24. Extra 〜マーマレードのジャムパンとベーコンエピ〜 #1

 見慣れたパン屋のどっしりとした木の扉を叩くと、すぐに返事があった。迎え入れる様子はなかったので、リネアは自分で扉を開けて、そのまま中に入る。

「そこに置いておいてくれ」

 奥の作業場から聞こえた声はどこか上の空で、おそらくは作業に集中しているのだろう。頼まれた品物をとりあえず手近な椅子の上に籠ごと置いて作業場をのぞくと、真剣な顔で作業台に向かっている横顔が見えた。


 まくった袖からのぞく腕は、一見優男風な外見からは意外なほどしっかりと筋肉がついている。その手で大きなパン生地を手際良く繰り返しこねて、いくつかの塊に丸め上げる。部屋の中は閉め切られていて、蒸し暑く、その額にも汗が浮かんでいた。

「暑くないの?」

「この温度と湿度が必要なんだよ」

 作業場の入り口から声をかけた彼女に、袖で汗を拭いながら、視線すら向けずにそう答える。普段はどちらかと言えば軽薄で、あちこちで浮名を流しているくせに、こと自分の仕事——パン作りのことになると人が変わったように真剣に打ち込んでいる。彼が作業場に他人を入れることはほとんどないから、こんな表情を知る者は、実のところ一握りの人間に限られていたのだけれど。


「代金もらって帰ってこいって言われてるんだけど」

「じゃあ、適当に座って待っててくれ」

 どうやらまだ時間がかかりそうだと見込んで声をかけたが、やはり視線すら向けられないまま、面倒くさそうな答えが返ってきた。

 だが、さすがに悪いと思ったのか、テーブルの上にあるもんでもつまんでくれていいから、とほんの少しだけ和らいだ声が続く。

「わかった」

 内心でため息をつきながら、テーブルの上に並べられたパンを眺める。先ほど焼き上がったばかりのようで、手をかざせばまだ温かいものも多かった。その中からふんわりと焼き上げられた小さな丸いパンを一つ手に取る。


 ほかほかとまだ温かいそれは、口元に近づけると、蜂蜜の甘い匂いが漂ってきた。半分に割ると、とろりとした橙色のジャムがこぼれそうになって、慌てて割ったパンのもう半分ですくい上げて口に入れる。爽やかな柑橘オレンジの香りと、皮の食感が口の中で広がって、何ともいえない風味を醸し出している。パンの生地が甘い代わりに、酸味が強めのジャムの組み合わせが絶妙だった。

「この柑橘のジャム、美味しい」

「だろ?」

 小さな呟きのつもりだったが、作業場から得意げな声が届く。どうやら自分のパンへの賛辞は聞き逃さないらしい。

「そっちの塩漬燻製肉ベーコンを編み込んで焼いたパンも美味いから食ってみろよ。台所の水場に白葡萄酒も冷えてるからついでに一緒に」

 まだ昼前のこんな時間から飲むのもどうかと思ったが、きっと間違いなく合うだろうという誘惑に逆らえなかった。棚からグラスを取り出すと、台所の小さなかめに浸された葡萄酒の瓶を取り出す。その瓶は、夏も近づくこの季節にはあり得ないほど冷えていて、思わず小さく声を上げた彼女に、作業場からまた楽しげな声が響く。

「いいだろ? 小人妖精ドワーフに頼んで作ってもらったんだ。年中氷みたいに冷える魔法の甕さ」

「……本当に、あんたも新しいものが好きね」


 この世界は大昔の大戦で三つに分かたれて、リネアたちが住む人間の世界からは魔法は失われた。けれど、どうやら少し前に、何かが起きてこの世界にも魔法がまた入ってくるようになったらしい。何やら不穏な噂も聞かないではなかったが、とりあえずこのパン屋は自分の嗜好と仕事にそれを活かすことに余念がないようだった。


「研究熱心と言ってくれ」

 楽しげな声に肩をすくめてグラスに葡萄酒を注ぎ、三つ編みのように編み込まれ、硬く焼き上げられたパンを手に取る。ちぎるとパリッといい音がして、口に入れると硬いが、燻製肉の脂がしみこみ、パンの香ばしさと互いを引き立てている。少しこってりとしたその味わいが、確かに冷えた白葡萄酒とよく合っていた。

 本当に、昼前からこんなことをしていいのかと内心で思いつつも、なかなか作業が終わる気配がないので大人しく待っていると、とんとんと木の扉を叩く音が聞こえた。アクセルが応えるより先に扉が開く。


「アクセル、いる?」

 柔らかなその声に目を向ければ、淡い金の髪を頭の高い位置で結ったイルヴァが扉の向こうから顔をのぞかせていた。彼女はリネアの姿を見ると、しばらく固まって、そのまま踵を返そうとする。

「おい、イルヴァ、何か用があったんじゃないのか?」

 作業中だったはずのアクセルが、大股で足早にイルヴァの元へと歩み寄って、その腕を掴む。慌てて水甕で粉を落としたのか、まだその手から滴が垂れていた。

「冷たっ……!」

「あ、悪ぃ」

「生地こねてた?」

「ああ、何で帰ろうとしたんだよ?」

 普段は飄々している声が、なんとなく、ほんの少しだけ温度が高く聞こえた。さらに、その視線がイルヴァの首筋から襟元に下りていくと、驚いたように目を見張って、それからきつく眇められる。

 だが、その表情は一瞬で消え、すぐにいつも通りの少し人の悪い、それでも十分に人好きのする笑みを浮かべた。


「あ、えっとお邪魔かな……と思って」

 イルヴァはちらりとリネアに視線を向けて、すぐに逸らす。怯えた子鹿のようなその様子に内心で苛立ちが募ったが、心当たりは十分にあったので、グラスに残っていた葡萄酒を飲み干して立ち上がる。

「何言ってんのよ。あたしがこの男と何かあるわけないでしょ?」

「俺としては、こんな美女に言い寄られるならいつでも大歓迎だけどな」

「あんたいつか刺されるわよ?」

「美人に殺されるなら本望」

 平然と笑って言ったその顔を、引っ叩いてやろうかどうしようかと一瞬ためらっている間に、イルヴァがアクセルの袖を引いた。

「だめだよ、アクセル」

「……あ?」

「冗談でも、そういうこと、言わないで」


 普段はぼんやりしている薄青い瞳が、その時ばかりはなぜか切実な色を浮かべてアクセルの顔を見つめている。その眼差しに鳶色とびいろの瞳が揺れて、それからぽんぽんと安心させるようにその頭を撫でる。それは、子供扱いするような仕草だったが、実のところ内心の動揺を誤魔化すためのものだったのは、火を見るより明らかだった。


 ——その顔には、いつになく優しい笑みが浮かんでいたから。


「ふうん」

 思わず声に出てしまったその頷きに、アクセルが何やら慌てたようにイルヴァの頭に乗せていた手を離して目を泳がせる。

「何だよ?」

「別に」

 改めてイルヴァを見て、先ほどアクセルが動揺した理由もわかってしまった。すっきりと結われて露わになった首筋から襟元に、これ見よがしにつけられた赤い痕が無数に散らばっている。


 イルヴァにそんなことをする相手は一人しか思いつかなかった。けれど、それほどまでに所有欲をむき出しにするようなことは、彼女が知る限り一度もなかったのに。


 ずきりとリネアの心臓も痛んだけれど、見て見ぬふりをする。代わりに、腕を組んでイルヴァを見下ろす。

「ねえ」

「な、何?」

「あんた、その髪型、わざとやってるの?」

「え……わざとって? 家を出るときに、ノアがやってくれたけど……?」

 その答えに深いため息が聞こえて、自分で吐いたものかと思ったら、呆れたようなアクセルの顔が見えた。

「二人して……何?」

「気づいてないの、もしかして?」

「こいつ、鏡とか見ないからな」

「うわ……じゃあ、あの男、それもわかっててやってるの? ちょっと引くわ……」


 リネアの呟きに、イルヴァは怪訝そうにこちらを見つめている。そんな表情に、ノアの幼馴染だというその男は、ただ肩をすくめて笑った。だが、その笑みに苦さが混じっているように見えるのは、多分気のせいではないだろう。

 アクセルは彼女の視線の意味に気づいたのか、前髪をかき上げながら、食材の代金をリネアに差し出し、片目をつぶって見せる。

「慰めてほしいなら、俺は今夜でもいいぜ?」

「冗談でもやめて」

 引ったくるようにそれを受け取って、それから二人を交互に見ながらリネアは鼻で笑う。


「……そうやって、いつまで誤魔化していられるのかしらね?」


 イルヴァはただ首を傾げるばかりだったが、アクセルの顔色がわずかに変わる。自覚があるなしの違いはあれど、恋が破れたのは多分どちらも同じで、だから意趣返しと、ほんのわずかな嫌がらせを込めて、耳を引っ張って口を寄せ、低く囁く。魔女が誘惑するように。


「これが最後の機会チャンスかもしれないわよ?」


 きらりと目を輝かせてそう言ってやると、面白いほどに鳶色の瞳が揺れた。常々彼女の片想いを揶揄からかってきた男のそんな表情に満足して、ついでにいくつかのパンを籠に入れて銅貨を置くと、リネアはにっこり微笑んだ。


「じゃあ、あとはごゆっくり」


 それでも、きっとは起こらないと彼女にも彼にもわかってはいたけれど。

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