ジンジャエール



 コンドームをしない男は頭がおかしい、と瀬戸は思っている。酸欠気味で、上顎をじんじん痺れさせたまま、腹の上に飛び散った精液を拭った。窓から差し込む日差しで焦げたのか、まだら模様の壁にかかった時計を見る。部屋に入ってからだいぶたっていた。講義がはじまってから教室に入るつもりでも、もう支度をしなくちゃいけない。もう端から熱が引き始めている体を起こす。湿ったシーツが擦れてギュッ、と雪を踏むような音が鳴った。瀬戸は反射的に顔をしかめた。黒板を引っ掻く音や、荒々しく閉める扉のように、悪意のこめられた音だ。

「もう時間か?」

 とろとろと、でもしっかりした意志を持って服をかき集めはじめた瀬戸に、まだ裸で横たわっていた佐々木はベッドの脇に落ちていた綿の靴下を渡してやった。セックスをしたあと、次をする気がないくせに甘えてくる女が嫌いだったが、まるで自分がいないかもののように一人でさくさくと身支度をはじめられるのも困惑する。

 これからシャワーを浴びるのに、瀬戸は一度衣類をすべて身につける。素っ裸の、後ろ姿を見られたくないからだ。関節の間に、間違ったパーツをはめ込まれたみたいな違和感がある。噛み合わないクッションを挟まれたみたいにぐらぐらする。

「どうして、コンドームをつけなかったの?」

 佐々木は笑ってなし崩しにしたかったが、何事も答えなければこの会話はそれきりだともわかっていたので「間に合わなかったから」と素直に白状した。ごめん、とも。そう、ふん、ともつかない風が細く吹くような声で返事をすると、さっさと浴室へ行ってしまった。もう会ってもらえないかもしれない。佐々木はケチがついた、と思った。

 髪を乾かす時間がないとわかっていたけれど、瀬戸は頭からシャワーをかぶる。お湯が髪の間をくぐり、頭皮を十分に濡らした。指を差し入れて、全体を洗い流す。耳の後ろも洗う。お湯の温度を少し上げる。今日は、一限目と五限目しか授業がない日で間に結構な時間があるので瀬戸はいつも余裕で間に合うだろうと思うのだが、結局余裕がないことが多い。熱めにしたお湯に全身をくぐし、カラスの行水で瀬戸は浴室を出た。

 瀬戸が身支度を済ませる間、佐々木は声をかけても一切ちょっかいを出したり、延長を申し出たりしない。ほとんど生乾きの髪は一つに結わえた。部屋を出る時、「またね」という声が聞こえたが瀬戸は無視する。もう会わないのなら、返事をするのは不誠実だと思ったからだ。


 凌が目を覚ましたときには、すでに隣に瀬戸が座っていた。うつ伏せていた上体を徐々に起こす。「あっ、今日メガネしてる」そう指摘すると、コンタクト忘れたのと答えた。日焼けしない瀬戸の肌に、メガネの赤いフレームはまるで口紅みたいに浮き上がって見えた。

「ねえ、額にバンドのあとついてるよ」

 腕を枕にして寝ていたから、前髪が潰れて浮き上がっていた。額に瀬戸が触れようとするので凌は自分の手でぺたぺたと眉間の間に触れる。確かに、凌が左手首につけている時計のバンドとぴったり一致しそうな凹凸を感じた。黒板は端まで板書で埋められていて、自分が最後に見た内容と一致しない。はじめの板書はもう消されてしまったのだろう。

「瀬戸、いつ教室に入ってきたの? 全然気がつかなかった」

「二、三十分前。隣に座っても、起きる気配もないんだもの」

 瀬戸の四角っぽい文字が均等に並ぶノートを眺める。あとでノートうつさせて、癪だが申し出た。「いいけど苺オレちょっとちょうだい」、と言われて、凌は講義の前に買った紙パック入りの乳飲料の存在を思い出す。普段は、柑橘系の炭酸飲料や、烏龍茶を購入することが多いのだけれど、つい先日瀬戸が買っていたのを見て、魔が差したというか、つい、たまたま買ったものだった。子どもの頃はよく飲んでいた。喉の形にぴったりと張りついてこっくりと甘く、匂いは鼻がしらにいつまでも残る。飲み物というより、お菓子に近かった。苺の柄がプリントされた包装紙に包まれた強烈に甘い飴、あれがそのまま飲み物になったような味。

 つまり、凌はそれほど苺オレが惜しくなかった。封も開けず、机の上へ置きっぱなしにして、買ったことさえ忘れていたのだ。こういうとろとろ甘いタイプの飲み物は、瀬戸の方が好んで飲んでいた。だから、「まだ開けてないし、あげる。どうぞ」と差し出した。

「え、いいの。やった、ありがとう」

 瀬戸は「これ、好きなのよね」とにこにこしている。彼女からは湿気った髪のにおいがした。安い旅館やホテルに置かれているシャンプーは、決まって髪が軋む。凌はショートカットの上に髪質が硬いため、ただでさえ個性的になる寝癖の強度がさらに増すことになるのだがそれでも旅館のシャンプーが好きだった。自分が普段と違う場所にいるという実感がひしひしと湧いてくる。瀬戸からはあの旅行先のシャンプーのにおいがする。ろくに髪も乾かさないで、風呂あがりの肌のぴちぴちした気配を放ちながら凌の横にいる。目だけが腫れぼったくて、それ以外は講義を受けるのに相応しい手つきでしっかりとノートをとっている。瀬戸は「なに?」と凌をくすぐったそうに見る。彼女がスイッチを切っている瞬間、というのを凌はほとんど見たことが無い。いつでも目元はやわらかくて、どんなことにも眩しそうに笑ったまま喋る。

「別に、なんでも」

 瀬戸につられるようにしてはにかむ。答えに窮したら、声をたてずに笑えばいいのだ。


 凌は、理由もなく触れ合うことに抵抗があるらしい。歯を見せて、唇を左右に引き延ばしながら「得意じゃない」って言い方をした。歯磨きをせがむ子どもみたいな表情は、あれは苦笑いだったのだと、今はわかる。



 けれど、瀬戸は少なくとも凌に関しては、穿った見方をしないですんだ。肩についたゴミを払おうと手を伸ばせば、彼女はさっと自分の手で払い落としてしまう。可笑しくってしな垂れかかる体を避ける。次の瞬間に怯んだ顔をして、まともに瀬戸の顔を見た。体を引っ込めてしまうのは、彼女にとって反射なのだ。熱した薬缶に触れたら体が飛び上がるのと同じで、やめようと思って出来ることじゃない。そして、凌に染みついたその反射は恐らく、それまでの凌からある程度、人々を退けてきたはずだ。

 いつでも、隣から彼女が身を固くする気配を感じる。すぐにほどけるとしても、今も変わらない。そうして、瀬戸が話しかければ、触角みたいに敏感に研ぎ澄まされているであろう体のまま、目も逸らさないで答えた。彼女は瀬戸に限らず、縫いつけるみたいに人を見る。その目つきはまるで動物みたいで、今、話しかけたら言葉が通じないんじゃないかって思えて妙にどぎまぎした。普段どんなに懐いている猫だって、真正面から視線があえば眼孔に向かって飛び込んでくる。

 動物みたいな目つきで、瀬戸が笑えば頬笑むし、真顔のときはいつまでも強張っている。


 瀬戸は、ラブホテルを出てすぐにコンビニに寄った。約束の時間には、まだ十分結猶予がある。しばらく時間を潰そうと思っていたはずなのだが、ふと気がつくとジンジャエールだけを買って、早々に店内を退出していた。コンビニの袋をぶら下げてまで戻る気にもなれず、しぶしぶ歩き出す。早く待ち合わせ場所についたって仕方が無い。待つのは耐え難かった。だから瀬戸は待ち合わせ時間ちょうどになるように動いているし、時間より早くつくか、遅れてつくかのどちらかしかないなら後者を選ぶ。

 けれど、今日、瀬戸はもうあの部屋にいたくなかったし、この後凌と会うのだと思うと少しでも早く部屋から、ベッドから出ておかなければいけなかった。気ばかり焦って、いつものように髪は生乾きだ。でも何よりも、瀬戸はあのベッドのにおいを体から散らさなくてはならなかった。だから、こんなに早々に出てきてしまって、こんなに途方に暮れている。

 口をもっと、きちんとすすいでくれば良かった。湿気って重たくなったシーツを思い出すと、咥内が濃く乾いた。瀬戸は排水溝の上で立ち止まると、買ったばかりのジンジャエールのキャップを開けた。炭酸がぴちぴちと弾けながら鳴り、霧みたいな水滴が指にまで飛ぶ。鋼色に透けた液体を呷った。冷たくて、味より先に炭酸の刺激を感じた。そして、舌を平たく寝かせてジンジャエールを口のなか全体に行き渡せると、排水溝にむかって含んだ液体を吐き出す。瀬戸はペットボトルを手にしたまま、ほんの数メートルも行かないうちに前から凌が歩いてきた。口をすすいでいるところを見られたか気になった。

「あれ、凌、どうしてここにいるの」待ち合わせの場所とは反対方向のはずだった。

「早く着いちゃったから、ぶらぶらしてたんだよ」そう言って、歯を剥くように笑う。


 瀬戸は、寒さで赤く光る凌の鼻を見た。それから、開けたままのペットボトルを差し出して「飲む?」と聞いた。ウン、と凌は頷いた。たった一瞬だったけれど、瀬戸は胸が潰れそうになった。

 ペットボトルを傾けるときの、どこを見るでもないぼんやりした遠い眼差しをそっと盗み見る。凌がわずかに眉をしかめているのを、横目で、無闇なくらい一心に。




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エイリアンズ とじまちひろ @t_ccc2021

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