そうして、二人で過ごす初めての春の午後は、暖かく長かったのだった。
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