7 桜咲く(後編)

 長い外国暮らしのせいで、かいはずっと日本の高校生の「常識」がわからずクラスからは浮きがちだった。その上、久しぶりに対面した凛——河内にもすげなくあしらわれ、どうしていいかわらかずに校内をふらふらとさまよっている時に、たまたま前を歩いていた男が落としたのがその鍵だった。

 「生物室」と書かれたプレートと、気づかずに去っていった白衣の後ろ姿だけがその時は記憶に残っていた。とりあえず渡りに船と忍び込んだその部屋に、だがその白衣は予想外に早く舞い戻ってきた。


 何となく身の上話をし、それから薄いコーヒーを振る舞われて悩みまで開示して、以来ここは櫂の避難所シェルターだった。ことあるごとに忍びこみ、その度に薄いコーヒーを飲む。それでも、これまで一度も和泉はそれについては触れなかったのに。


「これで最後って言ったろ。在処ありかがわかってるならまだしも、紛失は一応管理者としてはまずいんだよ」

 口の端に笑みを浮かべたまま、和泉はそう言った。明日から、櫂はもうこの学校には入れない。だから和泉の言っていることは正当だし、そもそも櫂にとってもこれはもう必要のないものになるのだ。それでも、その鍵をすんなり渡す気にはなれないのはどうしてだろうか、と自分に問いかける。

「そんなもん持ってたって、何にも変わらねえよ」

 櫂の迷いを見透かすように、和泉が空になったグラスカップを置いて近づいてくる。距離が近づくにつれて、何かが終わってしまうのだというその事実に耐えかねて、カップを持ったまま後ずさる。そのまま部屋の隅にぺたりと尻をついて座り込んだ櫂に、和泉は呆れたような困ったような顔をする。子供じみたことをしていることは自分でもわかっていたが、思えばいつだって目の前のこの相手にはいつも情けないところばかり見られてきたのだ。


 和泉は短く息を吐いて、櫂の手からカップを取り上げて実験机の上に置くと、目の前にしゃがみこむ。一瞬だけ何かを迷うようにその手が浮いて、それから櫂の頭をくしゃりと撫でた。

「そんなもんがなくたって、お前はもう大丈夫だろ」

「……何が」

「お前がここから巣立っていく事実は変わらない。一人がしんどいなら、誰かを頼ればいい。それが河内なのか、新しい場所で出会う誰かなのかはわからんが」

「河内?」

 聞き返すと、しまった、というような顔をする。先程、彼女が飛び出してきたことと、和泉の左頬が赤かったことと関係があるのだろうか。

「あんた、一体河内に何したんだよ?」

「したんじゃねえよ、されたんだよ」

「い、いんこ——」

「ちげーよ馬鹿! まあ、本人の名誉のために黙秘する」

 何を言っているのかわけがわからなかったが、どうやら色恋沙汰ではないようで、しかもその理由を開示するつもりはないらしい。

「とにかくいいからもうさっさと出せ」

 あまりに雑なその物言いに、抵抗する気も失せて素直にポケットからそれを取り出し、差し出された手にぽとりと落とす。和泉は一応ちらりと鍵についたラベルと形状を確認してから、白衣のポケットにそれを突っ込むと立ち上がる。離れようとするその裾を咄嗟に掴んでいた。

「何だよ?」

「あ、えーと」

 言葉を探すが、めぼしいものが見つからない。約束通りコーヒーは飲んでしまったし、鍵も返した。卒業式も終えた今、ここに残る意味も、和泉が櫂をかまう理由も何も残っていない。

「これで、全部終わり?」

「ああ」

 あっさりと頷いた顔は、いつもより無表情に見えた。シルバーフレームの眼鏡が伊達だと知っている人間はどれくらいいるのだろうか。他愛無い問いならいくらでも投げかけられる気はしたけれど、どれもが今は不適切に思えて白衣の裾を離して、仕方なく立ち上がる。


 それから、最後にもう一つだけ残っていたものを思い出した。少しだけ迷って、それでもきっと年季の入りようから大切なものだろうからと、あの銀色の四角いライターをポケットから取り出して目の前に差し出す。

「これ」

 和泉は受け取って目を丸くする。落としたことさえ気づいていなかったのだろうか。

「……何でお前が」

 受け取りながらもれた声は奇妙に掠れていた。

「うちの玄関に落ちてた。あの時は、本当に……その、ありがとうございました」

 じっと見つめてそう言うと、和泉はああ、とかうんとか適当な返事をしながら、懐から煙草の箱を取り出し、自然な動きで一本抜き出して咥える。そのままライターに火が灯り、煙草の先に寄せられるのが見えて、慌ててその手を押さえた。

「ここ教室だぞ、何やってんだよ⁉︎」

「あ……」

 呆然とした顔で、ようやく我に返ったとでも言うように、ライターの蓋を閉める。カチンという硬質な音で、自分のしていたことに改めて気づいたのか、前髪をかき上げて、深く息を吐いた。疲れたようなその顔には憂いの色が濃くて、いつもの飄々とした姿からはひどく遠い。正面から指摘すればきっと否定されるのだろうと予測はついたから、櫂はあえて笑って見せる。

耄碌もうろくしちゃった?」

「……かもな」

 火のついていない煙草を咥えたまま、肩をすくめて笑う。その顔は教師というよりは、悪戯に失敗した子供のようなそれで、そうかそれでいいのか、と櫂はなんだかすとんと納得する。


「あのさ、ここから巣立ったら、俺、もう生徒じゃ無いよな」

「まあ、そうだな」

 何を言い出すんだ、と和泉は怪訝そうな顔になる。その視線をまっすぐに受け止めて、櫂は言葉を続ける。

「じゃあ、あんたはもう俺の前で煙草を吸っても問題ない」

「どんな理屈だよ?」

「先生と生徒じゃないなら、別に卒業してから会ってもおかしくないよな?」

「は?」

 和泉が驚いたように口を開けて、その拍子に咥えていた煙草がぽろりと床に落ちた。

「会うっつったって、何するんだよ?」

 落ちた煙草を拾いながら、何かを迷うような顔でそう尋ねてくる。

「何って、どっか出かけたりとか飯食ったりとか、ああ俺そういえば国立科学博物館行きたかったんだ。引っ越す前、子供の頃に行ったきりで」

「……あそこ、だいぶリニューアルしていい感じになってるぞ。でかい化石も見放題だし、日本館の味わいのある展示もなかなかでな……って何の話してんだよ?」


 どこかへ出かけたり、食事をしたり。その関係を表す言葉は、わりとどう考えてもひとつしかないような気はしたけれど、さすがにそれをストレートに述べる勇気はなかったので、とりあえず可能な限り、愛想よくにっこり笑ってみせる。

「ええと、お友だちから始める、みたいな?」

 そう言った櫂の顔を見て、和泉が大きく目を見開いて固まる。ややして、自分の前髪をぐしゃりとかきあげて、海のように深いため息を吐いた。それから、こちらを見つめる眼鏡の奥の眼が、どうしてだか剣呑な光を浮かべる。

「……せっかく、大人の対応してやろうと思ったのに」

 言葉の意味を問い返す間もなく、和泉は不意に眼鏡を外して胸ポケットに突っ込むと、櫂の腕を掴んで引き寄せた。その端正な顔が近づいて距離がゼロになる。きつい煙草の匂いと押しつけられた柔らかいそれにどうしていいかわからず思わず目を閉じると、深く絡みつくような感触がしばらく続いて、すぐに離れた。

「こじらせた大人の純情、舐めんなよ」

 片眉を上げて笑ったその顔が、ひどく切なく、それでも甘く見えて、心臓がおかしな音を立てる。何か決定的に想定していなかった道に踏み込んでしまった気はしたけれど、意地悪く笑いながら鼻歌でも歌い出しそうな和泉の顔を見て、結局彼もいつかのようにふわりと笑う。


 初めて希釈されていないコーヒーを一緒に飲んだその日、ようやく認識したその感情が、相手にとっても同じだったのか、それとももうとっくに始まっていたのかは、よくわからなかったけれど。

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