28. Secret eyes

 冬の湖のようなうすあおい瞳がアクセルをじっと見つめる。どこかぼんやりしているのは眠そうな時などにはよく見かけるが、それでもそこに危うい光が浮かんでいるのを見てとって、体の奥でじわりと熱が上がった。


 どうするべきか考える間も無く目の前で白い腕が持ち上がって、彼の首に回された。その身を包んでいた白い布が肩から滑り落ちて、あらわになった胸元は服の下に隠されていた時には気づかなかった——というよりはあえて意識しないようにしていた——が、思ったより質量がある。やわらかなそれが彼の胸に押しつけられ、間近に額が触れるほどに顔が近づく。

 髪の先からしたたしずくと、じっとこちらを見つめる熱を浮かべた眼差しがあまりに艶やかに見えて、ぐらつく理性を必死に叩き起こしてその腕を掴む。細いその手首は、ひどく冷たかった。

「風邪引くぞ」

 それだけ言って、滑り落ちた布でもう一度包み込むと、不思議そうにこちらを見つめる。それから、その白い手が彼の頬を包み込んだ。ひんやりとしているのに、触れられた指先から熱が上がる。

「どうして?」

「……何がだよ?」

「私が欲しいんでしょう?」

「なっ……!」

「だって、聞こえるよ? アクセルの声」


 湖面のようなイルヴァの瞳が、静かなまま彼の瞳を映している。今は深い紫の、相手を取り込み操るそれ。それでも、今はその瞳を通して自身が見透かされているのだと気づいた。

 隠していた——絶対に気づかれたくないと思っていた想いそれを覗き込まれている。とはいえイルヴァの表情は茫洋ぼうようとしていて、半ば傀儡くぐつのような状態だと知れた。だから、彼は最後の理性を振り絞ってニッと笑いかける。


「いーんだよ。お前に見せるつもりも、気づかせるつもりもないの、俺は」


 はじめはただ、からかうつもりだった。常には他人に興味を持たないあのノアが、一目で恋に落ちたその相手がどんなものだろうかと。不器用な二人は側から見ているともどかしいが、それでも砂を吐くほど甘い雰囲気を醸し出していて、だからそこに入り込もうと思ったことなどなかった——はずなのに。


 頬に触れている手を握りしめて、まっすぐに視線を合わせる。今だけは、その思考さえも搦めとるように。すぐにイルヴァの瞳がさらにぼんやりと霞み、その顔が近づいてくる。体は冷え切っているのに、唇から漏れる吐息だけが熱い。滑らかな頬も、やわらかなその体も。抱きしめて思うままに貪ってしまったら、どんな反応が返るだろうか。


「できるわけ、ねえだろ」


 ノアの隣で、常にはどこか不機嫌そうに、それでも美味いものを目の前にすると心底嬉しそうに笑うその表情こそが、彼を惹きつけるものだったから。


 酔ったようにこちらを見つめる瞳をじっと見つめ返して、そして距離をなくす。重なった唇はひどく柔らかく甘い。縋るように腕を回して密着してきた体をきつく抱きしめ返して、さらに深く口づける。

 唇が離れると、やはり熱を浮かべた瞳がこちらを見つめていた。きっと、本来の彼女なら怒りで殴りつけてくるだろうに。こんなものは幻に過ぎないのだと、改めて確認して熱を浮かべる凍った湖のような両目を片手で覆い隠す。


「はい、おしまい。ごちそうさま」


 そう言った瞬間、かくんと糸が切れた人形のように、イルヴァは彼の腕の中に倒れ込んだ。


 しばらくそのままその体を抱きしめて、一つため息をつく。

「よくここがわかったな?」

 振り返りもせずにそう声をかけると、がさりと茂みが動く音がした。そうして、不機嫌そうな足音が近づいてくる。

「何よ、気づいてたの?」

「そんな殺気を放ってたら、気づかないわけないだろ」

 笑って振り返ると、相手が息を呑むのがわかった。それで、まだ自分の瞳の色が変わったままなのだと気づく。

「アクセル、その瞳の色……」

「あー、見られちまったか。内緒な?」

 いつも通り、何でもないことのように笑いかけたが、リネアは険しい表情を崩さなかった。

「その子が妙な感じだったのは、そのせい?」

「まあな」

「ノアと、一緒?」

 その言葉に息を呑む。ノアもある程度は自分の力を制御できるようになっているはずだ。その力を、リネアに向けたとは考えにくかったのだが。

「一度だけ、見たことがあるの」

「そうか……」

「アクセルも……なの?」

 誤魔化すことも考えたが、この現場を見られている以上、説明しないわけにもいかなそうだった。やれやれと肩を竦めてから、腕の中で意識を失っているイルヴァを指し示す。

「話すから、これ、頼んでもいいか?」

「何であたしが——」

「俺がやったら、襲っちまいそうだし」

「……嘘ばっかり」

 小さく呟いたその言葉の真意は明らかだったけれど、そう言いながらも近づいてきてイルヴァを引き取ったリネアの素直さに感謝して、それ以上は触れないことにした。



 思いの外、リネアは優しくイルヴァの髪と体を拭き、手早く服を着せた。それでもまだ目覚めないのは、彼の力のせいだろうか。リネアはまるで母親のように膝の上でイルヴァを抱いたままこちらを見つめる。片眉を上げて笑って見せたが、表情は崩れない。どうやら見逃してくれるつもりはないようだった。


 籠からグラスを二つ取り出すと、一つをリネアに渡す。三日月型のパンに、乾酪と燻製肉。それからいつもの丸パンにオリーブ油。リネアは顔を顰めながらも素直に受け取って、三日月型パンクロワッサンを口に入れると驚いたように目を見開いた。

「美味しい」

 そういう素直さはイルヴァとも似通っている。実のところ、根はよく似ているのかもしれないと思った。

「で?」

「……俺がこの力を自覚したのは、割と最近なんだよ」


 ノアの瞳が不可思議な力を持っているらしいというのは、幼い頃から知っていた。どういうわけか、自分にはそれが影響を及ぼさないことを不思議に思うことはあったが、それでも自分に何か特別な力があると考えたことなど一度もなかった。

「もう一年くらい前になるか。新しいかまどが欲しくて隣国の首都を訪れた時、小人妖精ドワーフに会ったんだよ。盟約が破棄されて、世界の行き来が可能になったってのもその時に聞いた。で、色々話してるうちに意気投合して、そいつに頼んで竈を作ってもらうことになった」

 何しろこのあたりでは人ではないものを見かけることはないから、無用な厄介事を避けるためにも、こっそりとその小人妖精を店に招き、竈を組み上げてもらったのだ。だが、どういうわけか火が点かない。その時その小人妖精が彼の顔を覗き込みながら言ったのだ。


「兄ちゃん、おかしな眼を持ってんな?」

「おかしい?」

「人じゃねえなあ。混じりもんか、先祖返りか、なんか心当たりあるか?」

「俺はないけど、俺の幼馴染がそういえば変な眼をしてるぞ。見つめられると言うことを聞いてくれる、みたいな」

「ああ、眩惑げんわくの瞳だな。先祖に妖精と交わったのがいたのか、まあそんなとこだろう。お前さんも眷属けんぞくっぽいぞ」

 そう言って、何か小さな透明な石を渡してきた。それに触れると、ふわりと石が輝いて、目の奥が焼けるように熱くなる。

「あーやっぱりな。そいつは月晶石げっしょうせきといって、魔力を持つ者に反応するんだ。でもまあ普段は顕現しみえないってことは、あんたの方がその幼馴染とやらより強いかもな」

「そうなのか?」

「外見が変化するってのは基本的にそれだけ強い力を持っている証拠だからな」

 ニヤリと笑うと、その小人は竈の中を指し示した。

「俺の見立てが確かなら、あんたは火混じりだ。ちょいとやってみな」

「やってみるって、何をだよ?」

 ニヤリと笑った小人に促されるままに、竈の中の青い石に触れると、そこから白い炎が燃え上がった。


 彼の話をおとなしく聞いていたリネアはそれでも信じられないというように眉根を寄せた。

「火をおこせるってこと?」

「ただの火じゃねえ、精霊の火だとあの小人は言ってたな。それから……あとは魅了だ。見たんだろ?」

 何を、とは言わなかったが、彼の言葉に、リネアは少し硬い表情で頷いた。イルヴァが表面上はそうは見えなくても、どれほどノアに惚れ込んでいるかは彼女なら気づいているだろう。アクセルに向ける感情がその手のものを含んでいないことも明らかだ。なのに、イルヴァが積極的に彼に迫るなど、本来あり得るはずもない。

「……だからなの?」

「何がだ?」

「特定の恋人を作らないのとか」


 少し気遣うような視線に息が止まった。ノアほど無分別に発動するわけではないが、むしろ自分の意志で使用できる分、たちが悪い。幼馴染の男がイルヴァに出会ってあれほど喜んだのも実のところ理解できてしまった。異質な力を気にすることなく、単純に愛することができる相手を得られると言うのがどれほど幸せなことか。


「あんたって本当に不器用ね」


 ぽつりと呟いた声音がひどく優しくて、思わずまじまじとその顔を見つめる。


「別に気にすることないじゃない。あんたはモテるんだし、そんな力を使うまでもないでしょ?」

「まあ、それはそうなんだけどな」

 自分で言うのも何だが、確かに相手に不自由はしていなかった。けれど、例えば心底惚れ込んだ相手が自分から離れようとしたり、或いは手に入らない相手に惚れ込んでしまったりしたら——。


 実のところ、その力を使わずにいられるかどうか、ずっと不安だったのだ。


「それに、証明できたじゃない」

「……お前がいたからからだ、とは思わないのか」

「機会なら、いくらでもあったでしょ」

 馬鹿にしたように鼻を鳴らすその様子に、ぐうの音も出なかった。ちょくちょく一人で彼の作業場を訪れるイルヴァを拒めなかったが、それでも手を出す気にもなれなかったのも事実だったので。


「笑うか?」

「……笑うわけ、ないじゃない」

 返ってきた声は少し呆れる風で、けれどもその表情はいつもよりひどくやわらかった。

「……慰めてあげようか?」

 思いもかけない言葉に思わずあんぐりと口を開けると、リネアは真っ赤になっていた。

「べ、別に変な意味じゃないけど。あたしも今ひとりだし、あんたは放っておいたらまたこの子にふらつきそうだし!」

「まあ、自分で言うものなんだが、俺は優良物件おすすめだと思うけど」


 どういう風の吹き回しか、は聞かないでおくことにする。リネア自身の抱える想いが、本人も思う以上に純粋でまっすぐなことを彼も気づいてしまっていたので。


「まあ、流石に今日は遠慮しとくわ」


 ——どうやっても、比べちまうし。


 そう言って胸元に視線を向けてニヤニヤ笑って見せると、手元にあったパンを投げつけられた。


「最ッ低!」


 真っ赤になって叫ぶ顔がひどく可愛く見えて、安易に揺れ動く自分の感情に呆れながらも、アクセルも声を上げて笑ったのだった。

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