23. 鶏肉の香草焼きと、花の中の花の香り
ガタゴトと長い時間馬車に揺られ、ようやくノアの家に着いた時には、ほっと息を吐いた。
侯爵家というだけでも随分面倒だと思ったのに、さらには魔女に王家に謎の黒衣の者たち。結局詳細はわからずじまいだったが、見上げたノアは肩をすくめて笑うばかりだったから、もうそれでいいのだろうという気がしていた。
「なんか食うか」
家の中に入るなり、ノアがそう声をかけてくる。見下ろしてくる紫の瞳は穏やかで優しい。あの時、熱を浮かべて告げられた言葉と、今のその穏やかな瞳がどうにもやはりしっくりこなくて、イルヴァは首を傾げる。
「ノア」
「何だ?」
「その……何かあったの?」
そう尋ねると、ノアはしばらく迷うように視線をさまよわせていたが、やがてイルヴァを引き寄せた。それから両手で頬を包み込んで、まっすぐに視線を合わせる。その瞳は、いつも通り見惚れるほどに鮮やかな紫で、惹きつけられるようにぼうっとしていると、微かに笑う。
その顔が近づいてきて、ゆっくりと何度も軽く口づけが降ってくる。ほんの少しためらってから、その首に腕を回すと、ノアは驚いたように目を見開いた。そして、すぐに強く抱きしめられて、繰り返される口づけが深くなる。初めて出会った頃とは違う、優しいけれど遠慮のないそれに、くらりと目眩がした。
唇が離れると、少し眇められた紫の瞳が確かに熱を浮かべてこちらを見つめる。
「……大丈夫か?」
「何が?」
「その……嫌じゃないか?」
そういえば、嫌だ嫌だと子供のようにごねたのはつい先日のことだった。
「嫌じゃ、ないよ」
全然、と小さく呟くと、もう一度強く抱きしめられた。
「ああもう……無理だな」
「何が?」
尋ねたが、ノアは肩をすくめて笑って腕を解く。それからくしゃりとイルヴァの髪を撫でて、耳元に口を寄せる。
「まずは飯だ。それから……な?」
何かを抑えるように掠れる声に、どきりと心臓が跳ねた。見上げた顔はひどく優しく、甘い表情を浮かべていて、イルヴァは頬が熱くなるのを自覚する。
「て、手伝う……?」
「その辺でおとなしくしててくれ。でないと——」
何、と聞き返そうとして、その眼差しの強さに言葉にされなかった想いを感じ取って、イルヴァはくるりと踵を返すと今は火の入っていない暖炉の前にクッションを抱いて座り込んだ。ため息混じりに笑う気配が伝わってきたけれど、それ以上どうすればいいのかはわからなかった。
どこよりも安心できるこの場所で、クッションを抱いているうちに、いつものように少しうつらうつらしていたらしい。香ばしい何かが焼ける匂いに振り向くと、ノアがちょうど皿をテーブルに並べているところだった。
立ち上がり、近づくと香草をまぶした鶏肉がこんがりと焼けているのが見えた。
「起きたか?」
「手伝う?」
「じゃあ、葡萄酒とグラスを」
頷いて、棚からグラスを二つと床下から葡萄酒を取り出す。凍るほどではないが地下はひんやりとしていて、瓶は程よい冷たさだった。
鶏肉の香草焼きに、
「ああ、あのご婦人がわざわざ
差し出された小皿の白い塊を指ですくって口に含むとこってりとしているが、
「これ……
「ああ、あと
「うん、美味しい」
少し薄めに切られ、こんがりと炙られたパンにのせて食べると、小麦の風味とこってりとした感触が相まってさらに美味しい。
馬鈴薯もほくほくとしていて、燻製肉の塩気がちょうどいい。何より、鶏肉の香草焼きは表面にさっくりとした大きめの粉が肉汁と絡んで、ちょうどよい焼き加減で柔らかく絶品だった。
「すごく美味しい。これ……パンの粉?」
「ああ、ちょっと硬くなったパンをすりおろしたもんだな。脂を吸ってくれるから旨味が増すだろ?」
ニッと笑った顔は無精髭だらけで、その手は大きく無骨に見えるのに、料理に限っては本当に繊細な味付けをしてくるから驚いてしまう。それはきっと、彼が本当に美味しいものを、と考えて作ってくれているからなのだろう。
美味しい食事と葡萄酒で、ここ数日慌ただしかったのが嘘のように、穏やかで心地よい気分になってくる。どこかふわふわとする思考を自覚しながら、イルヴァはまじまじとノアを見つめた。紫の瞳が怪訝そうに見返してくる。
「……何だ?」
「ノアのごはん、大好き」
そう言ったイルヴァに、ノアは大きくぽかんと口を開けた。珍しいその呆けたような顔に、何かおかしなことを言っただろうか、と首を傾げていると、ため息をつきながらがしがしと頭をかいて、グラスを置いて立ち上がり、イルヴァの側に立つ。
「飯だけか?」
彼女の頬に手を伸ばしながらそう問う眼差しは穏やかで、けれど確かにそれだけではない光も浮かんでいた。
「……ノアも」
葡萄酒で浮かれた気分のせいか、するりと口からすべり出た言葉に、もう一度ノアは驚いたように口を開けて、それから片手で顔を覆った。
「どうしたの?」
「いや、自分の意志の弱さに呆れてな」
その顔が、ほのかに赤いように見えるのは、気のせいだろうか。ノアはイルヴァの頬に親指を滑らせて、愛おしげに撫でる。そのままその手が顎をすくい上げて、軽い口づけが落とされた。それから、ふわふわとした気分のまま彼を見上げているイルヴァを抱き上げると、そのまま寝室へと歩み入る。
寝台にそっと下ろされても、まだぼんやりとしていると、ノアは寝台の脇の
「いい匂い」
ぼうっとしたままそう呟いて、気がつくと目の前に紫の瞳が間近に迫っていた。イルヴァの手を絡め取るように、ノアの大きな手が握りしめる。
「遠い異国では婚礼の初夜の寝台に、この香りの花の
どこか笑みを含んだ声で言うその言葉の意味がわからないほど子供ではなかったから、イルヴァは不規則な鼓動を打った心臓を意識しながらも、少しだけ、からかうように言ってみる。
「……用意してたの?」
「随分前にな」
眉を上げて、癖のある笑みを浮かべるその顔は、よく見れば帰ってきた時よりも無精髭がすっきりしている。伸び放題の黒い髪は後ろでまとめられているし、普段はもうそれが当然のような煙草の匂いもしない。イルヴァが居眠りをしている間に整えたのだろうか。
何となく、彼なりに気を遣ってくれているのだと気づいて、イルヴァは我知らず微笑んだ。けれど、彼女の頬に手を伸ばしながら、こちらを見下ろすノアの眼差しには、それでも何かを迷う色が浮かんでいた。
「ノア?」
「本当に……いいのか?」
この後に及んでも何かをためらう様子に、イルヴァは首を傾げながら、自分の頬に触れているノアの手を握る。
「何を、心配してるの?」
「……それは」
なおも言い淀むその紫の瞳に浮かぶのは、苦悩の影だろうか。イルヴァはしばらくためらって、それからゆっくりと口を開く。
「……私が、怖い目に遭った時のこと?」
「思い出したのか?」
目を見開いた彼に、イルヴァは曖昧に首を振る。
「わかんない。でも……何か、この間あの緑の石に触れた時から、ぼんやりと思い出したことがある」
あの、村が炎に包まれた日。逃げ惑い、雨の中でノアに救われるまでに何があったのか。その記憶が欠けていることに気づいたのだ。
「覚えてない。でも何だか……誰かに襲われて……それで……」
暗く澱む闇のような記憶のその先に、何か触れたくないものがあるような気がしていた。ノアはそっと彼女を包み込むように抱きしめる。
「考えなくていい。思い出したくないことは、思い出さなくていいんだ」
しばらくそうして抱きしめられているうちに、心地よい熱でこわばりかけた体がほどけていく。
「……ノアは、何を知ってるの?」
迷いの浮かぶ紫の瞳をまっすぐに見つめながら、額の傷に触れる。ノアはあの雨の中、自分の身を顧みずにイルヴァに手を差し伸べ、それからずっとたくさんのものをイルヴァに与えてくれてきた。ならば、今度はイルヴァが手を伸ばす番だ、と思った。
彼は、ほんの少しだけ眉を顰めて、それから額に触れていたイルヴァの手を握る。
「……お前が眠っている間にあの石に触れて、お前が襲われているのを
イルヴァは何も言わず、ただじっと彼の言葉に耳を澄ませる。その声は低く、何か激しい感情を抑えているかのように、微かに震えている。暖かい腕に包まれているのに急速に体が冷えていくような気がして、心臓が早鐘を打ち始める。何か、とても恐ろしいものが潜んでいるのを感じたように。
「お前は泣いて、叫んで、でも誰もお前を助けられなかった。その先は——話したくない」
「……うん」
何があったのかは、覚えていないけれど、ノアがそれほどまでに言い淀む理由はきっとひとつだ。この体に傷は残ってはいなかったが、あの石がアウローラのものだったことを思えば、その理由もわかるような気がした。ノアのためらいが、イルヴァの沈む記憶と傷を開くことを恐れているのだとしたら。
「だから、お前がまだ——」
「大丈夫だよ」
彼の言葉を遮るようにイルヴァは声を上げた。彼の迷いを和らげられるように、それが本心だと伝わるようにふわりと微笑んで、彼の頬を包み込む。
指先で触れた唇は少しかさついていた。その手に、唇に、何度触れられたことだろう。触れられることは、恥ずかしくはあったけれど、そもそもの初めから嫌悪や拒絶感を抱いたことはなかった。きっとそれは、彼が心底イルヴァをいたわり、想っていてくれたからだろう。
周囲に漂う甘い花の香りに包まれながら紫の瞳を見つめると、目眩がした。
「ノアなら、大丈夫だよ。……たぶん」
「たぶん?」
「あ、えっと……うん、大丈夫」
——あの寒い夜に、救い出してくれたその時からきっとずっと。
言葉にできない想いが、じっとその美しい紫の瞳を見つめることで、伝わるように。
「……イル、愛してる」
普段は人の悪い笑みばかり浮かべるその顔が、ひどく優しく甘い声でそう告げた。心のどこかで、似合わない、と思ったのが顔に出たのか、ノアが苦笑を浮かべる。それでも、それ以上言葉はいらないと、互いにもうわかっていた。
——どんな恐ろしい記憶も
そうして、二人で過ごす新しい初めての夜は、甘い花の香りに包まれて、ゆっくりと優しく更けていった。
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