アルミフレーム越しの恋

高村 芳

アルミフレーム越しの恋

 「冬将軍がすぐそこまでやってきている」と言っていた今朝の天気予報を思い出した。どうりで、足先からひんやりとした冷気があがってくる。塾の教室には暖房が入っているものの、あまり気温が上がっていない。今日は雪が降りそうで人が少ないからだろうか。私は持参したひざかけをかけ直し、ローファーの中の足先を動かして寒さを紛らわせる。


 「最近、目が悪くなったみたいなんですよ」


 何周したかわからない問題集のページを無造作にめくると、視界が二重になって焦点が定まらない。眉根を寄せて数式の文字を一つひとつ目で追っていくが、すぐに目の前で散らばってしまった。隣で問題集を開いて私の解答を待っている先生は溜息をついた。


「夜、暗い部屋で勉強してるんだろ。ちゃんと夜は寝ろ」


 集中できていない私を先生はたしなめた。私は目を瞬かせたりこすったりしながら、先生の横顔を盗み見る。私のことを心配する様子もなく、先生は冬の雪原のように人を寄せ付けないような表情で問題集に目を通しているところだった。眼鏡の中央を押し上げる長い指は細く骨張っているのに、ペンダコだけがぷっくりと顔をのぞかせているのが愛おしい。


「こら。よそ見してないで問題を解け」


 盗み見ていた時間が長かったのか、バッチリ視線が合ってしまった。私は慌てて目の前に広げられた問題集にとりかかり、頭の中で浮かぶ数字やアルファベットや記号をどう料理しようかと考える。

 受験まであと一ヶ月を切り、周りのみんなは信じられないくらい勉強にのめり込んでいた。私もこれ以上遅れることはできないし、必死に勉強しなくてはならない。志望校に行きたいのはもちろんのこと、私はある一つの賭けをしているのだから。

 そんな焦りとは裏腹に、解答を考えている最中にも目がかすみ、数式の輪郭は集中力とともに曖昧になってしまった。私はもう一度左手で目をこする。目を細めてなんとか解答に戻ろうとするが、やはり焦点のあった像は結べず、冷たい空気の中に分散していった。


「やっぱり目が駄目か」


 自分自身にイラついたのが顔に出てしまったのか、先生は問題集から顔を上げ、私の隣で頬杖をついて私の目を覗き込む。先生の眼鏡の奥の両眼がこちらを見ているので、カッと一瞬で耳が熱くなった。目をこするフリをして赤くなったであろう顔を隠していると、先生は細いフレームの眼鏡を外し、こちらに差し出してきた。外す瞬間の、先生の伏せられた長い睫毛から目を離せなかった。


「ん。つけてみ?」


 骨張った指でつまみあげられた眼鏡は、私と先生の間で揺れている。自分の心臓のどくん、どくんという音が耳の奥で響いている。私はおそるおそる眼鏡の反対側のフレームを掴んだ。軽くて折れてしまいそうだ。先生はフレームを耳にかけるようなジェスチャーをして、私に無言で眼鏡をつけるように勧めてくる。アルミ製だからか、細身のフレームに先生の肌のぬくもりがまだ残っている。震えそうになる手で、そっと眼鏡をかけた。そのときにはフレームが冷たく感じるくらい、顔が熱くなっていた。


「どう?」


 低いバリトンの声に問われて顔を上げると、そこには輪郭のはっきりした先生の顔があった。先生の少し癖っ毛のある髪も、長い睫毛も、少しこけた右頬にあるホクロも、薄い唇も、いつもより全部クリアに見えた。その瞬間、自分の息づかいだけが聞こえていた。先生から目を離せなかった。


「よく……見えます」

「じゃあ目が相当悪くなってるかもな。この時期だから面倒くさいかもしれないけど、眼鏡つくったほうが勉強に集中できるぞ」


 先生は眼鏡を外して視界が悪いのか、眉根を寄せ、目を細めたまま私のほうに近づいてきた。ヤバい、顔が赤いのがバレる。驚いた私は思わず後ろにのけぞった。そのはずみで、シャープペンシルが床に落ちた。


「今日だけ眼鏡貸すよ。だから問題集あと二ページ、頑張れ」


 先生は薄い唇の端を少しだけ引き上げた。力を無くした眉尻は下がり、柔らかく微笑んだ。まるで晴れた日に降る雪みたいだと思った。雪は冷たいのに、なぜか温かく感じる、そんな天気のような笑顔。他の生徒の様子を見に行く先生の後ろ姿も、はっきりと目で追うことができた。

 先生の眼鏡のおかげで、手もとの問題集の数式たちはしっかりと輪郭を取り戻していた。これならもうひと頑張りできそうだ。いつの間に全身がぽかぽかとしており、私は気合いを入れて腕まくりをする。

 絶対志望校に合格するぞ。合格したら、勇気を出して先生に連絡先を聞くんだ。

 床に落ちたシャープペンシルを拾い上げ、私は問題集のページをめくる。窓の外では、いつの間にか雪が舞っていた。




   了

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アルミフレーム越しの恋 高村 芳 @yo4_taka6ra

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