初恋を奪うテクニック【天正17年8月初旬】
源氏物語、という平安時代に書かれた小説がある。
光源氏と呼ばれる貴公子を主人公とし、彼の一生と恋模様を描いた、世界最古の長編恋愛小説だ。
光源氏は恋をする。そりゃもう、老若男女問わず関係を持つ。
それによってストーリーが動いていくのだが、特にインパクトが強いお話は、若紫関連だと私は思う。
その話は、病気療養に出た光源氏が、療養先の近所の幼い少女を見初めるところから始まる。
光源氏は恋焦がれる義理の母そっくりなその少女に心惹かれ欲しくなり、保護者である祖母に引き渡しを拒まれる。
が、その祖母が亡くなったどさくさに紛れて、父親に引き取られる寸前の少女を誘拐。
少女の父親に黙って自分の手元に置き、理想の女性に育て上げたのち、妻として囲い込むのだ。
はっきり言おう、やばい話である。
いい感じのロマンスを抜いたら、ただのロリコンと未成年者掠取と監禁洗脳なのだ。
令和でやったら、正真正銘の犯罪。警察を呼んで逮捕してもらわねばならない案件だよ。
高貴なイケメンであっても許されざる行為だが、実は多少は学べる部分もある。
相手を自分に惚れさせ、自分だけしか見えなくなるよう誘導する手順だ。
恋人やパートナーを独り占めにしたい、という感情はおかしなものではない。私にだって多少ある。
常識を外れすぎない範囲であれば、少し光源氏の真似をしても許されるはずだ。
と、言うわけで。
「ねえ、これでいいの?」
落ち着かない様子で、江姫様が後ろを確認するように身をよじった。
動きに合わせて、腰に巻いた打掛がひるがえる。
たっぷりとした白い紗が、花びらのようにふわりと広がる。
銀糸で縫い取られた波模様と飛沫を模した小粒の真珠がきらめき、チェリーピンクの小袖の腰から下を淡く透かす。
小袖の鮮やかさがあらわな上半身から織りなされるグラデーションが、ハッと目を引いて美しい。
そのさまは、清らかさの中にほのかな色香を含ませた、咲き初めの酔芙蓉のようだ。
「もちろんですわ」
「まことに? 大丈夫なの?」
江姫様が、こちらを振り向く。
心配、と書かれた麗しいかんばせは、いつもよりごく淡いメイクで彩ってある。
唇は軽くグロスで艶を与えた、ナチュラルなピーチカラー。
アイシャドウは下まぶたにポイントが置かれ、目尻に刷かれた薄桜色は自然とほてったかのような柔らかさ。
細やかな絹雲母のフェイスパウダーを軽く乗せた頬の白さは、ほのかに輝きを含んで赤みがかった黒髪によく映えている。
私の仕事ながら、良い出来だ。
いつもとはひと味もふた味も違う江姫様に、思わず会心の笑みを浮かべて頷いた。
「はい。これで徳川の若君もイチコロですわ!」
イチコロにするつもりでコーディネートしたからね!
江姫様に結婚への不安を打ち明けられたあの日、私は彼女に提案した。
愛を待つのではなく、掴みに行ってはどうか、とね。
結婚を仕事と割り切れないなら、夫に愛される方向でア
プローチすれば良いのだ。
ただし、半端な愛ではいけない。
溺れるような愛を捧げさせる必要がある。
やるからには徹底的にって言うでしょ?
ちょっとしたことで我に返る程度では、夢から覚めたように顧みられなくなる日が来る可能性があるためだ。
身分とか、年齢とか、容姿の衰えとか。
ありとあらゆる条件がどうでもよくなって、自分以外の女が石ころに見えるほど盲目的に愛し抜かせる。
光源氏が若紫をそうしたように、その瞳に自分しか映らなくしまえば、江姫様も安心できるに違いない。
人間を含め、生き物は若ければ若いほど、環境に染まりやすい。
真っ白な布がちょっとしたことですぐ別の色に染まるのと、だいたい同じ理屈だ。
早めに囲い込んで視線を固定しておけば、自然と影響されてくれる。
お相手の徳川の若君は、運良くまだ十一歳だ。
多感で色恋の感情に目覚め始めるお年頃だから、さくっと初恋を奪えばよい。
初恋という感情は、かなりしつこく心に根を張る傾向がある。
異性への理想や好みが、初恋の人で固定されたという話も珍しくない。
上手く誘導して江姫様が理想の女性、という状態へ持っていけば、若君は勝手に沼の底へ落ちてくれるのではないだろうか。
若君は、徳川様の嫡男扱いされている子だ。
たぶん、このままいけば二代目の将軍になるのだろう。
そんな大それた人物だろうが、今は関係ない。
彼はまだ、正真正銘のお子様なのだ。
下の話になるが、閨の手ほどきもまだ受けてはいないはず。
女への免疫が無い今が、江姫様最大のチャンスなのだ。
「信じたいけど……不安だわ……」
そう説明してみたが、心配なものは心配らしい。
江姫様は眉を寄せて、打掛の裾を摘んだ。
「やっぱり地味すぎない?」
「殿方にはそのくらいでちょうどですよ」
これは経験則だが、メイクも服もちょっと物足りないくらいが男受けする。
人の好みはそれぞれだが、たいていの男性はナチュラルな女性を好む。
歳が若く、恋愛の場数を踏んでいなければ、いないほどにね。
メイクは濃くなく、かと言って地味すぎないナチュラルメイク。
ファッションは華やかすぎず、けれどもシンプルすぎないもの。
香水は付けないか、石鹸のような清潔な香りをほのかにまとう。
あとは柔らかく微笑んでおけば、第一印象は悪くならない。
お母さんのような気遣いと優しさを振りまく作戦もよし。
安定した母性に心惹かれる人は、老若男女問わず多い。
ポイントは、あからさまにしすぎないことだ。
わざとらしいのにひっかかる男性も多いが、意外と見抜いて嫌がる男性もいる。
女性慣れしていない男性だと、よっぽど思い上がった人でないかぎり、完璧に仕上がった女性に気後れをして逃げる。
ちなみに紀之介様はこのタイプだ。
わざとらしいセックスアピールしてくる女性は、基本的に嫌いらしい。
何度か私も見かけたが、粉をかけてくる表使いの侍女をとんでもなく冷たくあしらっていた。
私に関しては慣れたのか、全肯定して受け止めてくれるけどね。
子供だからか。子供認定されているからなのか。私は女のカテゴリーに入っていないのですか、紀之介様?
……話がそれた。ともかく、男性には紀之介様みたいな人も珍しくないのだ。
だから、相手の好みを見極めるまでは、装いは万事さりげなく。
自然体の女性らしさを演出することが重要だ。
「…………でも、これじゃ気分が上がらないわ」
頬を膨らませて、江姫様は呟いた。
「なんだか小袖も打掛も地味な色でパッとしないし」
「逆に
「お化粧も薄くって、もうほとんどすっぴんだし」
「透明感を出すには色味を抑えることが大切なので……」
「ぜんっぜんわらわ好みじゃない! ぜんぶ!」
でしょうねえ。江姫様の好きな系統は、派手可愛いだ。
着物はハッキリとした色合いで、大胆な柄物を。
メイクはアイメイク重視で、きらきら華やかに。
ともすれば派手で下品にもなりかねない好みだが、江姫様には良く似合う。
この人は背こそ低いけれど、インパクトのある美貌の持ち主なのだ。
つまり、派手なファッションやメイクに顔が負けない。
逆にそれらを従えて、レッドカーペットを闊歩するようなセレブ系美女になるのだ。
私としては、めちゃくちゃアリだと思う。
同じ強い系の美人である寧々様ともまた違うから、装いのお手伝いが楽しくなる。
でもね。
「申し訳ありませんが、今だけは我慢してくださいまし」
残念だけど、江姫様の好みは、これから迎える徳川の若君を落とすには不向きだ。
「お若い殿方は、豪奢に装った女人に近寄りがたさを覚えるもの。
「うううううう」
「唸ってもダメなものはだめですから」
似合うと男受けは、まったく違うものなのである。
諦めてくれという気持ちを込めて、不機嫌に唸る江姫様の背中をさする。
「まずは気合を入れて若君を落としましょう。そのあとで徐々に姫様の好みに戻していけばいいのです」
「…………できるの?」
できるよ。慣らせばいいんだよ。紀之介様みたいに。
「ええ。姫様が何を身に付けていても、絶賛するようにお育てすればよろしいかと」
「……調教?」
「そうとも申しますね」
若君が
きっと江姫様に惚れたら、自ら進んでお尻の下に滑り込んでくるはずだ。
そうなればしめたものである。
義両親である徳川様と旭様の反感を買わない程度に気を付けて、好きなファッションとメイクを楽しめばいい。
「そういうことですから、今はぐっとこらえて……」
「ご歓談中に失礼いたします」
振り返ると、戸口に侍女が控えていた。
「
「まあ、旭様が?」
え、もう登城してたのか。
江姫様と若君の対面は、午後からだったよね?
「ひさしくお顔を拝していないので、ぜひにと」
「寧々様はなんとおおせかしら」
「かまわぬと」
侍女によると、旭様は寧々様に挨拶をしたついでに申し入れたらしい。
さすが旭様。用意の良いことだ。怖い。
「姫様、申し訳ありませぬが……」
ちら、と隣の江姫様に視線を向ける。
「わらわはかまわないわ、いってらっしゃい」
すぐさま彼女は、頷いてくれた。
それをありがたく受け取って、腰を上げる。
私の侍女たちがすぐさま寄ってきて、私の着物の乱れを直し始めた。
「お化粧直しと髪結いの時間までには戻りますので」
「ええ、よろしくね。それにしても、あなたって御前様に可愛がられているのねえ」
感心したような江姫様に、何とも言えない笑みを返す。
旭様は、私を可愛がっているのではない。面白いおもちゃだと思って、気まぐれにもてあそんでいるのだ。
きっと今回もそう。ひさしぶりにこっちへ来たから軽めに遊んどくか、くらいの気分で誘ったに違いない。
もう一度江姫様に謝ってから、お夏たちを引き連れて退室する。
「はぁぁ……」
今からもう、ため息が出てくる。
きっと今日のお昼ご飯、食べた気にならないんだろうなぁ。
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コミカライズ御化粧係の2巻が発売されました!
ぜひたくさんの方の手元へ届いてほしいものです。
続刊のためにも、どうぞよろしくお願いします。
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