22. エッグタルト

 フレデリクに連れられて帰ってきたその人を見て、イルヴァは思わず息を呑んだ。その顔色は蒼ざめて、襟元からは細い首と鎖骨が浮いて見え、腕は棒切れのようだった。半ば透けていた幻のような姿で見た時よりも、遥かにやつれている。


 声をかける暇もなく、彼女は衛兵に抱き上げられて運ばれていく。本来なら、フレデリク自身が運びたかったのだろうが、あいにく彼は左腕を吊った状態で、さらには歩くのがやっとの状態のようだった。


 彼はイルヴァに視線を向けると、小さく頷いた。その意味を計りかねて眉根を寄せると、同じように顔を顰められる。後ろでノアのふき出す声が聞こえたが、無視して口を開く。

「あの人は……?」

「大事ない、はずだ。少なくとも本人はそう言っていたし、ここにいる間はこれ以上は無理はさせぬ」

「結局、どうなったの?」

 黒衣の者たちの殲滅を、と告げられたトールヴァルドは、不思議とさほど驚いた様子もなく、ただ肩をすくめて頷いた。イルヴァやノアたちの村を焼いた極悪非道な連中にさえも眉一つ動かさない様子に、何やら胸の内に黒い靄がかかったような気がしたが、王族というのはそういうものなのかもしれない、とどこか諦めのような気持ちもあった。

「あれは、王家の一族の反乱分子によって率いられていた。王家としては、彼らに実害がなければ放っておく程度のものだったが、魔女との契約に基づいて、粛清された」


 そんな簡単なことだったのだろうか、とイルヴァは拳を握りしめた。では、もっと早くに彼らが動いていれば、イルヴァの村も、ノアの村も滅ぼされることはなかった。どれほど多くの命が無為に失われたことだろう。


 顔を顰めたイルヴァに、フレデリクも眉根を寄せて、そっと頬に触れてきた。

「これは、確かに我らのとがだ。もっと早くに彼らの暴虐を王に訴え、鎮圧に動くべきだった」

 いくら悔いて謝罪したところで、失われた命は戻らない。イルヴァの表情からその内心の呟きを悟ったのか、フレデリクは静かに頷いた。

「トールヴァルド殿下が状況を把握された以上、同じことは起こらぬ。少なくとも、私の目の届く範囲で何かが起きればすぐに対処する」

 過去に起きてしまったことを悔いたり責めたりしても、意味はない。そうわかってはいても、共に過ごした村の人々の顔を思い浮かべれば、やりきれない思いが胸を灼く。

 小さく震えたイルヴァの肩をノアがそっと抱き寄せた。

「——お話し中、申し訳ありませんが、奥さまがイルヴァさまにお話が、と」

 振り返れば、いつもより少し疲れたような表情のエマがこちらを見つめていた。


 エマに案内されて、アウローラのいる部屋へと入る。ノアは入り口で待つと言ったが、エマの強い勧めで押し込まれるように一緒に部屋に入った。

 寝台の背もたれに身を預けて半身を起こしたその人は、昨夜見た幻めいた姿よりも遥かに儚く見えた。その頬はけ、腕も驚くほどに細い。長く病を患ったかのように衰えた様子に、改めてイルヴァは息を呑む。

「驚いた?」

 直接耳に届く声は、柔らかく心地よい。微笑むその顔は、それでも十分に美しかった。

「どうして……」

「昨夜会ったのは幻みたいなものだから。私の最もいい状態ベストコンディションの姿ね」

「何があったの?」

 尋ねたイルヴァに、だがアウローラはただ小さく首を横に振る。そうして、フレデリクがそうしたようにイルヴァの頬に手を伸ばしてくる。

「ごめんなさい。いろいろ、何もかも、うまくいかなくて」

 穏やかな微笑みを浮かべていても、その声に宿る悔いる響きは確かに届いたから、イルヴァは何も言えなかった。捨てた過去を詰ることも、再会を喜んで縋りつくことも。

 顔も知らなかった母親は、やはりどう見ても他人のような気しかしない。


 動けない彼女を、ぐいと後ろからノアが引き寄せて抱きしめた。その暖かさに、自分でも気づかないうちにこわばっていた体から力が抜ける。その胸に頬を寄せて腕に触れると、大きな手が、宥めるように背を撫でる。

 それからノアは、アウローラに視線を向けた。

「あんたは大丈夫なんだな?」

「ええ、魔力を使い果たしてしまったから、そのせいで体も疲弊してしまったけれど、大人しくしていればそのうち回復すると思う」

「……何があったかは、話す気はないんだな?」

「もう終わってしまったことだもの。ああ、でも、ありがとう。きっとあなたたちが来てくれなければ、あの人も私も決断できなかった」

「王に助力を乞うことがそれほど大きなことなのか?」

 これほどあっさりと事が済んでしまった今は、何をためらっていたのかとそちらの方が不思議な気がするのに。

「そうね。意外と決断してみれば簡単なことかもしれないけれど」

 まだ何かを隠していそうな気はしたが、彼らが話す気がないのならば、追及しても仕方がない。ひとまずは皆が一応無事でいることに感謝するべきだろうか。


 それ以上話すべきことも見つけられず、沈黙が下りた頃、フレデリクが部屋に入ってきた。その後ろにはエマがたくさんの皿の乗った盆を持って続く。

「さあさ、奥さまも。こんなにやつれてしまわれて……何とおいたわしい。しっかり召し上がってくださいませね」

 目の端に浮かんだ涙を拭いながら、いそいそと小さなテーブルを寝台に用意し、そこに香草茶や果物をのせていく。それから、いつか見た卵の焼き菓子エッグタルトも。


 それを見てアウローラが柔らかく微笑み、それからフレデリクに視線を向ける。無表情なその顔はあまり変わらなかったが、ほんの少し口角が上がっているから、もしかしたら笑っているのかもしれない。

 フレデリクは寝台の端に腰かけて、焼き菓子を一つ手に取る。アウローラも同じように手にとって口に入れると、さくりと軽い音がする。ぽろぽろとこぼれたかけらに、それでもどうしてか彼女は楽しそうに微笑んで、フレデリクもまたその頬を拭ってやっている。


 親密な空気になんだかいたたまれなくなって、イルヴァはノアの腕から抜け出すと、踵を返す。その背中にエマが慌てたように声を上げた。

「イルヴァさま?」

「帰る」

「そんな……」

「もう危険はないんでしょう。なら、帰ってノアのごはんが食べたい」

 きっぱりとそう言うと、エマは少し困ったようにアウローラに視線を向けた。彼女はただ柔らかく微笑んで頷く。

「私はしばらくここにいるから、気が向いたら訪ねてきてね」

「……たぶん、来ないと思う」

「なら、私が訪ねていくわ」

「わ、わかった。気が向いたら来るから」

 こちらに来るのは勘弁してほしい、という声には出さなかった懇願は伝わったらしい。アウローラは今度はくすくすと声をあげて笑うと、わかったわ、と頷いた。


 それから、山ほどの菓子や果物を持たされて、馬車に押し込まれた。帰途は自分たちでなんとかすると言ったのだが、そればかりはとエマは決して譲ろうとしなかった。

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