水で魚が溺れるように
愛されていない。
そう気がついた時、一瞬で世界は地獄へと変わる。
他人の気持ちを知りたいとは思わない。でも時に気が付きたくないとしても他人の心情を多かれ少なかれ知ってしまう、そんな時は誰にだってある。
そんな俺を「あの人」は拾った。
物語の幕というのはいつ何時も誰かが気がつくころには静かに上がっているものだ。
12年前、俺の誕生日。俺の母親は俺を捨てて自殺した。夫が浮気をして逃げられたらしい。
母親は愛されてない。そう気がついてきっと絶望したんだ。その時に俺も気が付いた。母親は俺を愛しては無かったと。
愛されてない、そう気が付いた時に人は一番絶望する。
たった6つだった俺を「あの人」は児童養護施設から引き取った。そんな「あの人」は俺の父親の不倫相手の女の夫だった。
俺はこの日からずっと、息を吸っても吸っても溺れたように苦しかった。
きっと「あの人」は俺の事を憎んでいる。でも俺も「あの人」が嫌いだった。
理解できなかった。
『もしかしたら俺が忙しかったから寂しい思いをさせちまってたのかもなぁ』
とかヘラヘラしながら寂しそうに言ってる「あの人
」が大っ嫌いだった。憎いはずの俺を育てている意味も分からなかった。全くもって理解できなかった。貧乏なくせに、意味がわからない。ドジでバカでかっこ悪い。そのくせいっつもヘラヘラと笑っていた。仕事仲間と呑んで帰ってくるから酒臭い。そのくせ夕飯は一緒に食べるから帰ってくるまで待ってろと俺に言ってくる。しかも結構な確率でそのまま仕事仲間を家に連れてくる。
なんで一緒に食べるんだ?と聞いたことがあった。
そうしたら「あの人」は『みんなで食った方が飯は旨いんだよ』とバカな事を言っていた。
きっとこの人は人の愛情に包まれて育ってきたんだって気が付ついた。やっぱり俺は「あの人」が大嫌いだった。
俺は「あの人」が嫌いだ。
俺を愛してるはずがない「あの人」を好きになっても俺は損をするだけだ。
それなのに「あの人」は誰にだって笑顔を向けた。誰にだって優しさを。あの裏のない優しさが俺には理解できなかった。
嫌いな「あの人」に笑いかけられると息が苦しくてまるで酸素のない宇宙で息をしているようだった。
俺の中にある「あの人」に向ける意味の分からない感情が苦しかった。それなのに嫌いな「あの人」が家にいるとほっとする。
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『おい、お前さ。短大ぐらいしか金なくて出してやれんけどさ…ってお前寒そぉだな?』
そう言ってずかずかと「あの人」は躊躇いもなく俺に触れてきた。俺ができない事を「あの人」は簡単にやってしまう。だから嫌だ。別に寒くねぇよ。そう返すと「あの人」はいつもと同じようにでヘラヘラと笑った。
『そうかぁ。にしてもなんかお前おっきくなったぁ。昔は俺の腰ぐらいだったのによぉ』
そのまま「あの人」は俺の頭をぐちゃぐちゃと撫でながら抱きしめた。
『ほんとだ、あったけぇなぁ』
酒臭くて、僕なんかよりずっと暖かくて、そして大きな背中になんとなく手を添え返してみた。感謝はしているんだ。憎いはずの俺を大学まで出してくれるってんだ。頭が上がらない。
ただ、愛してない人にまで向けるその優しさが嫌だった。気が付いたら「あの人」の首元に埋めた顔が熱くなって、理由も分からず俺は泣いていた。
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節約してて、寒かったのか。工事現場の重労働に体が耐えられなかったのか。それとも他に何かがあったのか。『あの人』は突然その日の夜に倒れた。
リビングにコーヒーを淹れに行こうとした時に「あの人」が倒れていた。咄嗟に側にあったスマホを取った。動揺し過ぎてフェイスIDでちっとも開きやしない。自分の誕生日を入力して開いた分少し時間が掛かって焦った。動揺していたんだ俺は。だから親父なんて「あの人」の前でつい口走った。きっと聞こえてないけれど。
「親父が急に…倒れてて……」
そのままあの人は救急車で病院に運ばれたけが既に手遅れだった。
ポケットに入れてきたスマホを無意識に見た。
色が俺のと違った。。。
電源ボタンを入れるとやっぱり「あの人」のスマホだった。
俺はその日人生で一番泣き叫んだ。母親が死んだあの日よりもずっとずっと、高校生にもなって幼児みたいに泣きじゃくった。
「あの人」の体を揺さぶって、抱きついて、声が出なくなるまで泣き叫んだ。
俺が一番絶望した日は、その日だった。
世界は簡単に地獄へと変わる。
気がついた時には、自分を、自分を想ってくれている人を、蔑ろにしてまで守ってきたはずのものなんて最初から何もなかった。
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愛されている。
人はもしかしたら、そう気が付いた時が一番苦しいのかもしれない。
あれから俺は「あの人」の…いや、親父の残してくれたお金で大学を卒業して、親父なんかよりもよっぽどいい企業に就職した。
愛している。
そう、自分の気持ちに気が付いた時がきっと一番辛い。
後から聞いた話だ。
親父は周りから俺を引き取るのをめちゃくちゃ反対されたらしい。そりゃそうだよな。それで親父は周りにこう言ったんだ。『泣いてるガキがいんのによ、見捨てらんねぇだろ?』どうせいつものあの顔でヘラヘラと笑いながら言ったんだろう。親父はやっぱり人一倍バカだ。
なぁ親父。俺たち似ちまったな…俺は自分の気持ちを親父に伝えられなかった。自分でも否定してたんだ、他人に伝わる訳がない。
もしかしたら母親もそうなのかもしれない。俺は母親にとって愛する自分の子供でも浮気をした憎い夫の子供でもある。俺は捨てられた訳じゃなかったのかもしれない…もしかしたら……。母親は何に絶望したんだろうか…人の気持ちなんて今更分かりはしないけど。
生前に親父が言っていた。
自分の存在意義なんて独りで探してても無駄だって。自分の中になんてない。他人の中にこそ自分の意味を見出せるんだって。
今ならその意味がわかる気がした。幸せになって欲しい人ができたから。
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世界なんて簡単に、一瞬で変わる。
独りじゃない。愛されていた。愛していた。そんな「普通」のことに気が付いた時、俺の世界は地獄へと変わった。
もがいて苦しんで、その先に何があるのかどんな意味があるのかはわからない。そんなに意味なんてない気がする。
進む先に、その向こうに、何もなくても別にいい。
貰ってばかりだった。
終わりのある世界に。得た瞬間には無くなる事を約束されるような残酷な世界に。いっだって、誰だって不安だ。一時一時を大切にしろと人は言う。そんなことは言われなくてもわかってる。
大切なのは時が止まる前に、何を伝えるかだ。
人は未来に向かって歩いている。未来なら自分の手で変えられる。でもどんなに希望に溢れている未来があったとしても過去に失ったものはもう戻ってはこない。それでも失ったもの一つ一つが今に繋がっている。きっと。その一つ一つのかすかな光が集まって消えない光となる。人は未来を行くときにその光を道標にしてるんだ。「今」を昔の自分なら信じられないかもしれない、受け入れられないかもしれない。
無くしたもの、と。得たもの、と。
受け取った想いを返すことができないのなら、せめてそれを誰かに繋いでいくことで生かすことが出来たらいい。過去を未来に繋げていくこと、それをもし希望と呼ぶのなら、きっとそこに生きる価値があるんだと、生きていたいと思えるのだと思いたい。「もしもの過去」に未練がないわけじゃない。もし、目が覚めたら全て夢で、別の自分で別の人生が待っていると分かったらどれほどに楽か。それでも、「今」を全部背負って胸に抱いて受け入れて前に進む。それぐらいしか生きている俺たちにやれることなんてないのかもしれない。
20年前、親父と俺が出会ってから、学生時代までのこと。そんな話を思い出しながらここに来た。もう、逃げないと誓って。
背伸びをして頼んだワイングラスを当てて乾杯をした。俺が今までに聞いたこともないような甲高い、いい音がした。綺麗だ。
それからポケットから小箱を取り出してそっと彼女に差し出した。
「結稀ちゃん。俺と結婚してください。」
悲しくもないのに俺は少し泣いていた。
あなたの瞳に俺はどう映っているんだろうか。
親父は昔こう言った。
『それでも俺は嫁さんに出会えて良かったと思ってんだ。タイプの子だったんだよ。』
自分の気持ちも他人の気持ちなら尚更に、全部はわからない。
他人がその瞳で何を見て、何を想ったかなんて誰も知らない。
愛情でも憎しみでも。どんな気持ちでも心情を知った時、人は少なからず地獄を見る。
その異常な息苦しさはまるで、水で魚が溺れるような。そんな気分だ。
俺がずっと背を向けてきた言葉。
「愛してる」
まだ、少し冷たさの煌る彼女の薬指にそっとキスをしてみた。
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Coming together is a beginning; keeping together is progress; working together is success.
(出会いは始まりであり、寄り添うことは前進であり、共に歩むことは実りである)
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FIN.
水で魚が溺れるように 古川暁 @Akatuku
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