17. デーツのドライフルーツ

 エマが乗りつけた馬車に運ばれて、フレデリクの城に近づく頃には日が高く昇っていた。珍しく剣を帯びたノアは、不機嫌な様子を隠そうともしていない。腕を組んで、じっとエマを睨みつけるように見つめるその瞳に、あの力が影響を及ぼさないのだろうかとイルヴァは気を揉んだが、特に変化は見られなかった。


「間もなく着きますので、もう少しだけ辛抱なさってくださいね」

「どうして俺たちがついてこなきゃならないんだ?」

「ご足労いただき申し訳ございませんね。ああ、イルヴァさま、お腹が空いてはいらっしゃいませんか?」


 ノアの低く恐ろしげな声にも動じた様子もなく、そう言って、エマは提げていた鞄から手のひらに収まるくらいの袋を取り出してイルヴァに差し出した。首をかしげながら口紐を解くと、親指ほどの大きさの、丸みを帯びた黒っぽい塊がいくつも入っている。取り出してみると、どうやら何かの実を乾燥させたものらしい。

棗椰子デーツを干したものです。そのままお召し上がりいただけますよ」

「へぇ」

 言われるがままに端を少し齧ってみると、乾いた外側の感触の後に、ねっとりとした果肉の強い甘味が口の中に広がった。砂糖よりは少しやわらかい、それでもしっかりとしたその甘さは、緊張していた心をも和らげてくれるようだった。

 残りを口に放り込んで噛み締めながら、思わず微笑んだイルヴァに、ノアがやれやれとため息を吐くのが聞こえた。我ながら単純だとは思いつつ、その果実の甘さを味わいながら、イルヴァはエマに尋ねる。


「ねえ、何でノアの家がわかったの?」

「旦那さまから伺いました」

「なんでわざわざエマが?」

「他の者を差し向けたとして、同行してくださいましたか?」


 ごく当然の帰結だとでも言いたげなエマに、イルヴァは言葉を詰まらせた。確かに、フレデリクの使いがやってきたとして、素直に同行するどころか追い返すのが関の山だ。

 ノアに視線を向ければ、苦虫を噛み潰したような顔をしている。そもそも同行に反対していたのだから、やむを得ないのかもしれない。眉をひそめたイルヴァに気づいたのか、少しだけ表情を和らげた。

「別に、お前に怒ってるわけじゃねえよ」

「わかってる、けど」

 俯いて両手の指を組み合わせてぎゅっと握った彼女の手に、大きな手がそっと載せられる。やわらかく髪に触れる感触に目を上げれば、先ほどとは打って変わって甘やかすような光を浮かべた紫の瞳がこちらを見下ろしていた。


「何かあっても、俺が守ってやるから心配するな」


 まっすぐな言葉に心臓が不規則な鼓動を打つ。肩を抱き寄せ、あらあらと呟くエマの声などものともせずに、平然と近づいてくるその顔に手のひらを当ててなんとか押しのけると、不満そうに鼻を鳴らした。

「何だよ」

「何だよじゃないだろ!」

「別にいいじゃねえか、減るもんじゃなし」

「そういう問題じゃない!」

 くすくすと笑うエマの声に、ますます頬が熱くなるのを自覚して、視線を窓の外に逸らしたイルヴァは、ふとそこに何かがよぎったような気がして目を凝らした。

 何か淡く輝くものがふわりとたなびいたように見えたが、窓に顔を寄せて周囲を見回してみてもそれらしいものは何もなかった。

「どうかしたのか?」

「……何でもない」

 心のどこかに引っかかるが、それは不安というよりは、何かの予兆のように思えた。曖昧なそれを説明できる気がしなかったので、イルヴァはただ小さく首を横に振って、それからそっとノアの肩に頭を寄せた。ノアは少しだけ驚いたようにぴくりと肩を震わせたが、イルヴァの頭を宥めるように撫でて、もう一度髪に口づけた。



 城門を抜け、大扉の前に着いたところでエマに促されて馬車を下りる。入り口には衛兵らしき姿はあったものの、その数は多くない。エマに視線を向けると、イルヴァの疑問を読み取ったのか、小さく頷いた。

「半数は周囲への警戒に、残りは城内に居ります」

「そんなに物騒なの?」

「元々そう数は多くはございませんので……」

 ただ、とエマは続ける。

「いずれにしても、イルヴァさまに危険が及ぶようなことは、決してさせません。どうかそれだけはご安心を」

 真摯な瞳でそう言ったエマに、ノアはまだ何か言いたげに口の端を歪めたが、イルヴァが視線を向けるとただ肩をすくめるに留めた。ここまで来て、今さら尻込みしても仕方がないと気づいたのだろう。

「では、どうぞこちらへ」

 エマを先頭に、その後に続く。衛兵の一人がノアの顔を見てはっと息を呑んだが、エマが頷くと、それ以上動こうとはしなかった。イルヴァ自身はその顔に見覚えはなかったが、おそらくは前回この城を訪れたときにノアが打ち倒したか、眩惑して脅したか、あるいはその両方の被害者なのだろう。

 ノアは動じた様子もなくイルヴァの背を押してエマの後に続いて歩く。そうしてたどり着いた部屋には、ごく不機嫌そうな様子を隠そうともしないこの城の主人の姿があった。


 冷ややかな薄青い瞳は変わらないが、その頬には大きな布が貼られ、さらには左腕を吊っている。首から、少し開いた上衣の胸元まで包帯が巻かれているのも見え、命に別状はなさそうだが、明らかに深傷ふかでを負った様子だった。

「何をしに来た」

 凍てつく氷のような眼差しと、同じくらいの冷ややかな声に、イルヴァが口を開くより先にノアが前に出た。

「あんたが襲われて、それがイルに関わりがあるというから、わざわざ来てやったんだよ。なのに、その言い草は何だ」

 ノアが向ける眼差しは剣呑極まりなかったが、フレデリクはびくともせずにそれを受け止めている。

「……エマ、お前か」

「はい、旦那さま。もちろん私でございますよ」

 にっこりと、だがどこか鋭い響きを宿した声に、イルヴァだけでなく、フレデリクも目を見開いた。じっと不機嫌そうに彼女を見つめていたが、エマのにこやかな表情が揺らがないのを見てとると、どちらかといえばわざとらしくない、心底疲れているような、深いため息を吐いた。

「エマ、何を考えている?」

「旦那さまと同じです」

「……こんな計画はなかったぞ」

「けれど、いつまでも隠しておけるようなことではございますまい。イルヴァさまの身の安全を思うのであれば、何かが起きる前に事情をお伝えしておくべきかと」

 穏やかに、けれど毅然と言ったエマに、フレデリクはそれでもしばらく迷うようだったが、ややして何かを諦めたかのように首を一つ横に振って、それからまっすぐにイルヴァを見つめる。

「こちらへ」

 相変わらず不機嫌そのものの声と顔でそんなことを言う彼に、ノアが苛立ったような気配を見せる。その手にそっと触れて視線を合わせてから、フレデリクのそばに歩み寄る。

 彼は、じっとイルヴァを間近に見つめてから、無事な方の手で彼女の頬に触れた。

「ますます似てきたな」

「……用件は?」

 曖昧な言葉にそう切り返すと、フレデリクはだが、わずかに口元を緩め、懐から何かを取り出した。それは、細い金色の鎖の先に、鮮やかな翠色の石のついた小さな首飾りだった。


 とろりとした雫のような形の不思議なその石は、向こう側が透けて見えるほどに澄んでいるのに丸く滑らかで、石というよりはもっと別の何かに見えた。触れると冷んやりしている。だが、それに触れた瞬間、心の奥底で凝っていた何かが消え、代わりにふわりと風が吹いて、じんわりとした暖かさが広がる。

「イル?」

 彼女の様子に気づいたのか、ノアが近づいてきて、少し腰をかがめてイルヴァの顔を覗き込む。紫の瞳が驚いたように見開かれ、頬に暖かい手が触れる。

「どうした?」


 問われて、初めて彼女は自分が涙を流していることに気づいた。涙は後から後からこぼれ、頬を伝って流れ落ちていく。ごしごしと手の甲で目を擦ったけれど、どうしてだかその涙は止まってはくれなかった。

「わかん……ない」

 呟きながらも目を擦り続ける彼女の手をノアの大きな手が握り、抱き寄せた。その暖かさに安堵しているのに、それでも止まらない涙に戸惑っていると、先ほどよりは、少し人間味のある、こちらも戸惑いを浮かべたフレデリクの声が聞こえてきた。


「それは、お前の母親から預かったものだ。先日、私が黒衣の連中に襲われた時に現れて奴らを追い払った後、お前に渡すように、と」

「イルの母親が?」

 まだ声の出ないイルヴァの代わりにそう尋ねたノアと共にフレデリクの方に視線を向けると、にじむ視界の向こうに少し困ったような表情が見えた。

「あれは、お前を預けたあの村が焼かれた後、自ら黒衣の者たちの首領の下に赴いたのだと言っていた。それと引き換えに、お前に手を出さぬと約させたのだと。だが、詳細はわからぬままだ」

 ただ、とフレデリクは続ける。

「この城にはあれが残した、害をなすものを排除する結界がある。ここにいれば安全なのは間違いない。私が襲われたのも、他国からの帰国の途中だ」

「……結界ってのは何だ? 大体前回、俺は侵入できたんだが?」

 もっともな疑問をノアが尋ねると、フレデリクはまた心底不快そうに眉を顰め、首を横に振った。

「お前はイルヴァを救うためにここを訪れた。その時点で、敵ではないと認識されていたのだろう。結界については——」

 言いながら、イルヴァの方に視線を向けると、まだその涙が止まらないことに気づいたのか、一つため息を吐いた。

「エマが部屋を用意しているはずだ。一度そちらで休んでこい。食事も用意させるから、話はその時に」

「長居をするつもりは……」

「いずれにしても今はここの方が安全だ。その石についても、後ほど話す。まずはその娘を休ませてやってくれ」

 言いかけたノアの言葉を遮った声は、冷ややかだが確かな気遣いが込められているように感じられた。首をかしげながらもノアに頷いて見せると、彼も渋々というように頷いたのだった。



 エマに案内された部屋は綺麗に整えらており、ふわりといい香りがした。ノアはイルヴァの背を押して、寝台の端に腰掛けさせる。香りは枕元に置かれた香袋ポプリから漂ってきていた。

「大丈夫か?」

 こちらを覗き込む紫の瞳を見つめているうちに、ようやく心が凪いで、涙も止まった。ごしごしと袖で頬をこするイルヴァの手をとって、ノアが髪に口づける。それから目元に、頬、ややして首筋へと。痕をつけるでもなく、ただ優しく触れるその口づけにぼんやりしていると、ふと体を倒されて、寝台の天蓋が目に入った。イルヴァの右手にノアの左手の指が絡められ、間近に紫の瞳が迫って唇が重なる。

 ゆっくりと、何度も繰り返し口づけながら、膝を割って触れた腰に何やら硬い感触を感じ取って、イルヴァが思わず目を見開くと、熱を浮かべた瞳のまま、ノアが低く笑う。


「お前があんまり可愛い顔で泣くから、我慢できなくなっちまった」


 そう言って、もう一度唇が下りてくる。今度は角度を変えながら、何度も深く繰り返されるそれに呼吸と思考を奪われて眩暈がした。それでも、腰のあたりに触れる手に気づいて慌てて、ぎゅっとその手を握ると、含み笑うような声が耳元で響く。

「何で止めるんだ?」

「何でって……こんなところで……!」

「休ませろっていって一つの部屋に案内されたんだぞ? しかもこの寝台だ。あいつらも邪魔をしようとは思わないはずだ」

 確かに今いる寝台は二人で寝ても十分余裕のある大きなもので、だからきっとそういう意図もあるのだろうと理解せざるを得なかった。それでも戸惑う彼女に、仕方ないとでもいうように優しく軽く口づけて、ノアは身を起こした。

「あ……え……っと」

 言葉を探しあぐねたイルヴァに、ノアは小さな袋を手に取ると、黒い干した果実を取り出して口に含んだ。

「甘いな。牛酪バターと混ぜてパンに載せても合いそうだ」

 ぺろりと指を舐めながら言う、やたらに甘い眼差しに見惚れていると、もう一つその果実を自分の口に放り込んでから、顎をすくい上げられた。咀嚼されてやわらかくなったそれが口移しに流し込まれる。


 甘く長い口づけが終わって、ようやく目を開くと、熱を浮かべた紫の瞳がじっとイルヴァを見つめていた。


「そんな顔するくせに、お前、まだお預けとか、本当に……」

 呆れたような声に羞恥心が全力で戻ってきて、慌てて身を起こして寝台から降りようとすると、背中から抱きすくめられた。

「逃がすかよ」

 その腕は暖かくて、そして声が予想していたよりはるかに優しく穏やかなものだったから、イルヴァは動きを止めてその顔を見上げた。こちらを見下ろす眼差しは、声と同じくらい穏やかで、でもやっぱりひどく甘い。

「落ち着いたか?」

「……もしかして、私の気を紛らわせるために?」

「いや、もちろんあわよくば、のつもりだった」


 くつくつと笑う声はからかう響きを宿していたけれど、それが彼の優しさだとわかってしまったから、イルヴァはほんの少しだけためらって、それから向きを変えてその背に腕を回して、胸に額を預けたのだった。

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