えびフライと桃色の空

いりこんぶ

第1話



 実家ってなんでもあった気がする。カニを食べるためだけのフォークとか、糸通しとか、立派な朱肉とか。日常生活でいるけどいらないものたち。

 わたしは狭いキッチンでゆで卵を賽の目に切りながら思い出す。


 実家には、くぼみにゆで卵を置いてワイヤーを下ろすと輪切りにできるカッターがあった。それは、いまのわたしと同じくタルタルソースを作ろうとする時にだけ母の手で戸棚から引っ張りだされていた。


 でもまあ、と自分でタルタルソースを作るようになったわたしは考える。

 どうせピクルスも切るんだし、ゆで卵くらい包丁で切ればいいよねって。


 取捨選択。


 わたしが住んでいるマンションにはわたしが買ったものとわたしが選んだものしかない。それを自由と考えるか孤独と受け取るかは個人の性質によるだろう。わたしは前者だった。

 さようならアイスクリームをすくう大きな丸いスプーン、こんにちは女子大生の一人暮らし。


 そんなこんなで、半年前の三月からはじめた一人暮らしはおおむね順調だった。カニ用のフォークはないけれど、先輩たちや家族が煽るようにさも恐ろしげに語っていたさびしさもない。気楽でせいせいとしている。それがわたしの性質だ。タルタルソースも上手に作れる。


 今日は、もうすぐちなみがやってくる。だから十九歳の女子大生なのに、まるで良い妻のように晩ごはんを作っている。

 ちなみはわたしが知る限り一番顔が良く、一番タチが悪い女だ。入学式から二週間で大学生活における全てのーーほんとうに全てのーー集団から弾き出され、単独行動を余儀なくされた女。その後、自主的に単独行動を選んでいたわたしを顔面の良さでほだして親友ポジションに収まった。わずかにあったわたしの交友関係はことごとく焼き放たれ、後にはちなみしか残らなかった。


「なんかね、いっつも、女の子からは嫌われるしハブされるんだよね……。わたしは好きって思って仲良くしてたのに、ある日突然いじめられたりとか。男の子もそうでー、なんか、わかんないけど、結局わたし、嫌われちゃうみたい」


 ちなみは人形のように長い睫毛を伏せながら語った。さもありなん、とその時のわたしは思った。


 鎖骨の下まですとんと下ろされた艶々の細い黒髪、毛色に比べると色素が薄くとろけたように見える大きな瞳、ミルクで磨いた陶磁器のように白い肌、小柄な体格のわりにぎょっとするほど長い華奢な手脚。大概の女の子がどんなに努力しても手に入らない本物の美しさ。ちなみはなんの屈託もなくそれら全てを当たり前のようにのびのびと扱った。ちなみの整った容姿は産まれたときからちなみのものだからだ。


 さて、えびの背わたを竹ぐしで引き抜き終えたら、今度はえびをまっすぐにするための下ごしらえをする。えびフライを作るのだ。ぴんとまっすぐ伸びて、こんがり揚がったえびフライ。狭いキッチンの一口コンロでえびフライを作るなんて正気の沙汰じゃないけれど、ちなみのリクエストだから仕方ない。

 包丁で背中側に浅く切れ目をいれたあと、両手でえびをぐいと反らさせるとぷちりと鳴った。えびフライをまっすぐにするためには、このぷちりが大事。えびの繊維をばらばらにすること。


ーー料理というのはときどき拷問みたいだ。あるいは性行為。


 金属製のバッドに並べられ、室温に晒されて生暖かくなっていくえびの半透明な薄肌色は、平和的光景の筈なのになんだかエロティックだった。


 細々とした下ごしらえを全て終え、時計を見ると約束の十五分前。

 きっと三十五分後にちなみが来るな、とわたしはあたりをつけて洗い物をはじめた。大体において、ちなみは約束の時間に二十分遅れてくる。絶妙な遅刻だ。遅い遅い遅い、とひととおり腹を立て終えて、ちょうど少し心配になるタイミング。そこに息を切らして「ごめーん」と眉を下げながら登場されると、怒るより安堵が先に立ってしまう。

 ちなみはそういうコントロールが上手い女だった。ばつぐんの顔の良さと相まって、なんでも許されてしまう女。美しさと可愛さと愛くるしさと、太い実家と国立大学にストレートで入れる程度の頭脳を持っている女。太い実家には当たり前のように物分かりのよい両親と裕福な祖父母までいる。

 それなのに、大学から電車で一時間、駅から徒歩十五分という絶妙に微妙なこのちんけな1DKに訪ねてこようとするたった一人の女。


 洗い物を済ませてシンクの掃除までしたのに室内がまだ生臭い気がした。

 換気のためにベランダ側のカーテンを開ける。窓の外は恐ろしいくらいの桃色に染まっていて、その唐突なけばけばしさにわたしは一瞬ぎょっとする。正確には、桃色と薄紫と暗い水色のグラデーション。あいだに青灰色の雲が入り混じっていて、わたしは夕暮れがオレンジ色でないことを知る。


ーー31アイスクリームだ。


 夏の終わりの、外国製みたいな色鮮やかさ。

 ぼんやり眺めているうちに日は沈み、桃色の空はどんどんと薄紫にかき消されて次第にどっぷりと暗いいつもの夜空に変わりはてた。

 七部袖のスウェットからはみでた手首にうっすら汗をかいたころ、ようやくわたしは正気を取り戻して室内に戻る。


 そうして約束の時間を二十二分過ぎた頃、甘えるように控えめなノックの音が響いた。

 遅いよ、と出迎えながらわたしは一応不機嫌さをよそおう。表情がでれでれとやにさがらないように気を付けていても、左手は荷物を受け取り、右手は不安定な体勢でヒールを脱ごうとするちなみのために差し出してしまう。


「遅れちゃったね、ごめんね? だからいそいできたの。この靴、走りづらかったあ。手、ありがと」


 柔らかな声で微笑んだまま、ちなみは玄関先でバーバリーチェックのスカートを脱いで床に落とした。わたしは瞬時にドアチェーンをかける。

 目の前にさらけ出された白いふとももと、レースでできたチェリーレッドの下着。パンツ一枚で八千円はしそうないかにも上等な総レース。


「あ、着替えたらさー、顔、落としてきていーい?」


 部屋の奥に視線を向けて言いながら、ちなみは一切の躊躇を見せず薄手のオフホワイトニットをキャミソールと一緒にずぼっと脱いだ。


 この女、おっぱいもでかい。

 天は二物を与えたのだ。左のおっぱいと右のおっぱい。心臓のある左側のほうがやや大きく、おそらくアンダー65か70のFかGカップ。パンツと同じ柄のレースブラジャーに包まれた膨らみはいかにも柔らかそうだった。

 内側から発光しているかのように白い肌とチェリーレッドの眩しいコントラスト。

 わたしがあぜんとしている間に、ちなみは鞄から部屋着っぽいショートパンツとグレーのTシャツを取り出してのんびりと着用する。


「洗面台、あるー? 台所?」

「洗面台は、風呂場のとこ。でもなんでいきなり脱ぐのに、洗面台の許可はちゃんと取るの?」

「え、だって顔を洗ったら水道代発生するけど、パンツ見せてもお金払わなくていいから」


 あっけらかんと言い放ち「良ーい?」と首を傾げたちなみにわたしは低い声で了承の返事をする。よかったあ、と明るい声が玄関に響いた。

 そう、玄関なのだ。玄関でこの女、ストリップをした。


 パンツ見せてもお金払わなくていいから。


 むしろわたしがお金を支払うべきだろうか。あるいはちなみの下着はチェリーレッドだったと同期の男子にささやくだけでランチくらいは奢ってもらえそうな気がする。


 わたしがえびフライを揚げている間、ちなみはスマホを弄っていた。

 揚げたてのえびフライと、スティック状に切ったパプリカ、アボガドとトマトと火を通した刻み玉ねぎを混ぜてお醤油とレモン汁をかけたやつ、わかめと油揚げのお味噌汁、あと一丁三百円もする良いお豆腐をそのまま冷奴でというのが今日の献立だ。リビングの小さなテーブルはお皿でいっぱいになる。それは幸福な密度だった。


「白ごはんは食べる? どうする?」

「んー? んー、うん。ちょっと食べする。ふたくちくらい……」


 炊飯器から炊きたてのごはんをお茶碗に装っていると、ちなみは当たり前のようにするりと背後から抱きついてきた。先ほどさらけ出された柔らかなふくらみが背中に押し付けられる。女の子の体温。


「なに?」

「んーん。熟成炊きモードに愛を感じましたのでー」


 すりすりと小さな額を肩甲骨あたりに擦り付けられ、わたしは湧き上がる感情に唇を噛んだ。

 無洗米派だったわたしがスーパーで二番目くらいに高いお米を買って、わざわざ時間のかかる炊き上がりモードを選んでいることに気付かれるのは無性に恥ずかしかった。


「ほら、運ぶよ」

「はあい」


 おいしーい、とちなみは伸ばした口調で笑う。えびカリカリー、とか、なんかすごいお豆腐だー、とか。馬鹿っぽい筈の言動もちなみがすれば子どもっぽくて可愛い、に見えた。顔が良いからだ。

 アボガドとトマトと火を通した刻み玉ねぎを混ぜてお醤油とレモン汁をかけたやつ、は意外にごはんに合う。アボガドの濃厚さに酸味が加わって、玉ねぎとお醤油で和風おかずっぽくなる。


「これすきー」

「知ってる」


 食後はあたたかいルイボスティーを淹れた。

わたしが家でアボガドとパプリカを食べ、ルイボスティーを飲む女になったのはちなみの影響だ。


「駅から歩いてくるとき、空、桃色じゃなかった?」

「えー、なにそれ。UFOとかの話?」

「違う。夕方だったでしょ」

「んー? わたしが遅れたこと怒られるかんじのやつ?」

「違う」


 ちなみはほんとうに人の神経を波立たせるのがうまい。良い意味でも悪い意味でも。


「待ってる時、ベランダから見えたの。桃色と、薄っぺらい紫と、紺色、みたいな感じだった」


 んんう、とちなみは小動物のように首を傾げた。


「ソレってさー、恋じゃない?」

「は?」

「空がピンクく見えるなんて、恋でしょー」


 ピンクくってなんだ、ピンクくって。


 ピンクっぽく、の略だと気付くより先にわたしの手はちなみの頬に触れた。幼稚園の頃、近所の男の子が飼っていたハムスターより柔らかな頬。


「び、ビンタされるかとおもったあー!」

「そんなことしないよ」

「え、じゃあこれほんとに恋のやつ? 求愛っぽいらぶのやつー?」

「違うけど……なんでだろ」

「えー、なんでだろーね? あ、わたしはね、わたしに手間暇かけて甘やかしてくれる人が好きー」

「だろうね」

「えびフライ作ってくれて、ふたくち分のごはんのために熟成炊きしてくれる人って、らぶくない?」


 確信犯だと明らかな上目遣いをしながらちなみは笑う。その言い方だとちなみがわたしを好きなのか、わたしがちなみを好きなのか判断がつきづらい。


「わたしが来る前のお空がピンクく見えるなんて、可愛いねー?」


 わたしはちなみの頬から手を離して、眉間に思い切り力を込める。わずかに残った脳みそを焼き尽くされないための必死の抵抗。


「空は、本当に、桃色だった。季節とか、そういう関係だと思う。そのことに、わたしからちなみへの気持ちとか、そういうのは、関係がない。ただの事実と世間話」


 ふうん、とちなみは興が削がれたように唇を尖らせた。その表情も可愛い。誰もがちなみのことを可愛いと思う。だからわたしがちなみのことを好意的に思っていることもおかしくない。顔面が良い女というのは空間に存在するだけで顔面が良いからだ。


「わたしが来たときは、もう暗かったかなあ。見たかったな、ピンクいやつ」


 ちなみは拗ねたように人差し指で髪の毛を巻きつけてはするりと抜け落とす。

 見れるよ、とわたしはようやく声を通常のトーンに戻しながら答えた。

 ちなみが望めば、大抵のことは叶う。それはごく当然のことだった。若くて可愛くて特別に美しい女の子に、手に入れられないものなんかないのだ。


「来週また来たいなー。かぼちゃをちょっと甘いあんかけにしたやつ食べたい。鳥のそぼろがぱらぱらってなってるやつ」

「いいよ、三十分早く来なよ」

「あっ、怒られるやつ? それやだ」

「違う。そのくらいの時間に来たら、多分空見れるでしょ」

「えー、すっごいロマンティックなやつー」


 ちなみが笑うので、わたしも片頬を持ち上げた。


 来週、ちなみはきっと時間通りには来ないだろう。それでもわたしはかぼちゃをちょっと甘いあんかけにしたやつを作るし、多分いつかはアイスクリーム用のスプーンも買ってしまう。


 桃色の空と、白いおっぱいと、チェリーレッドの下着。さようなら孤独な生活、こんにちは焼け野が原。


ーーミルクティーのシャーベットあるよ。


わたしが告げると、ちなみは嬉しげに頷いた。

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