再会とはじめまして【天正17年8月初旬】
「……ひさしいわね、お与祢」
中奥の座敷に着くなり、優しげな声が飛んでくる。
声の発生源である上座には、一年ぶりの旭様。
さっぱりとした白緑の絽の小袖に、豪奢な金刺繍が施されたダークブラウンの打掛を腰巻とした彼女は、ゆったりとした笑みを浮かべていた。
まぶたをシルバーグレーで淡く彩った細面の顔色は、最後に会った時より良い。
ゆるくローシニヨンに結われた髪も、ますます黒々として艶が増している。
ここ一年の駿河での生活が、よっぽど充実していたのだろう。
纏う雰囲気は堂々としたもので、大大名の正室らしい貫禄さえ備えている。
「おひさしゅうございます、駿河御前様」
以前の弱弱しさが嘘のようだと思いながら、私は一礼をして下座へと足を進める。
腰を下ろしたところで、旭様の隣に男の子がいることに気づいた。
私と同い年くらいかな。ぱっちりとした目元の可愛らしい子だ。
(まさか、この子が徳川の若君?)
わあ、予想外の展開。
江姫様よりも先に会っちゃったけど、運がいい。
後で奥に戻ったら、どんな子だったか教えてあげられそうだ。
そんなことを思いながら、ひとまず型通りの挨拶を述べる。
「改めまして、無事に駿河よりお越しになられましたこと、お喜び申し上げます。また、ご健勝そうでなによりですわ」
「ありがとう、アナタもね。少し背が伸びたかしら?」
「おかげさまをもちまして、山内の父に似たのでございましょう」
「でしょうねえ。それに、
そうかな。姉姫様と血の繋がりはないのだけれど。
小首を傾げる私に、旭様はにんまりとたわめた唇を扇子で隠した。
「……その能天気な派手やかさ、実にそっくりだこと」
「ふふふふふふふふふ、御前様ったらぁ」
喧嘩を売ってるんですか、こら。
豪姫様に関してはおっしゃる通りだが、私はずっと大人しめのつもりだ。
今日の着物なんて、江姫様に合わせた清楚系のコーディネートだ。
どこを見たら派手に見えるんですかねえ?
抗議の意を込めて見つめると、軽く鼻で笑われた。
うう、やっぱり勝てない。旭様の私いじりテクニックが、去年よりパワーアップしてる。
悔しい思いを心の中に押し込みつつ、気持ちを切り替えがてら男の子をうかがう。
お行儀よく座っているが、養母と見慣れない人間のやり取りに興味津々なのだろう。
私たちを気にする彼の表情は、どことなく去年見た徳川様のそれに似ていた。
間違いない。この子が徳川家の若君だ。
なるほど、可愛い系か。狸顔だから、お父さん似なのね。
なんて思っていると、ふいに目が合った。
軽く微笑みかけてみる。丸い双眸がぱちくりと私を見返した。
ややあって、男の子はまろい頬をうっすらと染めてうつむいた。
え……ウブ……めちゃくちゃウブじゃん……?
「御前様、今さらですがこちらの方は?」
気を取り直して、若君から旭様へ視線を移す。
面白そうに息子を眺めていた旭様が、扇子を閉じてそう答えた。
「うちの人の息子よ、四番目の」
「よんばんめ?」
思わず、旭様の言葉をおうむ返しにする。
江姫様の婚約者は三男だったよね?
旭様が笑みを深くする。私の疑問に気付いたらしい。
男の子の肩に手を回して、言葉を続けた。
「こちらは福松殿、江姫と縁を結ぶ長松殿の弟よ」
「弟君ですか」
「同腹のね……福松丸殿?」
男の子、福松丸様がハッと顔を上げた。
見上げてくる義息子に目を和ませて、旭様は私を紹介した。
「あちらの姫が
挨拶を、と旭様がうながす。
福松丸様は何度も頷いてから、居住まいを正した。
ふたたび目が合う。
まっすぐな目は、今度は逸れなかった。
「
元気な挨拶に、自然と頬を緩む。
微笑ましく思いながら、私も居住まいを正して挨拶を返した。
「
「ありがとうございますっ、……えっと」
私を呼ぼうとして、福松丸様が言い淀む。
「若様」
「!」
「私のことは、どうぞお好きにお呼びくださいまし。与祢でも、粧でも」
途端、福松様のお顔にパッと鮮やかな恥じらいの赤が差した。
やっぱり私の呼び方に迷ってたのね。わかりやすい。
「失礼いたしました……」
「いえいえ、呼び名が幾つもあると迷いますよね」
名を複数持つ人を、初対面でどう呼ぶかって迷う気持ちはよくわかるよ。
この時代の人間にとって、名前は生命と名誉そのものだ。
下手に呼びかけるとトラブルになりかねない危険を孕んでいる。
それを理解して呼ぶ前にためらえたこの子は、とても賢い。
「私、こたびのご対面では、浅井の三の姫様のお側に控える予定なのです。若様も兄君のお側に?」
「はい、そのようにせよと父と義母から命じられております」
ああ、やっぱり。福松丸様も、私と同じポジションを任されているんだ。
だとしたら、彼と私を引き合わせた旭様の意図も見えてきた気がする。
たぶん、サポート役同士で親睦を深めて、上手く連携して役目を果たせってとこかな。
ちらりと旭様を見やる。視線を返すことなく、旭様は扇子の下であくびをした。
察しろってことですね、わかりましたよ。
「でしたらお会いする機会も多うございますね、どうぞよしなに」
「こっ、こちらこそ! 幾久しくよろしくお願いいたします!」
勢いよく頭を下げられて、思わず吹き出してしまった。
幾久しくって、それじゃ、結婚のご挨拶じゃないか。
緊張している中で丁寧な言い回しをしようとして、間違えてしまったのかな。
一気に親しみが湧いてきて、自然と笑みがこぼれてくる。
「困ったことがあれば、なんでも、いつでもお話しくださいね。お力になりますわ」
「いい、のですか?」
「ええ、同じお役目の者同士ですもの。仲良くいたしましょう?」
さらっと流して、そう言い添える。
福松様は、真っ赤にした首から上をぶんぶんと縦に振った。
ああ、素直な子だ。心が健やかな育ちの良い子ですって全身で語りかけてくる。
いいね。熊ちゃんみたいな、やけに物分かりが良い男の子とは違う栄養がある。
「いい子でしょ?」
旭様がにやりと笑いかけてくる。
うん、いい子オーラで癒されます。心が和んでふわふわします。
黙って頷くと、旭様は目を細めた。
「アタクシの養子なの」
「え」
福松丸様に、反射的に視線を送る。
心底嬉しそうな笑顔が返ってきた。
「昨年の秋に、兄と御前様の息子にしていただきました!」
信じられない。
福松丸様、本当に旭様の元で育てられてるの?
さすがの私もびっくりだよ。理解できなくて、絶句するしかない。
「……失礼なこと、考えたわね」
「いえいえいえいえいえ、そんなことは、」
「アタクシが殿の弱みを握って、福松殿をねだり取ったとでも考えたでしょ」
思いっきり言い当てられて、横に振る首をうっかり止めてしまった。
旭様の唇が、さらに綺麗な弧を描く。
あかん。後でこれは呼び出されるやつ。
墓穴を掘った私に笑みを向けて、旭様が口を開く。
「残念ね、単に殿の正室として
「あ、あぁ、なるほど」
身分の高い男性の家の子は、側室が生んだ子も男性の正室の子となる場合がある。
家督の継承は、基本的に正室の子が優先される。
だから側室の生んだ子を嫡男にしなければならない場合、正室がその子を養子にして継承の正当性を作ってあげるのだ。
徳川家も、この慣例に従って福松丸様たちを旭様の養子にしたのだろう。
江姫様のお相手が嫡男、その同母弟の福松様がスペアなのだからすごく自然な縁組だ。
「でも悲しいわ……」
納得している私に、わざとらしい呟きが飛んできた。
「お与祢は、アタクシをとても恐ろしい女と思っていたのね?」
長いまつ毛で頬に影を作って、旭様は物憂げに息を吐く。
全身で露骨なお気持ちを語らないでください。
小心者は耐えきれなくて、謝るしかなくなるからぁ!
「……大変失礼いたしました、御前様。浅はかな私を、なにとぞお許しくださいませ」
即座にお詫びする私の上に、くすくす笑う声が降ってくる。
「ふふふふふ、冗談よ、冗談」
「……………旭様?」
「慌ててしまって可愛らしいこと」
旭様がいっそう楽しげに笑う。
わぁい、平常運転の旭様だったぁ。
軽くイラッとくるこの感じが懐かしいけど、また味わいたくなかったなあ。
「そんなに膨れたら餅になるわよ」
「だったら膨らませないでください」
「ごめんあそばせ、アナタが面白いからついね」
ごめんで済んだら警察は要らないんですよ、旭様。
気持ちを込めて睨んだら、鼻で笑って手招きをされた。
行きたくないが、福松丸様の手前だ。しかたなく上座に上がる。
示されるまま、少し
「ね、とっても面白い姫でしょう」
戸惑い気味の福松丸様に顔を寄せて、旭様が言う。
「福松殿もからかってごらんなさい、楽しくてよ」
「からかうって、
「ちょっと何かしら?」
「ダメですよ、姫に失礼ですっ。僕らまだ、会ったばかりで親しい仲じゃないのに!」
福松丸様が、困った顔で訴える。
そうだそうだ。この子の言うとおり、初めて会った人を軽い遊び感覚でからかうなんて失礼だ。
だが、旭様は息子の訴えをくすくす笑い飛ばした。
「ではおいおいね。親しくなってからのお楽しみができたわね」
「義母上っ」
「ほほほ、福松殿もお可愛らしいこと」
頬を染めて怒る息子を撫でて、旭様が楽しげに声を転がす。
息子相手にもこの調子か、旭様。
あきれた気分で母子を見ていると、福松丸様と目が合う。
困り顔の彼に、軽く微笑んで肩をすくめてみせる。
お互い苦労するよね、というメッセージを込めて。
「!」
途端、福松丸様はぱっと顔ごと目をそらしてしまった。
お母さんに撫でられているところを見られて、恥ずかしかったのかもしれない。
何とも言えず可愛いその姿に、私の心は少し癒されたのだった。
北政所様の御化粧係 笹倉のり @sskrnr753
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