姉の不遇と妹の不安【天正17年7月末日】

 江姫様のもう一人の姉である、初姫様。


 竜子様のお兄様である大溝おおみぞ少将しょうしょう様──京極きょうごく高次たかつぐ様に嫁いだ彼女は現在、嫁ぎ先で苦しい立場に追いやられている。


 その発端は、今年の初めのことだった。

 京極家は、幸松様の誕生祝いとして西近江の地に八万石を得た。

 側室はその際、京極家の支配下に組み込まれて与力となった、朽木くつきという国衆が献上した養女の姫だった。

 この朽木家、京極家と同じく武家の名門である佐々木源氏の末裔で、旧幕臣の家柄でもあるらしい。

 加えて姫の生家は、朽木家の親戚である公家の飛鳥井あすかい家。

 公家の序列の中で中級に当たる羽林うりん家で多方面に顔が効く、なかなか悪くない家柄だ。

 初姫様が嫁いで三年近く経つのにいまだ子が無い京極家にとっては、願ってもない好条件の姫が来た。

 老臣ろうしんたちはそう考えて、彼女を側室に推したそうだ。

 だが少将様は、老臣たちの要望を拒んだ。

 正室である初姫様に配慮してのことである。

 初姫様は少将様にとって、浅井家の出である母方の従妹いとこだ。

 正室に迎えた理由は、親と家を亡くして後見が心許ない姪を案じた母に、「浅井の姫を一人だけでも当家で養えないか」と願われたからであった。

 実家の確かな朽木の姫は、そんな初姫様の立場を危うくしかねない。

 ゆえに受け入れられないと少将様は主張したそうだが、老臣たちは引き下がらなかった。

 京極家は今や、天下人の次代を支える外戚である。

 血筋の箔はいくら付けてもいいし、縁も様々にあればあるほどいい。

 集めた箔と縁は遠くない未来、幸松様と京極家の資産と命綱になる。

 先代とともに辛酸を舐めた老臣たちは、心からそう考えていた。

 だから彼らは少将様と初姫様が折れるまで説得をし、朽木の姫を迎えさせた。

 それが、二月の終わりだったのだけれど。



 ────早くも先月、朽木の姫の懐妊が報じられる。



 婚礼以降は姫の閨に入らず、形だけの側室にするつもりだった少将様には想定外。

 老臣や姫の実家である朽木と飛鳥井にとっては、望外の出来事だったことは言うまでもない。

 なんと言おうが今回の子は、少将様の初子ういごだ。

 男児であれば、幸松様を近しく支える立場の従兄弟となる。

 彼らはすぐさま竜子様に報告という形式で秀吉様に伝え、お祝いの言葉を引っ張り出した。

 華姫様が生まれた直後で、すこぶるご機嫌だったのだろう。

 秀吉様はノリノリでお祝いの品を大盤振る舞いし、それを見た世間は一気にお祝いムードへと傾いた。

 実家に引きこもっていた私の元にすら、京極家の慶事に関する報せが届いたほどだ。

 竜子様がね、なんだかんだで兄と実家の慶事を心から喜んでいたからね。

 噂になるより早く手紙で教えてくださったし、書ききれないことは使者の萩乃はぎの様が色々喋ってくれた。

 その際に、初姫様が心配だ、という話も出ていた。

 やはりというか、家での肩身が狭くなったらしい。

 家中の者は嫡男が生まれると騒ぎ、朽木の姫の存在感が日に日に増していく。

 夫は自分を気遣いながらも、子を成せたという喜びを隠せていない。

 それがすごくつらいと、初姫様はしきりにこぼしていたそうだ。

 聞いた時、まずいな、と思った。

 妊娠出産というやつは、いつの時代もデリケートな問題だ。

 早めに何かフォローしないと、初姫様が心を病むかもしれない。

 そう、萩乃様から竜子様へ伝えてもらった矢先。



 初姫様が朽木の姫と、刃傷沙汰を起こしてしまった。



 きっかけは、口論だったという。

 理由は定かではないが激しく言い争ったすえに、初姫様は朽木の姫を短刀で突いたのだ。

 さいわい、朽木の姫が命を落とすことはなかった。

 が、顔を庇った彼女の手のひらに、初姫様の刃がさっくり貫通。

 重傷を負った姫は卒倒し、京極家は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

 これを受けて、老臣たちはすぐさま少将様へ対応を迫ったそうだ。

 孕んだ側室を殺しにかかる正室は困る。

 朽木の姫の安全確保のために、しばらく初姫様を遠ざけてはどうか、と。

 急な展開に少将様が狼狽える中、朽木家と飛鳥井家も動いた。

 香様の一件が、記憶に新しかったからだろう。

 九条家の二の舞は避けたいばかりに、彼らはあちこちに相談という形で話をばら撒いた。

 さすがは都のすぐ側に陣取り続けた元幕臣、何百年も続く羽林家のお手並みだね。

 京極家の刃傷事件は、一瞬で京坂一帯に知れ渡った。

 それも、初姫様が嫉妬に狂って側室をいじめ殺そうとした、というふうにだ。

 結果、大坂や都のどこにいても、初姫様の悪口が聞こえてくる有り様となった。

 竜子様や源五様が火消しに当たっているが、あまり効果は出ていない。

 秀吉様が、噂を茶々姫様の耳に入れるなと指示したきり、この件に関わろうとしなかったためである。

 刃傷沙汰で華姫様の誕生に水を差されて、殿下は初姫様に不快を覚えているらしい。

 そんな噂さえ出るほどの冷たい態度が人々を勘違いさせて、バッシングがバッシングを招いてしまった。

 考えうるかぎり最悪の悪循環の完成である。

 もはや、渦中の少将様と初姫様は憔悴し切っているという。

 このままではふたりとも心が折れて、別居から離縁の一直線になるやも。

 そんな愚痴を手紙で竜子様からこぼされたのが、つい昨日なのだ……。

 



「正室になれても、親も実家も無ければ側室とほとんど変わらぬ身の上なのだわ」


「三の姫様……」


「お父様のどちらかが、泥をすすってでも生きていらしたらよかったのに」



 江姫様の言葉に、何も言えなかった。

 天涯孤独の人にとって、天正の世はすごく生きづらい。

 人や土地とのえんが、社会生活の中で重要視されるせいだ。

 まだ、行政が管理する戸籍や住民票が無い時代だからね。

 個人は自分が持つ縁によって、身元や権利の保障を得るシステムで世間は回っているのだ。

 ゆえに、縁の最小単位である家を失った人は、なかなか弱い立場に置かれる。

 浅井の三姉妹は、その典型例だ。

 実父母も継父もすでにく、実家である浅井と柴田は断絶している。

 かろうじて親戚は残っているが、京極家以外の大半が大した権力を持っていない。

 そのせいで、初姫様の人生が狂っているのだ。

 間近で見せつけられた江姫様が、希望を持って結婚に臨めるはずがない。

 でも、なあ。



「だからと言って、逃げることはおすすめできませんよ?」



 背中をさすりながら告げた私を、江姫様が振り返る。



「三の姫様は姫君です。おとぎ話の姫君のように、お城の外では生きていけません」


「やってみないとわからないわ、そんなの」


「わかりますよ。私、堺の街でそぞろ歩きをして死にかけたことがありますもん」



 三年前の堺で起きたことを話すと、江姫様が青ざめた。

 気持ちはわかるが、これが現実だ。

 


「ほんの少しの外出ですら、私たちには危ういことなのです。まして一人で生きていくことなんて、とてもとても」


「そんな……どうして……」


「一人で生きていけるように育てられていないからですわ」



 周りが私たちお姫様に求めることは、自立ではない。

 賢く美しく育って、よそのお家へ嫁ぐこと。

 お世継ぎを産んで、実家と婚家を盛り立てることであり、庶民に降ることではない。



「与祢はそれで納得しているの?」



 おそるおそるといった様子で、江姫様が訊いてくる。



「思うところはたくさんありますが」


「簡単に言うわね」


「でも、そうするしかないじゃないですか」



 私には、この時代にあってお姫様以外の生き方を選ぶ勇気が無い。

 時が来たら、はらをくくって役目を果たすつもりだ。

 紀之介様のことはあるけれど……ね。

 夢と現実の折り合いを付けなければ、と、最近考えるようになってきた。



「納得できなければ、考え方を変えてごらんになってみては?」



 私の提案に、江姫様が首を傾げた。



「……たとえば?」


「結婚はただのお役目、ととらえなさいませ」



 おやくめ、とおうむ返しに呟いて、江姫様はきょとんと目を瞬かせた。

 あれ、もしかしてわからない感じか。



「ええとですね、こたびの婚姻は、羽柴と徳川の政事まつりごとの一環なのです」



 徳川様は、国内屈指の領地と武力を持つ大大名である。

 それも、織田信長の時代から一貫して、独立した大名として立ち回ってきた人だ。

 織田家が上位の同盟を結んではいたが、臣下に降ったわけではないらしい。

 あくまで最後の最後まで、建前上は信長の対等なビジネスパートナーだった。

 だから秀吉様は、徳川様に気を使わざるを得ない。

 信長の遺産をないがしろにすれば、信長の後継者として得た天下人の権威が揺らぐからだ。

 でも、天下を治めるにあたっては、関係に上下を付けておきたい。

 そう考えた秀吉様は、旭様を人質に選び、徳川様の正室に送り込んだ。

 戦国の世であっても、建前の倫理の上では、弟は兄に従うものとされている。

 一応これは妹を介した義理の兄弟間でも適応されるので、秀吉様は自然な形で徳川様を下に置けるというわけだ。

 徳川様も、秀吉様の意図をわかった上で、旭様を迎えた。

 振り上げた拳の下ろしどころとして、ベストな形だと考えたのだと思う。

 徳川家は、戦国大名としてはそこそこ代を重ねた老舗だ。

 徳川様にはもちろん、家臣たちにもそれ相応のプライドがある。

 成り上がりの羽柴の一家臣ではなく、秀吉様の義弟、という特別なポジションを得ることで、そのプライドと折り合いを付けた。

 かくして秀吉様と徳川様は、Win-Winな関係に落ち着いたのである。

 ……が、一つだけ問題が残ってしまった。


 それは、お世継ぎ問題。徳川様と旭様に、実子を望めないことだ。


 結婚時点で、二人はすでに四十歳を過ぎていたからね。

 四百年先の世ならともかく、二人の血を引く子供が生まれる可能性は、極めて低い。

 旭様が亡くなったら、その時点で羽柴と徳川の縁は途切れてしまう。

 それではいろいろと不都合だから、秀吉様たちは決めたのだろう。

 羽柴のお世継ぎたる幸松様と血縁を持つ江姫様を、徳川のお世継ぎと結婚させることをね。



「姫様に任されたお役目は、両家の関係を円滑に保つこと。つまり……」


「駿河御前様のように振る舞うこと、かしら」


「はい。さすれば、徳川家も決して姫様を無下に扱いませぬ」



 そのとおり。江姫様に求められている仕事は、羽柴と徳川の親戚関係を維持することだ。

 現在旭様がやっている以上のことは求められないし、それさえ自覚してこなせば両家から文句を言われることはない。

 お世継ぎを産めなくても、夫が側室に入れあげても、江姫様の立場は無くならない。

 幸松様との血の繋がりがあるかぎり、江姫様は安泰なのである。

 史実のように羽柴が根絶に近い形で滅ぶとちょっと不安だが、まあ大丈夫だろう。

 ふわふわの茶々姫様ではなくて、賢い竜子様が秀吉様のお世継ぎの母なのだ。

 天下を徳川に譲り渡す状況に陥っても、竜子様なら上手く立ち回って羽柴を残すと思う。

 だから、江姫様も心配はない。

 妻として愛されなくても、生涯羽柴から派遣された正室として丁重に扱ってもらえるはずだ。

 


「夫を恋慕わなくても良いのです。お役目の同輩とでも思って、それなりに仲良くさえできれば障りはありませぬ。駿河御前様と徳川様もそんな感じです」


「でも、御子は必要になるわ」


「お相手を男として見なくても、閨でやることをやって天運に恵まれれば子はできますよ」


「ねっ、ねやってっ、あなたっっ」


「年下の殿方と寝たくないですか? なら、適当に羽柴にも姫様にも縁がある娘を側室にあてがえばよろしゅうございますわ。例えば……ほら、京極家の末の姫君とか」 



 いたよね、あそこの家。竜子様の妹姫で私と同い年の子がさ。

 年齢的にも血縁的にも、万が一の側室候補としては適任じゃない?

 朽木家の息子と最近婚約をしたらしいので、そこもちょうどいいかなと思う。

 意味はちょっと違うけれど、親の因果が子に報うって昔から言うじゃん。

 戦国人らしい思考をすれば、初姫様を酷い目に遭わせたお詫びとして、江姫様の嫁入り道具として引き渡しを求めても許されるはずだ。



「お与祢、あなたって人の心が無くなってきてない?」


「そのくらいわがままにお考えになられませ、と言っているのです」


「わらわには無理よっ! いたずらに不幸な人間を増やす真似ができるわけないでしょ!?」



 江姫様が悲鳴まじりに首を振る。

 やっぱりか。まあ、人には向き不向きもあるもんね。

 言っておいてなんだが、私もそこまで自分ファーストな人でなしにはなれないし。

 できないことを、無理強いするつもりはない。



「では、別の策を使ってみましょうか」


「……ある、の?」


「ありますとも」


「人でなしな方法ではないわよね?」


「ええもちろん」



 頷いて、にじり寄る。

 どんなに難しい問題でも、たいてい答えは複数あるものだ。

 結婚や恋愛なんて、その最たるもの。男と女の数だけ答えがある。

 安心してほしい。これでも私は、元アラサーの女だ。

 学生時代から十数年、それなりに恋愛はしてきた。多少の手管や、魅せ方には覚えがある。

 結婚はしなかったけれど、先人の心構えややり方はたっぷりと見聞きしている。

 そんな思いを込めて笑いかけると、江姫様が怯えたように後退りする。

 ああもう、初々しくて可愛いなあ。でも逃げないでね。

 さっと距離を詰めて、私は涙目の江姫様の耳元に口を寄せる。




「光るの君のひそみにならう……というのは、いかがでしょう」




 私の言葉に、江姫様の肩が揺れた。




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6月15日にコミカライズ御化粧係の2巻が発売されます。

続刊のためにも購入よろしくお願いいたします!

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