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29. 冬の祝祭

 凍りついた窓に息を吹きかけると、淡い白が広がって緩やかにそこだけ溶けていく。春はまだ遥か先、相変わらず冷え冷えとした寝室は、それでもかたわらに残った温もりで前の冬よりも寝起きはいい。朝からそんな些細な変化をからかわれると、以前なら頬を膨らませていたイルヴァだったが、寄り添う温度の心地よさになれてしまっていたから反論する気にもなれなかったけれど。

 のんびりと掛布を被ったまま窓の外を眺めて、ふと玄関脇に見慣れない馬が繋がれているのに気づいた。黒い見事な駿馬には相応の立派な鞍が乗せられている。とびきり嫌な予感がして、イルヴァは手早く着替えると寝室を飛び出した。


「……なんでいるの⁉︎」

「だって、いくら待っていても、あなたが来てくれないから」

 新年のお祝いは家族でするものでしょう? とにこやかに微笑んだその表情はごく美しく、最後に会った時の病みおとろえた様子は微塵も見えなかった。隣で苦虫を噛み潰したような顔は、相変わらずだったが。

「とりあえず座ったらどうだ」

 低く笑いを含んだ声と共に、額に口づけが降ってくる。いつの間にかグラスカップを二つ持ったノアが、いつも通りの癖のある笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。受け取ったカップには乾燥させた柑橘オレンジと林檎を浮かべたホットワイン。丁子クローブ肉桂シナモンがふわりと香るそれはイルヴァの冬の好物の一つだった。

 二人が座るソファから離れて床のクッション腰を下ろし、カップに口をつけるといつもより甘い。きっとそれはこの事態に彼女が機嫌を損ねることを分かった上でのノアなりの気遣いで。

「ノアは甘いよ」

「しょうがねえだろ、こればっかりは」

 くつくつと笑いながら今度は唇に口づけが落とされる。触れるだけの、軽いそれはけれどもまあそれなりに突然の来訪者への意思表示でもあったのだろう。目を向ければ、アウローラはただ嬉しそうににこにこと、もう一人はさらに眉間の皺を深めていた。


 やれやれとため息をつきながら、イルヴァはそのフレデリクに向き直る。

「そっちはそっちで色々忙しいんじゃないの? 侯爵なんだし」

「爵位は弟に譲った。元々、父の遺言では私は弟が成人するまでの繋ぎということだったからな」

「弟……って、いくつなの?」

 フレデリクはイルヴァの父親としては若く見える方だが、それでも彼女の父であることを考えれば三十半ばは超えているはずだ。弟が成人とはどういうことだろうと首を傾げていると、フレデリクはそんなこともわからないのかと嫌味なため息をついた。

「私の母は家格が低く正妻とは認められなかった。母亡き後、後添いとして娶った公爵家の正妻とはなかなか子ができず、生まれてからも病弱だった。後継をどうすべきかと悩んでいる間に父が病に倒れたのだ」

 後嗣が決まらなければ爵位と共に領地は王国に返却される。現在の王は愚鈍ではないが、それでも領主の交代は領民には大きな負担となる。それを避けるためにも、先代の侯爵はフレデリクに爵位を正式に譲り、いずれは弟が継ぐようにと遺言を残したという。

「あなたはそれでよかったの?」

「元々日陰の身だ。弟は幼い頃から爵位を継ぐべく育てられていたし、その性質も朗らかで私よりも遥かに領主に向いている。病弱なのだけが気がかりであったが、よく効く薬のおかげで今はもうそちらの心配もないしな」

 ちらりと隣に座るアウローラへと向けられた視線が緩む。魔女の薬が功を奏したということなのだろう。


「そうなんだ。あなたに似てないなら、一度会ってみたいな」

「なんだそれは。私に似ていたら会いたくないとでもいうのか?」

「そりゃそうでしょ。そんな不機嫌な顔、頼まれたって見たくないし」


 率直な答えにフレデリクの表情がさらに険しくなる。他人が見れば、それだけで逃げ出しそうな渋面に、アウローラがころころと鈴のような笑い声を上げた。


「そんなにいじめないであげて、イルヴァ。この人はこれでもとても心配性だし、不器用なの。乱暴だったのは焦っていたから。本人もとても反省しているわ、ねえ?」

「うるさい。だから私は同行はせぬとあれほど言ったのだ」

「あら、あなただって可愛い娘の顔を見たかったのでしょう? 贈り物をたくさん用意して」

「え?」

「表情よりこちらの方がよほどこの人の気持ちを素直に表しているから」


 そう言って、アウローラは何やら色とりどりの布や瓶でいっぱいになった籐籠とうかごをイルヴァに差し出した。


 花びらがゆらゆらと浮かんでいる薄青く透き通った小瓶には爽やかな香りのする香水。緻密な細工が施され、銀の象嵌の小さな木箱には蔦のような模様が一面に広がる細い腕輪。生成りの系で幾重にも編み込まれた雪の結晶のようなレースのリボン。そして手のひらに乗るくらいのいくつかの瓶には、焼き菓子やいろとりどりの砂糖菓子まで。


「……何これ?」

「あなたに贈れなかった分の、毎年の冬の祭りの贈り物よ」

 十九年分だからまだ足りないわね、と笑ったアウローラの横で、フレデリクが何かをこらえるように口を引き結んだのが見えて、イルヴァは目を見開いた。


 彼女にとっては疎遠になりがちだった養父母はそれでも、彼女を彼らなりに懸命に育ててくれていた。何もかも失ってからは、ノアが気づいた寂しさを全て埋めてくれていた。だから、そんなものが必要だとは思いもしなかったのに。


 胸の奥にじんわりと広がった温かさと共に、頬に伝う雫を感じてどうしていいか分からず籠を抱えたままの彼女を、いつも通り力強い腕が引き寄せて、籠ごと抱き締める。

「別に、平気だし」

 低くそう呟いた彼女の声が震えていたことに気づいたのだろう。ノアがくつくつと笑いながら、イルヴァの手から籠を取り上げて床に置くと、その手をとって左の薬指にするりと金の輪を嵌めた。

「……え?」

「ちょうどいいだろ、許可を取るつもりはないが、知らせてはおこうと思っていたしな」

 イルヴァの髪と同じような柔らかな細い金のそれには、紫水晶が嵌め込まれている。その意味するところは、さすがのイルヴァでさえ気づくほどに明らかだった。

「まあまあ、それじゃあ式は盛大にしなくっちゃね。せっかくだから城でするのはどうかしら? なんならお世話になった王弟殿下もお呼びして」

「絶対に嫌だ!」

 はしゃぐアウローラの隣で何やら考え込む様子のフレデリク、そしてニヤニヤと笑うノアの表情を見れば、厄介ごとの予感しかしなかった。


 それでも暖かな部屋で、自分の指に輝く指輪を見れば、その幸福を自覚せずにはいられないイルヴァだった。

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眩惑の瞳 〜美味しいごはんと彼女の好意の因果関係〜 橘 紀里 @kiri_tachibana

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