あのとき、それから

一 彼の嘘と彼女の決意(前編)

「ねえりんちゃん、離れても僕のこと忘れないでね」


 きらきらとした、少し薄い色の瞳でそう言った彼の顔を、凛が忘れるはずがなかった。お隣同士で同じ幼稚園で育ち、小学校に上がる前に遥か遠い国へと引っ越してしまった幼馴染。それでも頻繁に顔を見ながらオンラインで会話をしていたせいで、あまり久しぶりという気がしない。だから、彼が日本に戻ってくると聞いた時も、大きな感動や感慨はなく、きっとそのまま何事もなくあの頃のように戻れると思っていたのに。


 伸びた背と、広がった肩幅。差し出された大きな手も子供の頃とは全然違っていて、何より低くなった声はやわらかく心地よく響いて、オンラインとオフラインの違いを実感した。率直に言えば、あまりの格好良さに胸がときめいたのだ。

「凛ちゃん、久しぶり」

 なのに、にっこりと無邪気な笑顔を浮かべて近づいてきた彼に、自分でも驚くほど冷たい声で応対してしまったのは、どうしてだったのだろう。

「そんなふうに、子供みたいに呼ばないで」

 冷やかすような周囲の声など気にしなければよかったのだ。けれど、一度出てしまった言葉は取り戻せず、繊細で傷つきやすい柔らかな心の持ち主だった彼——かいは、ひどく驚いた表情でその言葉を受け止めて、それから、うん、ごめんね、と小さく呟いて、以降本当に凛から距離を置いてしまった。


 何度か修復する機会はあったはずなのに、ややこしい思春期の自分の感情と、好奇心と嫉妬の入り混じったクラスメートの視線や心ない言葉は、それを阻害するのに十分だった。そうして、半ば無意識に、半ばは意識的に凛は何度も櫂を傷つけたのだと思う。

 いつからか放課後、気がつくと櫂の姿が見えないことが増えた。席に鞄は置いたままで姿だけが見えない。何度目かにそれに気づいた時に気になって姿を追うと、人気ひとけのない生物室の準備室に入っていく背中が見えた。鍵がかかっているはずなのに、と様子をうかがっていると、生物の担当教師の和泉が何事もないように入っていき、しばらくして櫂が一人で出てきた。その表情はクラスで見るよりも遥かに穏やかで、何となく胸がざわついた。


 翌日、生物の授業の後に担当教師のその顔をじっと眺めていると、珍しく視線が返ってきた。無精髭に少し尖った印象の銀縁眼鏡。ヨレヨレの白衣と整えられていない頭はマイナスだが、何しろ背は高いし、意外と面倒見が良いから女子の人気は高く、毎年チョコレートを大量に贈られている。

 本来なら教師が生徒から物を受け取るのはNGだが、この学校は偏差値が高い割には緩い校風が特色だったから、平然と受け取るものの、お返しを受け取った生徒は誰一人いないということだった。ある意味大人らしい対応と言える。


 なのに。


 凛に返された視線は、ひどく冷たいものに思えた。高いところから見下ろして、それから鼻を鳴らして薄く笑って視線を外すと、そのまま教室を出ていく。振り返って櫂を見ると、ぼんやりとその視線が扉の方に向けられていたから、彼もまた和泉を見ていたのだと何となくわかってしまった。

 それからも特に大きな変化は起きなかった。初めはクラスから浮いていた櫂も、少しずつ馴染むようになり、それでも特定の誰かと深く親しくなるというよりは、誰とも程よい距離を保っていた。凛を避けることもしないが、積極的に声をかけてくることもない。だから、彼の中ではもう凛はただのクラスメートの一人になってしまっていると、そう思っていたのに。


「本当に馬鹿なんだから」

 小さく呟いてから、いやでも目に入ってしまう散らばった赤い花弁はなびらを眺める。それはきっと櫂が、彼なりに一生懸命考えて、準備してくれたものだ。幼い頃、赤い花が好きだと凛がそう言ったことを、覚えていてくれたのかもしれない。

 どちらが馬鹿だったのかは歴然としていて、あまりの胸の痛みに涙が出そうになる。それでも、こんなところで泣くわけにはいかなかったから、いつも通り何とか無表情を保ち、教室を出る。

 まっすぐ帰る気にもなれなくて、それでもどうしても気になって例の準備室の前を通ると、人の話し声が聞こえた。くぐもったそれははっきりとは聞き取れない。ただ、何かが割れる音がした後、しばらくして扉に近づく気配がしたから慌てて扉から離れる。階段の影に隠れていると、その姿が見えた。もう暗くて表情は見えなかったけれど、何となく歩みがふらふらしているように見えた。声をかけようかと逡巡しているうちに、その姿は見えなくなってしまい、階段でまた膝を抱える。


 ややして、もう一度扉を開く音がして、こちらに足音が近づいてくる。この先は屋上しかないから、誰も寄っては来ないだろうと油断していたのに、まっすぐにこちらに近づいてくるその足音からは逃げ場がなくて、もう諦めてそのまま座り込んでいると、煙草を咥えた姿が見えた。校内で、ずいぶん堂々とした態度だ。

 視線が合うと、ぎょっとしたようにこちらを見下ろして、それでも慌てた様子もなくゆっくりと煙草だけを胸ポケットにしまう。ちらりと視線を向けて、それでも声をかけるでもなく階段を上がっていく背中に、何だか苛立ちが湧いてきた。

「先生、何してるんですか」

「別に。お前こそ、下校時間はとっくに過ぎたぞ」

 櫂くんならいいんですか、と喉元まででかかった言葉は、それでもその射竦めるような眼差しに阻まれて声にならなかった。向けられるそれは明らかに好意ではなく、生徒に向けるにはあまりに冷たいものに見えたのは、彼女の気のせいだろうか。

「先生」

「何だ」

「何か言うことないんですか」

 屋上へと続く扉の前で振り返った顔は、遠くてよく見えない。数秒の間の後、低い声がそれでもはっきりと聞こえた。

「泣いてたぞ」

 主語も何もなく。それでも十分にその意図は伝わってしまう。泣きたいのはこっちだった、と言ってやりたい気もしたけれど、すぐに和泉はそのまま屋上へと出て行ってしまったから、心の中で振り上げた拳も行き先を失ってしまった。

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