Chapter 3. Hot summer

26. クロワッサン

「暑い……」

 うだるような暑さに、ぺたりと作業台の上に頬をつく。斑模様の貴石で作られているらしいその作業台は、部屋の暑さにもかかわらず、なぜかひんやりとしていて心地よかった。

「……気持ちいい」

「あのなあ、これは涼を取るためのもんじゃないんだよ。それに、お前そのふわふわの髪の毛、作業台につけるんじゃねえ」

 その時ばかりは険しい眼差しが向けられて、慌てて髪をまとめて懐から取り出した紐で一つに括る。まくった袖で額の汗を拭いながらその様子を確認した声の主、アクセルはそれで納得したのか作業に戻る。


 作業台に置かれた丸い生地を、麺棒で手早く薄く伸ばす。その上に四角く切られた牛酪バターをのせ、半分に折ってからもう一度薄く伸ばし、さらに折り畳んでは伸ばす、を繰り返していく。

 何層にも重なったその生地をいくつかの三角に切り分けて、それからくるくると巻いて並べていく。少したわんだ形のそれは、ちょうど三日月のように見えた。

「綺麗だね」

 思わずそう呟くと、アクセルはちらりとこちらに目を向けて、ニッといつもの癖のある笑みを浮かべる。

「牛酪をたっぷり使ってて、半分は薄力粉だからさくっと仕上がるはずだ。お前は好きそうだな」

「確かに美味しそうだね。ところで、作業台これっていつもこんなに冷えてたっけ?」

「今日は特別だな」

 そう言って顎で示した先には、銀色の小さなかめがあった。たしかドワーフの手になるもので、中に水を張って瓶を入れておくと、夏場でもよく冷えるのだとそう自慢していた逸品だ。

「そこに置いておくと外側からも冷えていくんだ。その冷気がこの板に伝わって作業台全体が冷える。牛酪を多く使ってるからこうしておかないと生地がだれちまうんだ」

 それだけ言って、作業に戻ると残りの生地も同じように薄く伸ばしてから三日月の形に丸め、それから鉄板に並べる。流石の手際の良さに見惚れていると、かまどの中にその鉄板を入れ終えてから、ようやくこちらに視線が向けられた。


「何だ、俺に惚れたか?」

「……ノアみたいなこと言うね」

「そういえばあいつはどうした? ここ数日姿を見てない気がするが」

「五日くらい出かけてくるって」

「五日も? お前を置いてか?」


 いぶかしげな声に、イルヴァは思わずため息をつく。ノアの過保護さは今に始まった事ではないが、アクセルにまで彼がいなければ何もできないと思われていることは若干不本意だった。ノアやアクセルに比べれば手先が器用とは言えないし、料理も得意とは到底言い難いが、一人で生活するのに不自由するほどではない。小さな子供でもないのだから、五日くらい何とでもなるのだ。

 だが、そう言ったイルヴァに、アクセルは鼻で笑った。


「寂しがり屋の甘えん坊のくせに」

「な……っ」

「だからか、一昨日から毎日こうして俺んとこに来てたのは」

「そんなんじゃないよ」


 振り返れば、ノアの家で一人で朝食を終えてから、昼前から夕刻まで入り浸っていたような気がする。だが、それは多分パンに釣られただけだと思う、と何となく自分に確認する。


「ここなら冷たいものも飲めるし、パン美味しいし」

「それだけか?」


 明らかに納得していなさそうなニヤニヤ笑いに、眉間に皺を寄せたイルヴァのその額にアクセルが手を伸ばしてくる。優男風な外見とは裏腹に、まくった袖から覗く腕は意外と筋肉が付いていて逞しい。毎日大量の生地をこねているだけのことはあるな、とぼんやり見ていると、額に触れた手がそのままくしゃりと頭を撫でた。

「ちょっと熱いな。熱でもあるんじゃないのか?」

「大丈夫だよ。ただ、こんなに暑いの、初めてだから」

 そう呟いた時、扉を叩く音が聞こえた。振り向くと、ちょうど扉が開き、艶やかな黒髪がさらりと流れるのが見えた。とっさにアクセルの背後に隠れると、あからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らすが聞こえた。

「何で隠れるのよ。あんたがここにいるのなんてわかってたわよ」

「え……?」

 アクセルの肩口から覗くと、肩にかかった髪を払いながら、なぜかごく不機嫌そうにこちらを睨む美しい顔が見えた。

「ノアが出がけにうちの父さんに頼んでいったのよ。あいつが留守の間、適当に食料を届けるのと、時折様子を見るように、って。さすがにあんた一人のところにうちの父親が顔を出すのもなんだからと思って、あたしが見にいってるのに、毎回留守だし……。あんたどれだけここに入り浸ってるのよ?」

 まくし立てるような言葉に反論することもできず、もう一度アクセルの背中に隠れると、さらに不機嫌そうな気配が立ち上る。

「あんたねえ……!」

「はいはい、落ち着けよリネア。俺は別にこいつを取って食ったりしねえし」

「へぇ?」

 何だかものすごく嫌味な声に、けれどアクセルは平然と笑って返す。

「あれから何ヶ月ったと思ってんだ? 流石に乗り越えちまったよ」

 くしゃりとイルヴァの髪を撫でながらリネアに見せた笑いはいつも通りに見えて、それでもどこか違うような気がして、首を傾げる。そんな彼女にリネアはさらにうんざりとしたように顔を顰めてアクセルを睨みつけた。

「あんたがそうやって甘やかすから、なんじゃないの?」

「いーんだよ、俺がそう決めたの」

 イルヴァの頭を自分の胸に引き寄せて、ニッと笑った彼に、リネアは処置なしとでも言いたげな顔で盛大なため息をつくと、例の如く隣の部屋のテーブルに置かれた焼きたてのパンを引っ掴む。それから、小銭が入っていると思われる小袋をアクセルの顔に全力で投げつけて去っていった。


 顔にぶつかる直前で小袋を受け止めたアクセルは、頭をかきながらやれやれと呟きつつ、楽しげに笑っている。何だかんだそのやりとりを楽しんでいるのだろう。

「アクセル、リネアが好きなの?」

 ぽろりとこぼれた問いに、頭をかいていたアクセルの手がぴたりと止まった。鳶色とびいろの瞳がじっとイルヴァを見つめ、それから、ほんの少しだけその目が泳いだかと思ったら、もう一度頭をぐしゃぐしゃとかき回された。

「育ったかと思ったら、全然育ってねえな」

「……何が?」

「情緒」

「何それ?」

「何でもねえよ。とにかく、ちょっと熱がこもってるっぽいからこんなところにいないで水浴びでもしてきたらどうだ?」

 うんざりしたような声に、だがイルヴァは顔を輝かせた。

「水浴びできるところがあるの?」

「川でも泉でも、好きなところでしてくりゃいいだろ。まああんまり人目につくところはまずいだろうが」

「そんなに都合のいい場所ある?」

 この街の端には川が流れているが、何しろ街中に近いし、生活用水として使用されているから到底水浴びに使えるようなものではない。

「……お前、まさか街中以外、この辺り出歩いたことないのか? ?」

「うん」

 事もなげに頷いたイルヴァに、アクセルが額を押さえている。その様子に少しだけ居心地が悪くなって両手の指を絡めてもぞもぞしていると、だがふと鳶色の目が見開かれた。それからもう一度、がしがしと頭をかいた。


「ノアに言われてんのか、一人で出歩くなって」


 大概の用事はノアがこなしてしまうから、イルヴァの出かける先といえば、アクセルのこの店か、リネアの父の店くらいなものだった。あとはお使いをたまに頼まれる程度で、街から出ることはほとんどない。元々出不精だから、そんな生活は全く苦にならなかったけれど、それだけが理由でもなかった。アクセルは、その理由に気づいたのだろう。


「……過保護」

「だよねえ」

「けど、まあしょうがねぇのか」


 ひとつため息を吐いて、それから竃の方に歩み寄る。後ろについていってみると、竈の中にはまだ火はついてなかった。

「あれ、焼いてたんじゃないの?」

「まだ発酵中。まあでもだいぶ膨らんだからもういいか」

 中を確認してから、鉄板を竈の奥へと押し入れると、表面についている突起ボタンを押す。すると、青白い炎が揺らめくのが見えた。部屋の中はうだるような暑さだったが、それでもイルヴァはその美しい火の色に惹きつけられるように竈の前に立つ。

 じっと見つめていると、頬に突然冷たいものが押し当てられた。それが白い葡萄酒の注がれたグラスだと気づいて、受け取り、口にふくむと爽やかな甘さが広がった。よく冷えている。

「あれ、便利だねえ」

「まあな。今度もうひとつ頼んでおいてやろうか?」

「……いい。高価たかそうだし」

 あいにくと収入源のないイルヴァに手が出せるものだとは思えなかった。そう言うと、アクセルはくつくつと低く笑う。

「お前がおねだりすりゃあ、ノアの奴ならいくらでも買ってくれそうな気がするけどな」

「そういうわけにもいかないでしょ」

 今度はため息をついたイルヴァに、アクセルは肩を竦めただけでそれ以上は何も言わず、竈を覗き込んでいる。

 やがて、パンの焼けるいい匂いが漂ってきたところで、鉄板を取り出し、テーブルの上に載せる。三日月型の小さな生地は、二倍ほどの大きさになって茶色くこんがりと焼き上がり、ふわりと甘く香ばしい匂いがする。


 アクセルが一つを取り上げると、ぱりぱりと表面が剥がれ落ち、そのまま半分にちぎるとさくりといい音がした。ほかほかのそれが鼻先に突き出されたので、素直に受け取ると、指先でつまんでかぶりつく。中が空洞に膨らんだそれは、牛酪バターの風味と香りに満ち溢れ、そしてほんのりと甘くて絶品だった。

「美味しい……!」

「だろ?」

 自分でも残りの半分を口に放り込んで咀嚼しながら得意げにそう言うアクセルの表情は、もういつものそれだった。

「それ食い終わったら、水浴びに行くか?」

「付き合ってくれるの?」

「近くの森の奥に、俺もたまに行く穴場の泉がある。そこなら人目にもつかないし、昼寝にもちょうどいいだろうよ」

「でも、仕事は?」

「もう今日はこいつを焼き上げたら終いだ。特に急ぎの注文もねえし、付き合ってやるよ」

 アクセルにしては随分と親切な申し出に、じっと見つめると、何だか苦笑を浮かべる。

「この部屋、お前が思ってるより暑いんだよ。それ以上体調でも崩されたら俺がノアにどやされるからな」

 首をすくめて言うわりには、顔はいつも通り笑っているから、きっと半ばは冗談で、半ばは本当にイルヴァの体調を慮ってくれているのかも知れなかった。何にせよ、泉での水浴びは魅力的だったので、イルヴァは素直に頷いたのだった。


 それが、厄介事の引き金になるとは、その時は二人とも思いもしなかったのだけれど。

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