21. Past and Present 〜思い出の食べ物〜

 轟々ごうごうと鳴る風と打ちつける雨の音を聞きながら、彼女は静かに金の糸をつむいでいた。何もないはずの糸車から紡出されるその糸は、彼女の魔力をり合わせたもの。どんな繊維よりも強く魔力を通すため、竪琴たてごとに用いれば誰をも魅了する音色をかなで、弓のつるに用いればしなやかで剛力の狩人が力いっぱい引いても壊れず、遥か彼方を射ることができる。


 だが、彼女にこれを強いている者たちは、ただ美しい糸だとそう言って、貨幣に変えるだけだ。そうして人間の作る武器を買い込み、新たな破壊を呼び込んでは喜んでいる。その価値を知らぬ者に教えてやる必要もないから彼女は黙って糸を紡ぐ。

 その行為は彼女の命を削っていたけれど、それは彼女にとっては償いだったから、抵抗する気もなかった。


 ——何よりも大切なあの娘を危機にさらし、傷つけてしまったことへの。


 金の糸を紡ぎ、薬を作り、時には毒薬をも供する。それがどんなことに使われているかは彼女の興味の埒外らちがいだった。人間は放っておけば常に争う。

 いずれ全て滅びてしまえばいいのに、とかつての大戦で精霊たちが望んだのも、あながち故のないことではなかったのだ、とこうして巻き込まれてみれば納得できないことでもなかった。


 ふと、いつになく騒ぐ気配に気づいて顔を上げる。閉じられた塔にさえ届く、荒々しいときの声。では、彼の伝令は功を奏したのだろうか。安堵と同時に彼女の体から力が抜けた。


 千年以上も続く、この王国と魔女との繋がりから生まれた古い約束。それを行使することは、こちらの手札を一つ失うことを意味したから、よほどのことがなければ使うつもりもなかったし、あわせて言えば王がそれを履行する保証もなかった。だが、どうやら王家は思ったよりも森の魔女との繋がりを大切に思っていてくれたらしい。


 いずれにしても、恐ろしかったのは自分の身の危険ではなく、自分がいなくなった後に、あの娘に害が及ぶこと。それさえ回避できれば、彼女が望むことはもう何もなかった。


 扉の向こうから、どたどたと無様な騒がしい足音がする。がちゃがちゃと慌てたような耳障りな音に続いて扉が開かれると、そこには肩で息をする醜い男の姿があった。

「何をした……⁉︎」

「何を、とは?」

「王の手勢がこの城を囲んでいる。我らを皆殺しにするつもりだと……!」

「あら、ついに命運が尽きたのね」


 目の前の男は、王族の一人。現王の遠い血縁だが、何を血迷ったか黒衣の連中に手を貸し始めた。恐らくは、王に反旗をひるがえし、いずれは王冠をその手に——と、そんな大それた夢を持って。

 王は些事は気にしなかった。たとえ村がいくつも彼らによって焼かれようとも、王国の大勢に影響がなければ見過ごされた。

 それに気づかず、度が過ぎてこうして滅ぼされる羽目になる。


「お前が呼んだのか⁉︎」

「まさか」

「森の魔女など信用したのが間違いだった!」

 言いながら腰の剣を引き抜いて、振りかぶる。避けようと思えばできないこともなかったが、ここで足止めをしておいた方が、きっと事はもっと容易たやすいだろう。そんなことを考えて、ただ静かに見つめ返した彼女の目の前で、唐突に男の胸から剣が生えた。

「な……ッ」

 驚いたように目を見開いた男は、きっと何が起きたかを理解していなかっただろう。剣はすぐに引き抜かれ、それから男の首がごとりと地に落ちた。溢れ出すように流れる血を見て、彼女はとっさに窓へと身を翻そうとした。

 その光景が恐ろしかったのではなく、どんな顔をしてに会えばいいか、わからなかったからだ。


 だが彼は、剣を投げ捨て、どこにそんな力が残っていたのかと思うほど俊敏に動き、彼女を抱き寄せた。そうして、全ての力を使い果たしたかのようにその場に膝をつく。どれほど彼が深い傷を負っていたかを思えば、ここまでこられたことさえも奇跡のようだった。

「この、愚か者……!」

 改めて彼女の姿を見た相手は、驚いたように目を見張って、それから低くそう呟いた。安堵の言葉でも、愛の言葉でもなく。

 苦しげな息の下で、こちらに向けられる眼差しは苦渋に満ちていて、だから、彼女は本当に今度こそ深く後悔した。


 あの時、出会わなければよかったのに。

 あるいは、その手を振り払っておけばよかったのに。


「ふざけるな。過去は変えられぬとそう言ったのはそなただろう」

 どうしてか、彼女の内心を的確に読み取って、低く怒りの滲んだ声でそう言う。

「それしか方法がないと、それがそなたにとってもあの娘にとっても最適だとそう言ったから、私は行くことを認めたのだ。だが、その結果がこれだ」


 その、普段は静かな湖面のような瞳に苛烈な怒りが浮かんでいるのを見て、彼女は彼が、自分たちの娘に何が起きたのかを知ってしまったのだと悟った。

 怒るのも当然だと、そう答えようとしたのに声が出ない。どんなに責められても仕方がないと、受け入れようとずっとそう考えていたはずなのに。


「もう二度と、そなたのげんは信じぬ」


 信頼を裏切ったのだから、仕方がない。そう答えようとした矢先、耳元に低い、絞り出すような声が届いた。


「そなたの言うがままに離れてこんな事態を招くくらいなら、側にいて斬り殺される方が遥かにましだ」


 よく見れば、彼は左腕を吊っていた。残った片腕で剣を振り、ここまでたどり着いて、そして彼女を抱きしめている。あの不器用な少年が、いつのまにか壮年になり、彼女よりも遥かに背も高く力強くなってしまっていた。

「ごめんなさい」

 こぼれた言葉に、彼女を抱く片腕にさらに力が込められる。何よりも雄弁に彼の想いを伝えてくるその温度に、懐かしさが込み上げた。


「また、あなたの城で卵の焼き菓子エッグタルトが食べられるかしら」


 毎日毎日、菓子と花をもって部屋を訪れた彼に、彼女が遂に絆されたのが、その菓子を持ってやってきた春の日だった。

 さくさくとしたパイ生地と、たっぷりと詰め込まれた甘い卵と砂糖のクリーム。口に含むとほろほろと溶けて、どうやっても口の端についてしまうパイ生地を拭いながら、生真面目な顔で食べる彼に、ついには彼女も相合を崩さずにはいられなかった。 

 そんな彼女にほっとしたように彼も表情を緩め、それから、互いに顔を見合わせて笑ったのだった。


 別にその菓子に心動かされたわけではなかったけれど、彼はそう勘違いしているのを彼女は知っていた。ずっと、その誤解をあえて解こうとは思わなかったが、もしかしたら、もう彼は気づいているのかもしれない。

「……私はそなたの作る兎のスープが食べたい」

「狩ってきてくれるのなら」

「共に森で暮らすか?」

 唐突な言葉に、思わず目を丸くすると、彼はいつも通りの無表情のまま、あらぬ方を見つめて言葉を続ける。

「弟も成人し、領主としての資質も十分だ。領民にも好かれているし、私よりよほど良い侯爵になるだろう」

 彼には年の離れた弟がいるとは聞いていた。会ったことはないが、彼とは正反対に朗らかで、聡明で穏やかなその性格は誰からも愛されるだろうと、嫉妬するでもなく淡々と語っていたのを覚えている。

「重責を投げ出すつもりなの?」

「適材適所だ」

 どうやら譲る気はないらしい。弟の意向を確認したとも思えないが、彼ならやりかねないと思って彼女は一つため息を吐く。あまりにも多くの事柄が起こった昨今、そんな重要事項をここで決めてしまうわけにもいかないだろうから。


「城へ、お招きくださる? お礼は魔女のスープと、南瓜かぼちゃのパイで」


 にっこりと笑った彼女に、ようやく彼も表情を緩める。それから、ややして何かを迷うように視線をさまよわせてから、ゆっくりとその顔が近づいてきた。普段は無表情なくせに、意外と情熱的なのだと思い出す。


 そうして微笑みながら、彼女はそれを受け入れたのだった。

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