18. アーモンドのドラジェ
おずおずと背中に回された腕と、胸に押し付けられた淡い金色の頭に、ノアは思わずため息を漏らした。率直な行為には戸惑うくせに、こうして触れてくるその意味を、彼女はわかっているのだろうか。そう思いながらその顔を覗き込めば、真っ赤になっていた。
一応理解はしているのだな、と半ば呆れながらも抱きしめ返してやれば、ほう、と小さく息を吐く。先ほどまで冬の湖のような瞳から溢れるように流れていた涙は止まったようだが、その目はまだ潤んでいて、正直に言えば、いつになく艶めいて見えた。じわりと湧く熱を自覚しながら、どうしたものかと考える。
「ノア」
「何だ?」
「ノアは……その」
ちらりと視線を上げたかと思えば、また彼の胸に顔を押し当てて、何やらもごもごと言い淀んでいる様子はひどく子供じみていて、思わず頬が緩むほどに可愛い。だが、何を言わんとしているかは明らかで、そういえば、彼自身もきちんと言葉にしていなかったことに気づいた。
アクセルあたりから言わせれば、何を今さら、と鼻で笑うに決まっているだろうけれど。
「イルヴァ」
耳元でその名を呼べば、びくりと肩が震える。そのまま勢いに任せて言ってしまうかとも考えたが、胸に押しつけられたままの頭を見て、ふっと笑うとノアはその頬に手を伸ばして仰向かせた。
まだわずかに濡れたままの薄青い瞳が少し揺れて、けれどノアの紫の瞳を捉えると、いつものように見惚れて息を詰める。
「お前が好きだ」
冬の湖面のような瞳が、今まで見たことがないくらいめいっぱいに見開かれ、その唇が何かを言おうとして、けれど声にはならず閉じられる。じっと見つめ返していると、その頬がみるみる赤く染まって顔を伏せようとするので、両手で頬を包んで引き寄せた。そのまま口づけたい衝動と、緩みそうになる頬をぎりぎりで抑えて低く問いかける。
「お前は?」
ここではっきりさせておかないと、なかなか前に進めない気がしたので、じっと待つ。イルヴァは案の定真っ赤になったが、彼の紫の瞳を捉えると逆に落ち着いてきたのか、その柔らかく白い手が頬を包む彼の手に触れてくる。いつもより冷たいのは緊張しているせいだろうか。そういえば、ここにくる前もほぼ同じ状況だったなと何となく嫌な予感がよぎったが、考えないことにした。
一瞬、そんな風に気が逸れたが、イルヴァは気づかなかったらしい。ゆっくりと、口を開く。
「……私も、好きだよ」
まっすぐに彼を見つめたままそう言って、恥ずかしいのか少し眉をしかた。それでもすぐに、困ったように笑った顔があまりに可愛く見えて、今度こそ箍が外れて強く抱きしめながら唇を重ねた。性急なそれに驚いて反射的にか離れようと身じろぎした体を逃すまいと引き寄せて、寝台の上に押し倒す。
「ノア……待っ」
「さすがに、もう待てねえよ」
宣言するかのようにそう言ってやれば、戸惑いを浮かべていた顔が、もう一度真っ赤に染まって、視線を逸らされた。構わず先ほどと同じように指を絡めて、顔を近づける。
「イルヴァ」
あまりに熱のこもった声に自分でも呆れたが、とにかくも、もう一度口づけようとしたとき、不意にイルヴァが何かに驚いたように目を見開いた。視線の先はノアの肩先に向けられている。
「イル?」
怪訝そうにそう尋ねた彼に、イルヴァは空いた方の手で、彼の後ろを指さす。
「……あれ、見える?」
振り返ったノアの目にまず入ったのは、鮮やかな緑だった。それからふわふわと宙に漂う淡い金色。そこには、少し靄がかかったように朧げな、人影があった。
『あら、続けて? せっかく想いが通じたのでしょう。邪魔する気はないわ』
「なら……出てってもらえるか?」
不思議な響きの声と、薄く透き通るようなその姿が普通の人間ではないことは明らかだったが、何しろ状況が状況だ。たとえ相手が精霊だろうが魔物だろうが、もう邪魔されるのは心底ごめんだ、というのがノアの本音だった。
そんなノアの内心を悟ったのか、相手は申し訳なさそうに首を振る。
『ごめんなさい。そうしてあげたいのはやまやまだけど、今ここを離れたら、もう戻ってくるのが難しそうなの。後ろを向いているからどうぞ先に済ませてしまって?』
「……だとよ?」
彼は、半ば自棄気味に——ついでにほんのわずかな期待を込めて——イルヴァに視線を戻して、そしてがっくりと肩を落とした。
呆然とその闖入者を見つめるイルヴァの表情には、当然の如く、もはや先程までの熱っぽさはどこにも残っていなかったのだった。
身を起こし、寝台の端に腰掛けて、苛立ちを何とか誤魔化すようにがしがしと頭をかく。それから改めて少し離れたところに、立つ——というよりは、わずかに宙に浮いているその姿をまじまじと見つめた。
こちらをじっと見つめる緑の瞳は楽しげに細められ、赤く瑞々しい色の唇も笑みの形を刻んでいる。淡い金の髪も、顔の造作や全体の雰囲気もイルヴァによく似ていて、だが、その瞳と表情をよく見れば、全く似ていないようにも見える。率直に言えば、もっとどこか妖艶で、人間離れしているように思えた。
「あんた、イルの母親か?」
『ええ。大きくなったわね。こんなに素敵な恋人もできて……嬉しいわ』
赤い唇に艶やかに笑みを浮かべながら、口調だけはのんびりとそんなことを言う。隣に座ったイルヴァの肩がびくりと震えたので、その肩を抱いて顔を覗き込むと、何とも複雑な表情をしていた。再会を喜ぶべきなのか、それとも、詳細も告げずに赤子だった彼女を手放したことを詰るべきなのか——そんな色々な感情がない混ぜになったような。
「あなたはその……幽鬼……みたいなものなの?」
『いいえ、違うわ。確かに今ここに実体はないけれど、体はちゃんと生きている。もうそう長くは保たないけれどね』
さらりと告げられた不穏な言葉に、イルヴァが救いを求めるようにノアを見上げる。迷子のように戸惑いを浮かべるその顔が、そんな状況ではないとわかっていてさえも、愛しさが込み上げてきて思わず抱きしめる。
『仲が良いわね。邪魔をして、本当にごめんなさい。あと少しだけ話をさせてね』
そう言いながらその人影は近づいてくると、どこからともなく小さな袋を取り出して、そっとイルヴァの手に握らせた。エマが手渡したものとよく似たその袋に、怪訝そうな顔になった彼女に、開けるように仕草だけで促す。イルヴァは眉をしかめながらも、口紐を解くと、中には白く小さな細長い丸いものが入っていた。
『少し話が長くなるかもしれないから、よかったら食べてね』
にっこりと微笑んだ相手に、イルヴァはさらに困惑を深めたようだったので、その袋を取り上げると、一つ中身を取り出して手に取る。表面を舐めてみると甘い。口に入れると、硬い感触があって、噛み砕くと表面の甘さに混じって香ばしい風味が広がった。どうやら
イルヴァが興味深そうにこちらを見つめているので、苦笑しながらその口に放り込んでやると、その甘さに少し表情が和らぐ。細められた薄青い瞳が柔らかい光を浮かべ、ゆっくりと噛み砕いて飲み込んだあと、もう一つ欲しそうな顔でこちらを見た。堪えきれずにふき出して、軽く触れるだけの口づけを落とす。
「本当にお前は、甘いものが好きだな」
「べ、別にそういうんじゃ……」
少し拗ねたような表情に、ますますノアが笑み崩れていると、くすくすと笑う声が聞こえた。
『甘いものが好きなのは、あの人と同じね』
「あの人って、フレデリク?」
「ええ」
あの顔で甘いもの好きとは、と思わず目を丸くした彼とイルヴァに、イルヴァの母親はほんの少しだけ、質の違う笑みを浮かべる。どこか困ったような、それでもひどく愛しげに目を細めて。
『困った人だけれど、悪気はないの。許してあげてね。不器用なのは昔からだから』
「何があって、今どうなってるんだ? あいつが襲われた時にあんたが助けたって……一体あんた何者なんだ?」
『私はアウローラ。イルヴァの母親で、ええと、古い言葉で言えば、魔女、かしら』
「魔女?」
そう、と
『ずっと昔からこの辺りの森に住み、人とも程よい距離で関わってきたの』
「でも、大戦の後、魔法を使える者は別の世界に行ったんじゃなかったの?」
『ほとんどがね。けれど、住み慣れた土地を愛し、かつ彼らの目を眩ませる程度の
まあ、孤独に耐えられる、どちらかと言えば偏屈なものたちばかりだけれどね、と肩をすくめて笑う。
「彼ら?」
『盟約を作った人々と、その番人となったモノたちね。もう全てが滅んだようだから、今となっては意味のない話だけれど』
「……全然話がみえないんだけど」
眉根を寄せ、明らかに機嫌が下降し始めたイルヴァの口に、もう一つ砂糖に包まれたその一粒を放り込んでやる。ちらりとこちらに向けられた視線は子供扱いするな、というように険しかったけれど、それでもその眉根が開かれる。
その髪に口づけて、自分もその菓子を口に含んでからアウローラに向き直る。
「手短にしてもらえるか?」
『ああ、ごめんなさい。昔のことはいいの。大切なのは今の話』
そう言って、もう一度アウローラはにこりと微笑む。
『私の命はもう少しで尽きてしまうから、その前にあの連中に止めを刺すつもりでいるの。でも万が一失敗したら、この国の王に助力を求めなさい』
あまりに突拍子もない話に、二人とも目を丸くする。けれど、アウローラはノアに視線を向け、平然と先を続けた。
『今は私が言うなりになっているから大人しくしているけれど、私の命が尽きればまた代わりを探そうとするはず。あの連中、強欲で、数だけは多いから、あなたでは守りきれない』
「連中ってのは、黒衣の何とかって奴らのことか?」
『ええ。魔女狩りの目的は、その力を手に入れるため。盟約の不履行に対する対抗措置、というのはあくまで言い訳に過ぎないの』
かつて、大戦で世界が分たれた後、人間の住む世界から、魔力はほとんど失われた。故に各国の戦力は比較的拮抗していたが、このレイルヴェルク王国だけは圧倒的な武力で他国を圧倒した。
それに対抗すべく、暗躍していたのが黒衣の者たちなのだという。彼らは魔力を持つものたちを狩り、その魔力を以て武器を鍛え、戦に駆り出そうとした。逆らうものたちは村ごと滅ぼした。ノアの村も、イルヴァの村もその一つだったのだという。
『あなたのその瞳も、かつて魔力を強く宿していたものたちの名残。一人ではさしたる力を持たないけれど、それをうまく引き出す力を持った者たちと組み合わせれば、兵器になる』
「俺のこの眼が?」
『ええ。あなたが住んでいた村では、あなたのその瞳の力はもっと強く顕現していたはず。それは、触媒となるような存在があったから』
だとしたら、彼の村が滅ぼされたのは、彼のせいなのだろうか。愕然としたノアに、だがアウローラは首を横に振る。
『あなた一人が標的だったとは思えない。この国の周辺には人間とそうでないものが多く住んでいたの。混じり合った血は、本人たちも気づかないほどに微かに、けれど多くの隠された力を宿していたはず』
「俺以外にも、なんらかの力を持った奴らがいた?」
『ええ。そうでなければ、あなたはもっと村から排除されていたはず』
人間というものは、異質な者を強く排斥する傾向にあるものだから、と皮肉げに笑ったその表情は冷ややかで、どこか恐ろしい。
彼の表情に気づいたのか、アウローラはすぐに表情を改めてにこりと微笑んだ。
『自分たちの役に立ちそうな魔力を持つ者たちを狩り、残りは焼き尽くす。正気の沙汰とは思えないけれど、彼らはつける薬がないほどに愚かだから』
「なんでそんな奴らがのさばっているんだ?」
『愚かな者ほど、時に強いの。守るべきものがなければなおさらにね』
まあとりあえずは、こんなところかしらね、と言いながら、魔女と名乗ったその人はさらりと髪をかき上げて立ち上がる。
『じゃあ、これでお別れね。ノア、この子をよろしくね』
「勝手なことばっかり言わないで!」
声を上げたイルヴァに、アウローラは目を丸くしたが、透けるその手でそっと彼女の頬に触れて優しく微笑むと、その額に口づけた。
『あの時、守ってあげられなくてごめんなさい』
それだけ言って、ふっとその姿がその場からかき消えた。
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