人間を描いた小説

三島由紀夫作『金閣寺』の溝口と同様、本懐果たせず終いだった粍野ですが(溝口の本懐は金閣寺を焼くことではなく、共に心中することだったと思うので)──。

読み終えてまず思ったのは、粍野は金閣寺の放火にどこまで真剣だったのかということで。

今日しくじったとあれば、再度の放火は実質不可能。それゆえ、早急に立てざるを得なかった計画は緻密さを欠いたものになってしまった──とは云うものの、はたして本当に緻密な放火計画は不可能だったのか、内心こうなることを予期していた、望んでいる節さえあったのではないかなぁと。

寺務所へ連行される道すがら──粍野は「自身がこの次来ることはない」「新しい金閣が建ったとして、どうせ偽物」「見る価値はなく、能動的に見に来ることは金閣に対する冒涜」だと考えている、すなわち“自分の生きる未来”に目を向けてはいるのですよね。

これが捉えようによっては、計画を阻止されて、自分はもう伽藍洞になったのだから、今この瞬間“大義は崩れ去った”のだから、もうここには来なくて良いよね? と他ならぬ自身に云い訳しているようにも取れてしまいまして。

そこが、非常にいいなぁと。

もし粍野が本懐を遂げていたら、きっと彼がなんかカッコいい感じで物語が幕を閉じちゃうと思うのですよ。「ホントに燃やす気あった?」という一抹の疑念を持たせてくれるところに、彼と云う“人間”が描かれていると感じました。つまるところ、人を描いた作品として面白かったです。

余談。『金閣寺』の溝口は放火後天守閣に入れなかったことを「金閣寺に拒絶された」と解釈して逃走するのですが、あれも捉えようによっては大分都合の良い、人間臭い解釈なのですよね(笑)

心のどこかにある「死にたくない」を目前の事物に巧いこと繋げて、生きようという方へ向かっただけちゃうかなぁと(この点に関しては、元となった事件で犯人が生きているのだからそうしただけでは? とも取れるのですが)。そう考えると、やはり件の作品も人を描いた物語として「名作」だったと思います。