19. レンゲの花の蜂蜜
ただただ呆然とするイルヴァの肩を抱き寄せようと手を伸ばした時、ばたばたと騒々しい足音が聞こえ、殴りつけるような勢いで扉が開いた。
「あやつは⁉︎」
低いながらも明らかに動揺の見えるその表情に、あの魔女が言っていた言葉を思い出す。不器用なだけだ、と。
「もう消えちまったよ」
「まったく、身勝手な……!」
言いながらもフレデリクの体がぐらりと
確かによく似ている、とノアは思わず笑みを浮かべた。不器用で、けれどまっすぐで。
彼も立ち上がり、フレデリクの腕を掴んで支えると、近くの椅子に座らせる。左腕を吊っているだけでなく、どうやら脚も負傷しているようだった。
「あれは、何と?」
今ばかりはひどく真剣に見据えてくる眼差しを受け止めて、イルヴァがゆっくりとアウローラが語ったことを繰り返す。はじめは微かに眉根を寄せているだけだったが、王を訪ねよと言ったその話のあたりで、ぎゅっと目を閉じて、拳を握りしめた。
「あの……愚か者め」
その顔は蒼ざめて、吐き捨てるように言ったその声は、だが力なかった。イルヴァが気遣わしげにその顔を覗き込む。なんとなくいつもと違う雰囲気を感じてノアは首を傾げた。それに気づいたのか、イルヴァがノアの方を見上げてくる。
「どうかした?」
「いや……」
違和感の正体がわからず、頬に触れるとくすぐったそうに少し頬を緩める。そうしてその理由に気づいた。いつもより、表情が豊かで感情が見える気がするのだ。
「ノア?」
首を傾げる様子はいつも通りだが、眼差しが柔らかく、ほんのわずかだが口元に浮かぶ笑みも深い。想いを伝えたことで、伝わる感情がより率直になったのかとも思ったが、何かが違うような気もした。もっと、根本的に——まるで、彼女の感情を押し込めていた、封じられていた何かが解かれたような。
「あれは、いつそれを実行するか、言っていたか?」
物思いに耽りかけていたところで聞こえた低い声に目を向ければ、フレデリクが何か決意を秘めた顔でこちらを見つめていた。
「いや……特には言っていなかったな」
「ならば、急がねばなるまいな」
「どうするの?」
「王へ、
「王に?」
聞き返すと、フレデリクは重々しく頷いた。
「あれは、かつて王家に貸しがあると言っていた。どのようなものだかは知らぬ。だが危機に陥ったら王に助力を乞えというのであれば、今、求めても構わぬだろう」
そう言って踵を返す。その背中に、イルヴァが小さく声をかけた。
「ねえ」
不安げなその声に、フレデリクが足を止めて振り返る。
「あの人を、救える……?」
「そのために、使いを出すと言っている」
声は相変わらず冷ややかなままだったが、即座に返されたその答えで、彼の想いは伝わってきた。
「うん……お願い」
「ああ」
そう言って、フレデリクは今度こそ部屋を後にした。
それから、じっと待ち続け、夕食の席にはフレデリクも同席したが、話は弾まなかった。珍しい料理や菓子にも、何やら落ち着かない心を抱えたままでは、イルヴァも味がわからないような顔をしていた。
そのまま夜が更け、案内された部屋で横になっているうちにイルヴァは眠ってしまったらしい。燻る熱を抱えたままのこの状態では同じ寝台で横になる気にはなれず、エマが気を利かせて持ってきてくれた葡萄酒を飲みながら、ぼんやりとテーブルの上にのった翠色の雫のような石を眺める。
ふと、ふわり、とその石が淡く輝き始めた。不審に思いながらも、その石になんとなく惹かれるように、そっと手を伸ばす。
その瞬間、荒々しい声と、怯えた感情と、目を背けたくなるような光景が脳裏に流れ込んできた。
炎に包まれる村。剣で斬りつけられ、倒れる人々。
襲いかかる男たちに、どれほど声を上げて叫んでも、誰も助けてはくれない。ついには声を上げることさえできなくなって、涙さえも枯れ果てて——。
その光景に耐えきれず石から手を引くと、全てが幻だったかのように辺りはただ静まり返っていた。それでも、今見た光景に身の内に湧き上がる怒りで握りしめた拳が震えた。唇が切れるほどに噛み締めていると、不意に小さく風が吹いてノアの髪を揺らす。
振り返ると、そこにアウローラが立っていた。
『
「あんた……あれは……」
『あなたが触れたその石は鍵。封じたあの子の記憶と感情を解くための』
静かだが、その声は何かを深く悔いるような響きを宿していて、その表情も険しく翳っている。
やはり、とノアは我知らず口元を押さえた。あれは、イルヴァの記憶なのだ。
だが、そんなはずはない、と否定する。彼女を連れてアクセルの家に転がり込んだ時、あの男がイルヴァを着替えさせ、確認している。目立った怪我も傷も見当たらなかった、と。彼がそんな嘘を吐く必要があるとは思えなかった。
ノアの視線を受けて、アウローラは静かに首を横に振った。
『体の傷は癒せるの。けれど、心の傷は私の力では癒せない』
「だから、封じたのか」
イルヴァは初めて会った時、まるで人形のように反応を示さなかった。彼の瞳に魅入られるように、じっと見つめて、それから少しずつ感情を見せるようになっていったのだ。
『そう、封印はあなたの瞳の力で少しずつ
先ほどイルヴァに感じた違和感はそれだったのか、と合点する。封じていた感情がこの石に触れたことで解かれ、彼女は涙を流した。いつもより、少しよく笑うようになった。
「記憶は……?」
『封じたままよ。忘れられるなら、忘れてしまった方がいいと思うから』
当然だ。頷いた彼に、アウローラはふわりと微笑む。
『あなたは純潔を求めないのね』
「お貴族様じゃあるまいし、馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように言った彼に、今度こそアウローラは安堵したように笑った。
『あなたが、あの子を救ってくれて本当によかった』
「それを伝えに来たのか?」
『そうね。それに、あの人が王に使いを出してしまったから、少し待とうかと思って』
アウローラはノアの前の席に腰掛けながらそう言った。その体はやはり透けて実体がないように見えるのに、椅子に座れるのだろうか。首を傾げた彼に、彼女はくすりと笑う。
『半々といったところね。触れることはできるけれど、抱きしめることはできない。それくらいの感じ』
「……よくわかんねえな。それにしても、なんであんたはあいつを手放したんだ? 身を隠すだけならあんたが育てたってよかったはずだ」
『あの子は触媒体質だから、そばにいるとかえって危険なの』
「触媒?」
『言ったでしょう。本人の魔力がそれほど大きくなくても、他者のそれを増幅することができる者がいるの。あの子はそれが桁外れ。あなたもここで体験したはずよ?』
確かに彼には心当たりがあった。この城を初めて訪れた時、怒りに任せてフレデリクに瞳の力を向けた。そんなことができるとは自分でも思ってさえもいなかった、相手を操り、自死させるほどに強烈な、その力。
「あれがイルの力?」
『そう。あの子とあなたが本気を出せば、この城どころか兵士たち丸ごと眩惑することもできるかもしれない』
「なら、その力で黒衣の連中も」
『彼らは数が多いし、その手の戦いに慣れている。あなた一人で立ち向かうのは危険すぎる』
「なら、あんたが……」
『私の魔力は尽きかけているの。それに、あの子の影響を受けてしまったら制御できるかわからない。あの時も——』
そう言って、赤い唇を噛み締める。
『あの子の悲鳴を聞いて駆けつけた時にはもう手遅れだった。傷を癒して、なんとかあの子を逃したけれど、私はうまく制御できなかった。あの人に助けを求めて、それから私は森の中で深い眠りについてしまった』
「その後、フレデリクがあいつを助けに来たところに、俺が行き合った?」
『まるで運命が導いたみたいにね』
「どういう意味だ?」
さあ、とアウローラは笑って、それ以上は語ろうとしなかった。ただ、小さな透き通る瓶を取り出して、テーブルに置く。淡い琥珀色に輝くそれを手に取ると、中身がとろりと揺れるのが見えた。
『あの子がもし、あの記憶に怯えることがあればこれを。きっとその
「これは……?」
『ある花の蜜からとれた蜂蜜。その花言葉は、”あなたと一緒なら苦痛が和らぐ”って言うのですって』
その笑みはとても透明で綺麗で、イルヴァのそれによく似ていた。背後で、彼女が動く気配がして、アウローラは立ち上がる。
「あんたはどうするんだ?」
『王が動いてくれるのなら、あるいは、また会えるかもしれないわね』
「早まるなよ。イルもあの男もずいぶんあんたを気にかけているみたいだった」
彼の言葉に、アウローラはやはり少しだけ困ったように笑って、善処するわ、と艶やかに笑うと、まるで初めからそこには何もなかったかのように忽然と姿を消した。残ったのは、テーブルの上に置かれた、燭台の光を反射するだけのとろりとした翠の石と、ノアの手の中にある小瓶だけだった。
寝台に歩み寄ると、薄青い瞳が開いてこちらを見上げていた。端に腰掛けて、その頬に触れる。怯える様子はなく、むしろ擦り寄るように頬を寄せてくる。そんな仕草が愛しくて、けれど、先ほど見た光景が脳裏をよぎって指先が震えた。
「ノア、どうかしたの?」
「……いや」
ゆっくりと顔を近づけると、淡い金の睫毛が震えて、ややしてその瞳が閉じられる。その手を握って、唇を重ねる。昼間はあれほどに性急に欲していたのに、今はただ、大切に守りたいとそんな想いばかりが強かった。
触れるだけの口づけを終えると、冬の湖面のような瞳が不思議そうにこちらを見つめる。そのどこにも怯えも不安もないことを見てとって、ノアはその横に滑り込んで抱き寄せた。びくり、とわずかに震えたその背を軽く叩いて、安心させるように額に口づける。
「何もしねえよ。ただ、今夜はこうさせてくれ」
明日はまたきっと厄介事がやってくるだろうから。そう囁いた彼に、イルヴァがほんの少し、以前よりも明るく笑う。その頭を胸に引き寄せると、少し戸惑った様子ながらも、素直に収まっている。
しばらくすると、その瞳が猫のように細くなり、やがて閉じられた。すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきて、安堵する自分に少し呆れながら、彼も一つ欠伸をして、目を閉じた。
夢は、見なかった。ただ、触れる温もりがひどく心地よかった。
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