25. Extra 〜マーマレードのジャムパンとベーコンエピ〜 #2
「これが最後の機会かもしれないわよ?」
甘い声で耳に流し込まれたその言葉は、思いの外、アクセルの心の奥底まで滲むように沁み通った。それが、今までの彼女の片想いへのからかいの意趣返しだとわかってはいたけれど。
「アクセル?」
こちらを見上げる薄青い瞳はただ怪訝そうで、こちらの動揺など気づいた様子もない。初めて会った時から考えれば、表情はずいぶん豊かになったし、明らかに気安い。けれどそれは、野生の獣が懐けば情が湧く。そんなものだろうと、ずっと思って——思い込もうとしていたのに。
「あーもう……」
がしがしと頭をかきながら作業場へと戻る。中断していた作業を再開し、生地を捏ね上げて整形することに集中する。彼にとってパン作りは何よりも大切なことだったから、すぐに動揺はどこかへ消えて、等分にした生地がずらりと並ぶ頃にはいつも通りの平常心が戻ってきていた。
水甕で手を洗い、居間の方に戻るとイルヴァが頬杖をついて焼き上がったパンを眺めていた。先ほどリネアが食べたものと、籠に入れていったものの他は数が変わっていないから、どうやらつまみ食いはしなかったらしい。
「珍しいな」
「……え?」
「だいたいお前、俺が目を離した隙に、なんか食っちまってるだろう」
「そ、そんなことないよ」
「ああ、
棚から木皿に盛った
グラスを棚から取り出して、リネアがテーブルに置いたままにしていた葡萄酒を注いで隣の椅子に座りながら、ひとつ息を吐く。
つまりは、そういうことなのだろう、と。
グラスを差し出し、なんとか普段通りのニヤニヤ笑いを浮かべる。その表情に、途端にイルヴァが嫌そうな表情になったから、きっと彼の思惑は成功していたのだろう。焼き立てのパンのひとつにかぶりつき、肩をすくめてじっと見つめる。
「で、どうだった?」
「どうだった、って何が?」
いつもと変わらずきょとんと首を傾げるその様子に、胸のどこかが痛む気がしたが、それには構わず、硬いパンを行儀悪く咀嚼しながら、首元の赤い痕に指を滑らせる。痛々しくさえ見えるのに、本人は全く気づいていないようで、ただ、触れる肌は絹のように滑らかで——温かい。
ふと見れば、乾燥果実を摘んだ手首の内側にも同じような痕がある。これ見よがしにつけられたそれは、きっとイルヴァに自覚させるためのものだ。うんざりしながらそこを指さすと、ようやくその表情に恥じらいが浮かぶ。
「同じのが、ここにもここにも、派手についてるぞ」
「えっ……⁉︎」
「まあ、よかったな」
どれほどノアがイルヴァに心を砕いてきたかを知っているから、今さら彼女をどうこうしようという気は起きない。心臓はざわついているけれど、だからどうだと自分に言い聞かせて、けれど、その冬の空のような瞳が揺れているのに気づいた。
「何かあったのか? まさか、無理矢理……とか?」
ノアに限ってそんなことはないだろうと思ってはいたが、あの男が随分と自制していたことも知っていたからそう問えば、イルヴァは慌てたように首を横に振る。
「ち、違う……! ノアは、その……優しかった、よ」
自分で言ってから真っ赤になっているのだから、呆れるしかない。だが、やはりすぐにその瞳がどこか迷子のように戸惑いを浮かべて、もう一度彼の方に向けられる。
何かを言いあぐねているようだったが、急かしても仕方がない。葡萄酒に口をつけながらパンに視線を向けて柑橘のジャムのそれを手に取ると、小さな声が聞こえた。
「あの、ね。昨日、母親だという人に会った」
「母親?」
驚いて視線を戻すと、イルヴァはやはり迷子のような顔をしてこちらを見つめている。
「魔女なんだって。その人から預かったっていうこの石に触れたら、何だか涙が止まらなくなって——」
そう言いながら胸元から細い金の鎖の先についた雫のような緑の石を掲げる。
「それで、気づいたんだ。村が襲われてから、あの雨の夜、ノアが助けてくれたときまでの記憶が、ほとんどないって」
「そりゃお前……」
それほどに辛い記憶なら混乱して覚えていないのも無理はない。そう言った彼に、だがイルヴァは首を横に振る。
「初めてノアの眼を見た時のことは覚えてる。でもそれより前、村が焼かれてから、あの男たちに襲われてノアに助けてもらうまで、何日かあったはずなのに、全然覚えてないんだ」
ただ、靄のようにぼんやりと怖かったような不安だけがあるのだという。
「ノアは、この石に触れて、私が男たちに襲われていたところを見たって言ってた」
「襲われたって……」
「それ以上は、話したくないって、教えてくれなかったけど」
男たちに襲われていて、ノアが話したくないようなことといえば、一つしか思い当たらない——だが。
「ノアがお前を連れてきた夜、着替えさせたのは俺だ。お前は泥だらけだったけど、その……目立った傷はなかったぞ?」
「あの人は、魔女だから、多分傷を癒せると思う」
遮るように言った声は小さく震えていて、だからアクセルには、イルヴァが何を気にかけているのかもわかるような気がした。
「それで、お前は何が気になるんだ?」
迷子のように戸惑う顔に、仕方なくその頭を撫でてやりながらそう問えば、わからない、と首を振る。こてんと、子供のようにその頭を肩に預けてくる様子に心臓がおかしな音を立てたが、何とか抑え込んで、その背をとんとんと、子供を宥めるように叩いてやる。
「……ノアは、思い出す必要はないって言ってた」
「まあ、そうだろうな」
「そうなの?」
「誰にだって思い出したくない
「アクセルにも、あるの?」
おずおずと見上げて投げかけられた問いに、内心で一つため息を吐く。ずっとそれは彼とノアの間でわだかまっていながらも、見て見ぬふりをしてきたものでもあった。
「俺たちの住んでいた村もかつて焼かれた。生き残ったのは俺と、あいつとほんのわずかな大人たちだけだ。理由はわからない。それに、もう今さらわかったところでどうなるもんでもないしな。それでも、あの光景は一生忘れないだろう」
「……忘れられるなら、忘れたい?」
「どうだろうな」
あの時感じた、どうにもならない怒りと悲しみを、忘れてしまっていいのかはわからなかった。けれど、もし忘れてしまえたとしたら、その記憶を取り戻したいとは思わないだろう。
「俺は、とりあえずこうやって自分の店を持って、まあまあのんきに暮らしてる。それでいいんじゃねえかなとは思ってるよ」
「……そっか」
「まだ、なんか不安なのか?」
「そういうわけじゃ、ないけど。でも、やっぱり欠けてる記憶があるっていうのは、気にはなるよね」
「そりゃそうだな」
強く抱きしめれば折れてしまいそうなやわらかい体をそっと引き寄せて、もう一度頭を撫でてやると、猫の子のように頬を擦り寄せる。あまりに無防備な様子に呆れたが、こんな姿は最近はノアでさえ見ていないかもしれない。そういう意図がないからこその、まるきり小動物のような仕草だ。
「……本当に馴れたな、お前」
「どういうこと?」
「いや、こっちの話」
持っていた柑橘のジャムのパンを半分に割って口元に運んでやると、子供のように素直に口を開けてもぐもぐと咀嚼する。しばらくしてから首を傾げた。
「美味しい……けど、ちょっと苦い?」
「お前、本当に味覚がお子さまだな……」
やれやれとため息をつきながら、今度は燻製肉を編み込んだパンをちぎって口元に寄せると、またそのままかぶりついた。だがすぐに顔を顰める。
「痛っ……」
「どうした?」
「パンが刺さった」
「はあ⁈」
自分の手でパンを持って開けたその口を覗き込めば、確かに舌の端に小さな血の雫が見えた。硬い尖った針のようになっていたパンの先が引っかかったらしい。
「子供かよ」
「うるさいな……! でも、意外と痛い……」
仕草は子供のようなのに、ふっくらとした唇から舌がのぞく様は、今の彼には正直目の毒だった。
また、耳の奥にリネアの言葉が不意に蘇る。
衝動的にその顎を持ち上げて顔を寄せたが、透き通った宝石のように美しい眼差しは、ただ怪訝そうに彼を見たあと、すぐにパンに向かってしまった。
「……お前なあ」
「何?」
もう一度口に入れるかどうか、真剣にパンを見つめるその淡く美しい瞳と子供じみた表情を眺めながら、結局彼はいつかのように、ただ深いため息を吐いたのだった。
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