二 彼の嘘と彼女の決意 (後編)

 卒業式の日、りんの目は自然とかいを探していた。朝からずっと櫂はいつになく上の空のように見えた。その視線は式の最中、担任でもクラスメートでもなく、あの男の方に向いていた。ふと、向こうが櫂の視線に気づき、なぜだか呆れたような苦笑を浮かべる。それから、一つ頷いて見せた。櫂に視線を戻すと、少し驚いたように目を見開いて、それから俯いていた。意識を向けられたことにも嬉しそうというわけでもなく、何だか複雑そうな顔で。


 凛も櫂も今日でこの学校を卒業する。実のところ凛は櫂と同じ大学に進学する。だから、放っておけばいいのだ。教師と生徒の関係なんて、今日で終わってしまうのだから。

 そうわかっているのに気がつけば卒業式が終わるなり、凛は生物準備室の前に立っていた。


 ——櫂が、たどり着く前に。


 しばらく逡巡してから扉に手をかけると、思いの外あっさりと開いた。

「早かったな……って、河内?」

「誰だと思ったんですか?」

 式の最中はすっきりとしたジャケットを着こんでいて、密かに女子たちが写真を撮るほどいつになく整った身なりだったのに、今はもうまたヨレヨレの白衣に戻っている。それは、きっとそれが櫂が一番見慣れた姿だからだ、と何となく確信する。

「別に」

「櫂くんを待ってるんですよね?」

 後ろ手に扉を閉めて、目の前まで歩み寄ってそう尋ねると、和泉はわずかに目を見開いて、それでもただ肩をすくめる。答えるつもりはないらしい。

「先生にとって、櫂くんって何なんですか?」

 まっすぐに、睨み据えるようにそう言った凛に、和泉はひとつため息をつく。

「それを聞いてどうするつもりだ? 俺は教師で、あいつは生徒だ。お前もな」

「それだけですか?」

「それ以上、何がある?」

「ただの生徒なら、何で先生はここで櫂くんを待ってるんですか」

 率直にそう尋ねると、和泉の眼差しがいつかも見たような冷ややかなものに変わる。こちらの胸を切り裂くような、鋭利なそれに。


「本当に、わからないのか?」


 ゆっくりと発せられたそれは、問いでさえなく、はっきりと凛を糾弾する言葉だった。ひどく冷たくて、けれどその冷ややかさは櫂のための怒りを含んでいる。何も知らないくせに、と凛の中で不意に怒りが弾けた。

 本当は、どれだけ彼との再会を楽しみにしていたか。失敗してしまって、何度それを修復しようとしたか。それでもうまくいかなくて、櫂がインフルエンザで倒れたあの日のお見舞いを——最後のチャンスに見えたそれを、和泉じぶんが台無しにしたくせに

「先生があの時、邪魔しなければ、ちゃんと言えたのに!」

「俺のせいにするな。、丸っと二年もあっただろう」

「先生に何がわかるんですか? ずっとずっと好きだったのに、先生が櫂くんを匿ったりするから」

「あいつが——」

 凛の声を遮った声はさらに低くなる。荒らげるわけではなく、ただ静かに、凍りつくように。

「何回あいつがここに来たと思う? 半分がお前のせいだとしても、五十回はくだらない。それだけあいつを傷つけておきながら、今さら俺を責め立てるのか?」

「それは……」

「幼馴染だから、恋をしているから、そんな理由で、誰かを傷つけることが正当化されるなんて、本当にそう思っているのか?」

 それはあまりにも正論で、だからこそ、凛はもう何も言えなくなる。それでも心の中を渦巻くその黒い感情のままに、気がつけば手を上げていた。ぱしん、と軽い音が響く。


 やってしまってから、自分の手を信じられないものを見るような目で見る。教師の顔を、しかも八つ当たりで叩くなんて。呆然として、それから見上げた和泉は、こちらも何だか毒気を抜かれたような顔をしていた。頬にはくっきりと、とまでは言わないが明らかに赤い色が残っているのに。

「……あー、悪い」

 あっさりとそう言った声は、もう授業で聞く気怠げなその声音を取り戻していて、だから凛もどうしていいかわからず、ひとまずは頭を下げる。

「す、すみませんでした……!」

「いや、完全に俺が大人げなかった」

 そう言った顔は、苦い笑みを浮かべている。それは、きっと凛が櫂に恋をしていなければどきりと心臓が跳ねたかもしれないような大人の表情だった。がしがしと頭をかいて、窓際の棚に腰を預けて、それから凛をまっすぐに見つめる。

「俺はあいつの避難所シェルターでいてやりたかった。これでも教師だからな。でも、それも今日でおしまいだ。だから、今日一日だけは、許してやってくれよ」

 約束しちまったからな、ともう一度苦く笑う。教師だから、というその言葉は、何だかとってつけたように聞こえたけれど、それを開示するほど凛は意地悪にはなれなかった——なりたくもなかった。

 それに、「約束」の内容が何であれ、それを邪魔する権利は凛にはないのだろうと、何とか自分を納得させる。

「先生は、それだけでいいんですか?」

 もう一度、まっすぐにそう尋ねると、和泉はニッと口の端を上げて笑う。

「俺は教師で、男で、こんなおっさんだ。お前さんが心配するようなことは、何も起こらないさ」

 自分が何を心配しているのかさえ定かではなかったけれど、どこか切ないような笑みを浮かべる和泉のその表情とその言葉に、凛はただ頷くより他なかった。


 ——なのに。


 春休みのうららかな晴れた空の下、隣町の大きな書店へ行くために駅にやってきたところで、見慣れた姿を見かけてどきりと心臓が跳ねた。黒いパンツにグレーのパーカー。斜め掛けのボディバッグは鮮やかな若草色で、綺麗な差し色になっている。どことなく落ち着かなげに改札の前で誰かを待っている様子に、何となく嫌な予感がして、少し離れたところでそのまま見守っていると、不意に櫂の表情がぱっと明るくなった。視線の先を見て、凛は思わず全力で顔を顰める。


 オリーブグリーンのスプリングコートに白いシャツとジーンズ。シンプルなのに、背が高く脚も長いから実によく似合っている。髪も少し切ったのか、こざっぱりとしていて、何よりいつもと違うのは、鋭い印象を与えるシルバーフレームの眼鏡と無精髭がない。

 正直、言われなければ、同一人物だとは誰も気づかないだろう。男はそのまま櫂の前に歩み寄って、何やら話し込んでいる。気がつけば、凛は二人のそばに歩み寄っていた。


「何してるんですか」

「……り、凛ちゃ……河内⁉︎」

「もう凛でいいよ、櫂くん。それより、どういうことですか、和泉⁉︎」

 詰め寄った凛に、和泉は実に面倒くさそうな顔になる。無精髭も眼鏡もないその顔は誰が見ても端正で、その状態で学校に行っていれば、女子生徒から黄色い悲鳴が上がり、バレンタインのチョコも倍増するのは間違いない。

「もう俺はお前らの先生じゃねえよ」

「だからって、いきなりデートですか?」

「で、でーと……⁉︎」

 櫂が凛の言葉に驚いたように声を上げる

「違うの? じゃあどこ行くの⁉︎」

 詰め寄ると、なぜだか櫂は目を泳がせて、それでも素直に白状する。

「こ、国立科学博物館。俺が行きたいって言ったら、みなとさ……和泉先生が付き合ってくれるって」

「完全な博物館デートじゃない!」

 しかもどう考えてももう下の名前で呼び慣れている。

「ただ男二人で出かけるだけだろうが」

「じゃあ先生なんで髭まで剃ってるんですか? 眼鏡もかけてないし」

「あ、ほんとだ」

「お前、気づいてなかったのかよ?」

 呆れたような顔で櫂を見つめるその顔は、それでもやはりどこか緩く甘い。これで気づかないのは本人くらいなものだろう。あの時、和泉の言い分を信じた自分が馬鹿だった、と凛は今さらながらに悔やんでも悔やみきれない。


 のほほんと楽しそうな櫂はともかく、緩み切った顔で笑う和泉をそのまま行かせるのは、どうにも癪だと凛の心が叫んでいた。普段は大和撫子のようだと評される慎ましやかなその容貌に、だが今は、にっこりと不穏な笑みを浮かべる。

「お友だち同士で出かけるだけ、なら私も一緒に行ってもいいですよね?」

「え……?」

「はぁ⁉︎」

 戸惑う二人をよそに、特に和泉に向かって凛はもう一度にっこりと笑ってみせる。

「このまま勝ったと思わないでくださいね、和泉 湊さん?」

 それは、彼女からの宣戦布告だった。たとえお邪魔虫だと言われようとも、あの時邪魔されたその決定打の返礼をするまでは、諦めない。

「女ってこえー」

 ぼそりと呟いた和泉に鋭い眼差しを向けると、ふざけたように両手を上げる。そんな二人を見ながら、櫂が首を傾げた。

「現在の状況についてお伺いしても?」

「とりあえず、今は大人しくしとけ」

「さあ、行こ」


 ため息をつきながら言う和泉と、いまだに戸惑った表情を浮かべる櫂に嫣然と微笑んで、それぞれの腕に自分の腕を絡めて、凛は新たな一歩を踏み出したのだった。

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