発車駅 片耳のイヤホン


 曲はいつしか終わっていた。


 わたしはイヤホンを外すと、顔を上げて空を見た。


 あれから十年。

 ここからの景色はまったく変わっていない。まるでこの場所だけが世界から切り取られ、記憶の揺りかごのなかで眠っているようだ。


 嘘がなんだったのか、美誠は最後まで教えてくれなかった。

 本当は他にも秘密があって、それらを隠したまま、わたしといたのかもしれない。


 時間は共有できても、心はそうはいかないからだ。様々なすれ違いやかけ違いが重なって、真実は簡単に埋もれてしまう。一方向からしか物事を知ることができないわたしたちの眼では、二人の思い出は半分こにするしかないのだ。


 それでも、わたしはひとりぼっちの駅から旅立ち、自分の時間を正しく生きている。


 それは彼女が背中を押してくれたおかげだ。

 わたしは意思を言葉にする勇気をもらった。前を向き、夢を持つこともできた。


 二ヶ月足らずに得た美誠とのひと時は、今のわたしを形作るかけがえのない思い出になっていた。



 わたしはベンチに視線をやり、背もたれに書かれた言葉メッセージを指でなぞる。


 “夢へはばたけ”


 それは自分たちに向けた激励だった。

 美誠もこの大きな翼で夢を叶えられたかな……。




 ――はっと息を止める。



 ホームにはすでに列車が到着していた。


 そして、後ろには人の気配。



 わたしはゆっくりと振り返った。


 歳の近そうな女性がいた。長身で、後ろで結った髪が彼女の呼吸に合わせて小さく揺れている。


 彼女は、もちろんわたしも、信じられないという表情をしていた。

 いや信じていたからこそ、それはすぐに微笑みに溶けていったのだろう。


 「久しぶり、ゆらぎ」

 「美誠も。元気そうだね」


 言葉は自然に紡がれていく。


 「髪、伸ばしたんだ?」

 「うん。なんとなく切れなくて……」


 毛先に触れながら、美誠は懐かしむように眼を伏せる。


 「似合わないね」

 「うっさいなぁ。そっちこそ、パーマとかオシャレしすぎ」

 「これは、こうした方がいいって言われたから」

 「友達?」

 「ううん。マネージャーさん」

 「へぇ、さすが売れっ子絵本作家。見た目にも気を配らなきゃいけないとは」


 んん、と美誠は背伸びをして。


 「お互いすっかり変わったなぁ。美人というべきか、老けたというべきか」

 「でもすぐに分かったよ。美誠だってそうでしょ」

 「そりゃこんな何にもない場所に来る女子なんて、あたしは一人しか知らないもん」


 憎まれ口ばかりが出てくる。

 大人のわたしたち。

 言葉があるのに、どうして素直に再会を喜べないのだろう。


 美誠はわたしの隣に座った。


 まだなにかぼやいていたけど、わたしの手元のDAPを見つけると「それ、まだ持ってたんだ」と呟いた。わたしは頷く。


 「あたしもいい?」

 「はい、どうぞ」


 わたしは片耳だけイヤホンをはめると、もう一方を美誠に渡した。


 再び、曲が再生される。

 わたしたちは静かにそれを聴いた。



 会話は途切れ、二人の間に言葉はない。


 今のわたしたちは一本のイヤホンのみで繋がっているだけだ。


 なのに、どうしてだろう。

 胸の奥がこんなにも温かいのは。


 アコギがはじく柔らかな音色。

 まぶたの裏で膨らむ陽だまりの歌が、わたしたちを包む。


 胸を打つのは言葉だけじゃなかった。



 不意に美誠が咳払いをした。


 わざとらしく。躊躇ためらいがちに。不安と諦めと決意が次々に彼女の顔に浮かぶ。


 やがて、優しい声で訊ねる。


 「こんなとこで何やってるの?」


 目頭の奥から涙の気配――。


 覚えている。美誠はあの時もこう訊いたのだ。

 もはや想起する必要はなかった。

 身体が覚えていた。

 言葉に、心が直接揺さぶられる。


 わたしは涙をぐっとこらえて、澄みきった秋の空を仰ぐ。


 「空を見てました。この空のどこかにいるかもしれない誰かを想像しながら、ずっと……」

 「その人には逢えたの?」


 力強く頷く。何度も、何度でも。

 その感情を噛みしめるように。


 ふと、彼女の言葉がよみがえる。


 『出逢いは一期一会で、そのとき受けた感動はその瞬間が最高潮――』


 嘘つき。今の方がずっとずっと嬉しいよ。


 もう一度、出逢いからやり直そう。



 列車の到着を告げるアナウンスが鳴り響く。


 だけどわたしたちは動かない。

 あと少し、この場所にいたいと思った。

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片耳のイヤホン、半分の思い出 おこげ @o_koge

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