20. シンプルで美味しい朝ごはん
翌朝、イルヴァは暖かなものに包まれている感覚で目を覚ました。ぼんやりとしたまま、肌に触れる少し硬い感触はそれでも心地よくて、そのまま頬をすり寄せると、深いため息が降ってきた。大きな手が頭を撫でると同時に、頬にざらりとした感触が触れて、それから首筋に小さな痛みが走る。
それでようやくはっきりと目が覚めて目を向ければ、何かを探るような——もっと言えば、少し困ったような紫色の瞳がこちらを見つめていた。
「あ……えっと……」
とっさに状況が理解できずに、昨夜の記憶を探る。昨日はエマに連れられてフレデリクの城を訪れ、それから——。
イルヴァの母親だと名乗る不可思議に透けた姿の相手に出会ったのだ、と思い出す。だが、それとは別に、もっと大切なことがあった気がして、ふとテーブルの上の翠色の石に目が惹きつけられた。とろりとした、雫のようなその石に触れたときに感じた、何かが
「……ノア」
「何だ?」
「お、おはよう」
「それだけか?」
「そ、それだけって?」
「寝起きにもう少し情熱的な挨拶をしてもらってもいいんだぞ?」
からかうような声はそれでも優しくて、紫の瞳はやはりいつになく少し何かに戸惑うように揺れている。それが、昨日のことをイルヴァ自身が覚えているのかどうか定かでない不安からくるのか、それとももっと他の理由があるのかはよくわからなかったけれど、曖昧にしたままでいることは、少し不誠実であるような気がした。
だから、その無精髭の伸びた頬に手を伸ばし、軽く唇を重ねる。それは、初めてではなかったけれど、想いを告げた後では何だか凄まじく恥ずかしい。
ノアは少し目を丸くして、何かに安堵したかのようにひどく優しく笑った。それから、同じように触れるだけの口づけを返して身を起こす。何となく拍子抜けして、その服の裾を掴むと、少し驚いたように振り向いた。
「どうした?」
「え……? どうもしない、けど……」
昨日までのあの熱を浮かべた様子はどこへいったのか。あまりに落差のある態度に逆に戸惑って言葉を見つけられないイルヴァに、ノアは、ああと何かを合点したかのようにニヤリと笑う。
「襲っちまった方が良かったか?」
言う様子はいつもと変わらないのに、紫の瞳に浮かぶ光だけが深い。見惚れながらも、その違和感に首を傾げると、ノアは苦笑を浮かべた。
「……まあ、ゆっくり、な?」
「ノア、なんか変」
思わずこぼれた言葉には答えず、寝台の脇に立ったまま、ノアは腕を伸ばしてイルヴァを引き寄せる。抱きしめてくれるその温かさも力強さもいつもと変わらないのに、不思議と想いが伝わってくる。
何よりも、イルヴァのことが大切だ、と。
それから、テーブルの上にあった翠の石の首飾りをイルヴァの首にかけた。とろりとした、流れる雫がそのまま固まったような石は、ひんやりと冷たく滑らかで、触れていると落ち着く気がした。ノアはイルヴァの顔を覗き込んで、それから髪に口づけた。
「何かあれば俺に言ってくれ。どんなことがあっても俺はそばにいるし、お前を守る」
いつになく真剣なその眼差しで、何となく気づいてしまった。ノアは、きっとイルヴァの知らない何かを知ったのだろう。それは彼女を傷つけるかもしれない秘密か何かで、だから、それから守ろうとしてくれている。ずっと、初めて会った時から、何の見返りも求めずにそうしてくれていたように。
「どうして?」
足りない言葉は、いつも通りきちんと受け止められたようで、笑う気配が伝わって、抱きしめる腕に力がこもる。
「一目惚れだ。仕方ねえだろ」
——それはまるで運命のように。
「仕方ないの?」
「仕方ねえんだよ」
繰り返される言葉遊びのようなその答えの真意は、触れる温もりで十分に伝わってくる。
「そっか」
いくら何でも甘えすぎのような気がしたけれど、本人がそれで良いと言ってくれるのなら、それでいいかと、今のイルヴァには素直にそう思えてしまったのだった。
そうこうしているうちに、何となく慌ただしい感じのエマに朝食に呼ばれた。身支度を整えて、昨夜も案内された食堂へと向かうと、いつもより二割増しくらい不機嫌そうな顔のフレデリクと、見知らぬ男が席についていた。明るい色のきっちりとした服の襟元には金糸が縫い込まれ、明らかに身分の高そうな相手だった。
フレデリクだけならまだしも、気位の高い貴族との朝食は御免被りたい。イルヴァが口を開く前に、ノアが実に面倒そうな声で告げる。
「……お偉いさんの朝食会なら、俺たちは遠慮しておくが」
「いいから座れ」
苦虫を噛み潰したような声に、ノアがさらに苛立った気配を見せる。そこへ、例の如くにこやかな笑みを浮かべたエマが、険悪な雰囲気をものともせずに割って入ってきた。
「あらあら、そんな顔をなさらないで。こちらのお客様はお二人に会いにいらしてくださったのですよ。この朝食もごく私的なもの。どうぞ肩の力を抜いて、気楽になさってくださいな」
言いながら、イルヴァの背を押して、客人の向かいの席に座らせる。渋々といった様子でノアもその隣に座った。
すぐに卵焼きやこんがりと焼かれた
「こちらは刻んだ
香草茶をカップに注ぎながらにっこりと微笑むエマに逆らう術もなく、パンにそのクリーム状のものを塗って口に入れると、こってりとした牛酪に様々な風味の乾燥果実がよく合っていて、しかもパン自体もなかなか美味しい。
「これ美味しいね。牛酪と果物だけ?」
「香り付けに酒と何かの
「うん、ありがとう」
思わず笑みを浮かべたイルヴァに、エマが少し不思議そうに首をかしげた。
「どうかした?」
「いえ……、なんだかイルヴァさま……いえ、なんでもございません」
「ずいぶん和やかだな。危急の事態だと言うからこうして駆けつけてきたのだが」
皮肉げな声に目を向けると、言葉の割にはどこか楽しげな表情にぶつかった。ノアと違って整えられた黒髪に、夜空のような深い紺色の瞳。年の頃は、ノアより少し若いくらいだろうか。きりりとした眉が印象的な、まあ美男といって差し支え無さそうな青年だった。
「……トールヴァルド殿下、お忙しいところ、ご足労いただき——」
「冗談だ。人嫌いな上に、王を格別嫌っているそなたが我らに使いを出すくらいだ。余程のことだろう」
「……嫌っているなど」
「ああ、興味がない、の方が正しかったか?」
楽しげな声に、フレデリクがますます渋面を深くする。言っている青年の方は悪びれた風もないから、もしかしたら親しい関係なのかもしれない。
誰なのか問いただすべきなのかもしれないが、正直面倒事の予感しかしない今、積極的に口を開く気にはなれなかったから、イルヴァは構わず朝ごはんに集中する。昨夜は珍しい料理が多かったが、落ち着かなくてあまり食欲がわかなかった分、今朝のシンプルな
ノアが昨夜よりも比較的落ち着いた雰囲気なのも影響しているのかもしれない。手を止めて見上げると、ニッと笑ってから、その顔が近づいてきたので、持っていたパンをその口に押しつける。
「何だよ」
「何だよじゃないよ!」
既視感のある会話に、ふき出すのが聞こえて目を向ければ、青年がくつくつと楽しげに笑っていた。
「侯爵の御息女にしては、表情が豊かで面白いな」
「殿下……なぜ」
「どう見てもそっくりではないか」
「ええ⁈」
あの顰めっ面とそっくりと言われるのは何だか納得がいかなかったので思わず声を上げると、殿下と呼ばれた男がニヤリと笑う。育ちの良さそうな身なりの割には、どこか癖のある笑みだった。
「その瞳と傍若無人な様子、どこからどう見ても親子だろう」
やはりなんだかとても失礼なことを言われているような気がする。イルヴァがさらに眉根を寄せると、優雅に立ち上がって隣に立つ。
「私はトールヴァルド。レイルヴェルク王の弟だ」
「……弟?」
貴族どころか王族だった。さすがに目を丸くしたイルヴァに、トールヴァルドが手を伸ばしその顎をすくい上げる。ノアの気配が尖ったのを感じてすぐにその手を、一応無礼にならない程度にそっと引き剥がした。青年は肩をすくめたが、そのまま言葉を続ける。
「王ご自身が直に話を聞きたいとおっしゃっていたが、それよりは私が話を聞く方が早かろう」
「どういうこと……?」
「森の魔女とレイルヴェルクの王族の関係は長い。それこそ大戦の前からな。彼らが森に住み続けることを見逃す代わりに、適度に彼らも我らに助力する。といっても薬や危急の際の治癒や、それからもう一つ——」
そこまで言って、だが青年は口をつぐむ。イルヴァたちには話せない秘密でもあるのだろう。いずれにしても、とトールヴァルドは続ける。
「彼らの存在は我らにとっても利益がある。もし彼らが脅かされるのなら、我らはかつての助力と未来の良き関係のために、助力を惜しまぬつもりだ。……して、そなたの望みは何だ?」
「……はい?」
「呼び出しを受ければ、万難を排して駆けつけ、その望みを叶える。一度だけだが、それが魔女と我らの古き契約。その契約を盾に召喚したのだ、望みは何だ?」
「殿下、その者は魔女ではありません」
ごほん、と一つ咳払いをしてから低く告げたフレデリクに、殿下と呼ばれた青年は驚いたように目を見開いた。まじまじとイルヴァを見つめる。
「淡い金の髪に、翠の雫石を持つ者が魔女でないと? てっきり
割と率直に失礼な言葉に、だがフレデリクは動じた様子がない。言われ慣れているのかもしれない。
「違います。その者は確かに私の娘であり、森の魔女の血縁でもありますが、あれが言うには、この娘は魔女の力は受け継いでおらぬと。どちらかといえば、連綿と続いたこの地の古い血を継ぐ故に、むしろ魔女とは相容れぬ、と」
静かにそう答えたフレデリクに、青年は無意識にか腕を組んで顎を撫でながら、興味深そうにイルヴァを見つめる。珍しい生き物を値踏みするようなその視線に居心地が悪くなってノアを見上げると、肩をすくめて抱き寄せられた。
そんな二人には構わず、フレデリクは話を続ける。
「
「本人が召喚できない状況だと……? その状況で、では侯爵は私たちに何を望むのだ?」
心底不思議そうにその瞳に疑問を浮かべた青年に、フレデリクはもう見慣れた不機嫌な顔と声で、静かに答える。
「黒衣の者たちの、殲滅です」
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