27. クロワッサンサンド

 手際良く後片付けをするアクセルの姿に、さすがにただぼんやりと見ているだけでは落ち着かない。イルヴァは洗い物でも手伝うかと声をかけたが、ここは自分の仕事場だから触るなと断られてしまった。やむなく先ほど渡された白葡萄酒を飲みながら、ぺたりと作業台に頬を預けていると、酒精アルコールのせいか、暑さのせいか、とろとろとした眠気が襲ってくる。


 まぶたが落ちかけたところで、ぽんぽんと頭を軽く叩かれた。

「出かけるって言ってんのに寝るなよ。それとも、気分でも悪いのか?」

「ううん、ちょっと眠かっただけ」

「相変わらず猫みたいにどこでも寝る奴だな……」

「猫はちゃんと安全なところで寝るでしょ?」

 そう言ってやると、アクセルはまた大きく目を見開いて、それから片手で顔を覆って天を仰いだ。何やら完全に呆れられていることだけはわかったが、その理由がわからず面白くない気がして頬を膨らませると、ますます呆れたようにため息をつかれた。

「何かお前、むしろ退行してないか」

「何それ?」

「前にも増して、子供みたいだぞ」

 もうそんなんじゃねえだろうに、と含みを持って耳元で囁かれた言葉に、どきりと心臓が跳ねた。今は留守にしているが、ノアとは一緒に暮らしているし、夜は共に一つの寝台で過ごすことも少なくない。

「でもまあ、毎日ヤってるって感じでもないよな? 週に一度くらい? 少なくねえ?」

「な、何の話してるんだよっ!」

の話。あ、別に朝でも昼でもあいつならやりそうだけど」

 わざわざ夜、を強調してニヤニヤ笑うその顔をとりあえず拳で殴りつけようとしたが、あっさりと受け止められた。イルヴァがその手の話を全く好まないと知っているくせに、からかうためだけに振ってくるのだからたちが悪い。

 鳶色とびいろの瞳は相変わらず面白がるような光を浮かべている。だが、じっと睨むように見返していると、ふとその瞳が揺らいだ。ぐしゃぐしゃと自分の前髪をかき回し、それからひとつ息を吐いて、大きなかごを持つと、外へ続く扉へと歩き出す。

「アクセル?」

「行くぞ、あんまり遅くなると日が傾いちまう」

「だいぶ日は長いと思うけど?」

「いいから、さっさと行くぞ」

 そう言ってもう振り返りもせずに歩き出してしまう。イルヴァも首をかしげながらもその後に続いたのだった。


 外は強い日差しが照りつけて、じりじりと肌を焼くように暑い——というより、もはや熱い気がした。顔をしかめて空を見上げたイルヴァに気づいたのか、アクセルは一旦店に戻ると、灰色の薄い外套を差し出してきた。

「お前、色が薄いからな。外に出る時はかぶっとけ」

「……怪しく見えない?」

「南の砂漠の民はみんなこうしてるらしいぞ。とにかく、森に入るまでだ。四の五の言わずにかぶっておけ」

「わかった」

 素直に渡されたそれを羽織ってフードをかぶると、直射日光が遮られたおかげで刺すような熱も和らいだ。その外套からはもう馴染んだこんがりと焼けるパンの匂いがして、思わず微笑んだイルヴァに、アクセルが怪訝そうな眼差しを向けてくる。

「何だよ?」

「いい匂いがする」

 外套の端を鼻に近づけながらそう言うと、アクセルは大きく目を見開いて、それからなぜか鳶色の目を眇めてじっとイルヴァを見つめる。その手がイルヴァの頬に伸ばされて、けれど触れる直前で拳を握った。

 そのまま何も言わず、黙って踵を返して歩き出した背中が何やら不機嫌そうに見えて、早足に並んでその顔を覗き込むと、猫の子でも払うように手を振られた。

「ちょっと近寄んな」

「……何で?」

「何でも」

「意味わかんない」

「俺はお前の方がわけわかんねえよ」

 視線は前を向いたままで、こちらを見ることはなかったけれど、それでもその声は怒っているわけではなく、むしろひどく穏やかだったから、イルヴァもそれ以上は口を開かず大人しく隣を歩く。


 やがて森の中に入ると、直接日が当たらない分、風が少し涼しげだが、それでもやはり気温が高いせいでじっとりと全身に汗が滲む。ほとんど道らしき道のない獣道を通って辿り着いたのは、結構な森の奥深くだった。

 ぽっかりと開けたその場所は、天然の広場のようだった。周囲には白い百合があちこちに咲き誇っている。顔を近づけると、ふわりと甘く優しい匂いがする。もう一歩踏み出そうとすると、襟首を掴まれた。

「あんまり藪に入るなよ、鋭い葉の草とかもあるからな」

「……過保護」

 ぼそりと呟くと、見上げた顔は何だか複雑な表情を浮かべていたが、すぐに手を離す。

「泉はその茂みの向こうだ」

 言いながら籠から食べ物を取り出している。アクセルは三日月型のパンにナイフで切れ目を入れると、そこに玉萵苣レタスと薄く切った乾酪チーズ、さらには燻製肉ベーコンを挟んだ。どう見ても美味しそうなそれを見つめていると、苦笑してイルヴァの方に差し出してくる。顔だけ近づけてぱくりとかじり取ると、さっぱりとした葉物が牛酪バターの風味の生地と、その他の具材の濃さを中和して、ちょうどよいバランスだった。

「美味しいね」

「お前は本当に美味いものを食ってる時はいい顔するな」


 肩を竦めて笑って、それから自分もそのパンにかぶりつく。ついでに籠から葡萄酒の瓶を取り出すと、そのまま口をつけた。


「俺はここで昼寝でもしてるから、行ってこいよ」

「アクセルは水浴びはいいの?」

「俺が一緒に入ってもいいのか?」

「いいわけないだろ!」

「……なら訊くなよ」


 それももっともだと思って、茂みの向こうに歩みを進めると、すぐに泉が見えた。緩やかな楕円を描くその泉は向こう岸まで、家二軒分ほどだろうか。渾々こんこんと湧き出る水は澄み、木漏れ日を映してきらきらと輝いてとても美しい。

 一度振り返ったが茂みの向こうは見えなかった。わざわざ覗きにくるような人でもないし、とそこまで考えて、イルヴァは自分が意外とアクセルを信用しているのだなとふと思った。

「まあ、世話になってるしね」

 呟いてから、服を脱ぎ捨てて泉に足を入れる。ごく冷たいその感触に体がふるりと震えたが、周囲の気温の高さのおかげでむしろ心地よかった。そのまま泉に全身を浸ける。

「気持ちいい……」

 透き通った水の感覚を楽しみながら、顔を洗う。それから泉の中央近くまで泳いでいく。岸を離れると思ったより急に深くなっていた。すぐに足がつかないほどの深さになったことに気づいて、一度頭から潜ってみる。木々の切れ目から差し込む光で、透明な泉の底まで見通すことができた。


 水面まで上がると、体にこもっていた熱が全て払われてだいぶ気分もすっきりしていた。そろそろ上がるかと岸に向かいかけた時、不意に脚に何かが絡みついた。

 ざぶり、と頭まで水面の下に引き込まれ、とっさに息を止める。透明度の高い水の中、その存在に気づかなかったことが信じられないほど巨大な蛇が目の前にいた。感情のない、透き通るような青い瞳がこちらをじっと見つめている。ちろりと舌が口から洩れると同時に、その口が大きく開き、イルヴァの喉元を狙って食らいついてくる。

 何とか身をかわして水面へと上がり、岸へと向かうが、絡め取られた足から水の中へと引き込まれそうになる。もがいて水面を叩き、引き込まれる直前に何とか叫ぶ。

「アクセル!」

 すぐに強い力に引きずられ、水底へと落ちていく。全身を包み込む水の感覚と、一切の抵抗が叶わない無力さと恐怖で身が竦む。それでも何とか脚に絡みついている胴体に爪を立てたとき、ふわりと胸元に下げていた雫の形の石が光を放った。

 ふっと体が浮く感覚がして、頭が水面から出た。その瞬間に強く腕を掴まれる。

「イルヴァ! 無事か⁈」

「アクセ……!」

 だが、名を呼び終わらないうちにまた足を引かれる。イルヴァの腕を掴んでいるアクセルごと、水底に引き込まれそうになって、彼も異常に気づいた。アクセルの手がイルヴァの腰を引き寄せると、脚に絡みついていた感触が離れ、水面が持ち上がり巨大な蛇の頭がこちらを睨みつける。

「何だこれ⁉︎」

「わかんないけど、なんか急に絡みついてきて……」

「しゃべってる暇があった逃げろ!」

 アクセルはそう叫んだが、逃れる間も無く大蛇がその口を開いて襲いかかってきた。鋭い牙がイルヴァに届く寸前、アクセルが腕でそれを受け止める。その顔が苦痛に歪んだ。

「……ッ!」

「アクセル⁉︎」

 その時、またふわりとイルヴァの胸元の雫石のペンダントが輝いた。同時に、アクセルがいつの間にかその手に握っていた短剣を蛇の頭に突き立てる。だが、硬い鱗に守られているのか、その刃はキィンと硬質な音と共に弾かれた。

「くっそ……」

 舌打ちして、それから不意にイルヴァの方を見つめる。何かを迷う様子は一瞬、すぐにアクセルは目を閉じた。

「アクセル……?」

 怪訝に思って問いかけたイルヴァは、だが息を呑んだ。

「ったく、はこんなところで見せるつもりはなかったんだが」


 不敵に笑ったアクセルの瞳が、鮮やかな紫に輝いていた。ノアと同じような——否、それよりももっと深く妖しい色で。


 もう一度アクセルが振りかざした短剣は、白い炎をまとい、淡く光っているように見えた。その刃は今度は容易に蛇の頭を貫く。その蛇は声ならぬ声を上げてのたうちまわっていたが、すぐに動かなくなった。そうして、その体は水底へと沈んでいった。死んだのなら通常は浮くはずだが、不思議と死体は浮かんでは来なかった。


「……大丈夫か?」


 言いながら、アクセルはイルヴァを抱いたまま岸へと上がる。籠から取り出した白い大きな布で彼女を包み込むと、頬に手を当てて間近に視線を合わせてきた。


「おい、イルヴァ、聞こえてるか?」


 見上げた先の瞳は、もう光ってはいなかったが、深い紫色をしていた。その眼差しをまっすぐに受け止めた瞬間、脳裏に直接響くような声が聞こえた。


 ——お前が欲しい。


「おい、イルヴァ?」


 こだまのようにアクセルの声が二重に聞こえる。どうして瞳の色が変わっているのか、先程の燃え上がったような刃は一体何だったのか。尋ねたいことはいくつもあるのに、紫のその瞳から目が離せない。

 まるで、彼女の意思などないかのように、腕が持ち上がり、アクセルの首に絡められる。額が触れるほどに互いの顔が近づいて、その紫の瞳が驚きに見開かれた。


 それを最後に、イルヴァの意識は曖昧に溶けた。

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