16. ホットサンド

 嫌だ、とそう呟いたイルヴァに、ノアは怪訝そうな眼差しを向けてくる。突然の拒絶に、ただ戸惑っているように見えた。それはそうだろうとイルヴァも思う。何しろ彼女にもその理由が判然としないのだから。


 自分の寝台の上で膝を抱えているうちに、眠ってしまっていたらしく、ふと見れば窓の外には日が昇っている。空腹のせいか、いつもより早く目が覚めたようで、気配を伺えば扉の向こうで何やらごそごそと動く気配がする。何となく重い心を抱えたままそっと扉を開くと、香ばしくてほのかに甘い匂いが漂っている。それに引き寄せられるようにして台所へと入ると、大きな背中が見えた。


 しばらくぼんやりとその背中を眺めていると、ふと振り返り、その顔にいつも通りの笑みが浮かぶ。昨日のだるそうな様子は微塵もなく、伸び放題だった無精髭さえもある程度は整えられてすっきりとしている。

「もう起きたのか? 珍しいな」

 そう言う顔は屈託がなく、そしてよく見れば端正だ。今さらのように、ノアがリネアだけでなく、他の女たちからも頻繁に秋波を送られていたことを思い出して、何やらまたイルヴァの胸の中に靄がかかった。


 ノアはそんなイルヴァの顔を見て少し首をかしげたが、いつものようにごく自然にその腕を伸ばしてくる。それは、抱き寄せようとする動きで、もう慣れたもののはずなのに、まだ心のどこかが硬く閉じたままのイルヴァは思わず身を引いてしまう。今度こそ明らかに顔を顰めたノアに、ちくりと心臓が痛んだが、ノアはただ肩をすくめて朝食の支度に戻った。イルヴァは隣でそれを見るともなく眺める。


 厚めに切った燻製肉ベーコンを平鍋で焦げ目がつくくらいに炒める。一旦取り出して皿に取り、余計な脂を拭き取ってから、平鍋に牛酪バターを入れ、溶けたところで指一本分ほどの厚さに切った硬いパンを並べる。その上に乾酪チーズと先ほど焼いておいた燻製肉をのせて、パンの表面に香ばしい匂いとともに焦げ目がついたら、もう一枚上にのせてひっくり返す。


 端から溶け出した乾酪が、やがて焦げてパリパリとした薄い板のようになったところで取り出して半分に切ると、中からとろりと淡い黄色が流れ出した。じっとそれに見惚れていると、小さく切った欠片が口に放り込まれた。熱くてはふはふと息をしながら飲み込むと、柔らかく笑いながら軽く頭をぽんぽんと撫でられた。それはいつもと変わらないはずなのに、子供扱いされたことが何となく心に引っかかって、その手を邪険に払ってしまう。

 ノアは一瞬また顔を顰めたが、一つため息をついただけで、焼けたそのパンを皿にのせて、イルヴァをテーブルへと促した。


 茶色くなるまで炒めた玉葱のスープに、野菜を刻んで入れてふんわりと焼き上げた卵焼き。黄色いそれは、花のように食卓を明るく彩っている。その隣には、いくつかの果物が食べやすい大きさに切って並べられている。

 最後にこんがりと表面が焼かれた乾酪が溶け出しているパンが置かれた。イルヴァはどう見ても美味しそうなそれに真っ先に手を伸ばす。


「中、熱いかもしれないから気をつけろよ」


 視線を向けると、ノアはいつもと変わらない癖のある笑みを浮かべている。相変わらずその過保護な言葉に内心呆れながらも、その匂いにつられるようにしてかぶりつくと、普段は少しくどく感じる黄色と白の混ざった乾酪チーズが、溶けてパンと絡むことで、そのまま食べるより香ばしさが増してまろやかになっていた。端から流れ出る乾酪を手で指先ですくって舐めると、濃いその味が口の中に広がる。


「……乾酪チーズって溶けて焦げると、随分風味が変わるんだね」

「これは特にだな。他にもいろんな種類のものがこないだ市場にあったから、後で見にいくか?」


 反射的にこくりと頷くと、ノアの頬がわかりやすく緩んだ。紫の瞳も穏やかな光を浮かべていて、逆にイルヴァは居心地が悪くなって視線を逸らしてしまう。

 そのまま残りを食べ切って、それから玉葱のスープに口をつけると、よく炒めて煮込まれた茶色いそれは、牛酪バターと玉葱そのものの風味がふわりと広がって、温かく甘い。この色になるまで炒めるのには結構な時間がかかるから、普段の朝ごはんにはあまり出ない。きっと朝早くから準備してくれていたのだろうと気づいて、その手が止まった。


 それはイルヴァの好物の一つで、そしてノアは彼女が美味しいものを食べれば大概のことは誤魔化されてしまうと知っているから。


 ——だから素直に美味しいと言って、いつも通りにその腕に身を預けてしまえばいいのかもしれないけれど。


「イル?」

 手を止めた彼女に、ノアは怪訝そうな眼差しを向けてくる。イルヴァはぐるぐるとした想いを扱いかねて、席を立った。だが、ノアもすぐに立ち上がって、身を翻そうとしたイルヴァの腕を掴む。

「……何が気に入らないんだ?」

「……わかんない。けど、何か嫌だ」

「だから、何がだよ?」

 あくまでもノアの声は穏やかだが、その瞳には微かな苛立ちが浮かんでいる。その眼差しの強さに、びくりと肩を震わせて俯いたイルヴァの頭の上から深いため息が降ってくる。ややして、顎をすくい上げられて、まっすぐに紫の瞳がイルヴァを捉える。

 じっと彼女を見つめるその瞳に吸い込まれてしまいそうな気がして見惚れていると、腕を掴んでいた手が離れた。それでも視線はまっすぐにイルヴァを捉えていて、魅入られたように身動きが取れない。


 そんなイルヴァの様子に、ほんのわずかノアは表情を緩めて、それからゆっくりと、壊れ物にでも触れるかのように、そっと彼女を抱き寄せた。まだ心の中にはわだかまる何かはあったけれど、それでもその腕の中の温度が心地よくて、そのまま胸に顔を寄せると、微かに煙草の匂いがする。

 目を上げると、穏やかだが、どこかいつもとは異なる光を浮かべた紫の瞳がじっとイルヴァを見つめている。


「これは嫌か?」


 ほんのわずか、イルヴァを抱く腕に力を込めながらそう尋ねてくる。視線を逸らして、ただ小さく首を横に振った彼女に、それでも追い打ちをかけるように問いが重ねられる。

「ちゃんと言えよ。じゃねえとわからねえ」

「……嫌、じゃない」

 俯いたまま、小さく、それでもはっきりとそう答えると、ノアは口の端を上げて笑って、それからゆっくりと、その顔を近づけてくる。自分がどうしたいのかもまだ判然としなかったけれど、流されるように目を閉じると、優しい軽い口づけが何度も降ってくる。

 ややして後頭部を引き寄せられて、その口づけが深いものに変わる。呼吸さえも危うくなるほどに、何度も、角度を変えて貪るように繰り返されるそれに、無意識に逃れようとその胸を押すと、逆に壁に押し付けるように追い詰められた。背中を壁に押し付けられたまま、左腕は頭の脇に、右手はイルヴァの顎を捉えて逃がさないとでもいうように、何度も口づけを繰り返す。


 あまりに長いそれにくらりと目眩がして、ぎゅっとその胸元をもう一度縋るように掴むと、ようやく唇が離れた。大きな手がイルヴァの頬を撫で、それから指先が濡れた唇に触れた。その紫の瞳が、熱を浮かべたままじっと彼女を見つめる。

「これは?」

「……何?」

「嫌じゃないのか?」

「ノアの、馬鹿」

 俯いて、その厚い胸板を叩いた彼女に、ノアはくつくつと低く笑う。それからもう一度強く抱きしめられた。

「で、俺はいつまで待てばいいんだ?」

 力強い腕に包み込まれる心地よさにぼんやりとしながら、曖昧な問いに目を上げれば、熱を宿した瞳がそれでも面白そうに彼女を見つめている。どういうことかと首を傾げると、頬から首筋へとその手が下りてくる。

「俺がリネアとをしていたのが、気に入らなかったんだろう?」

「……もう、してないの?」

「お前と会ってからはな」

 その答えにイルヴァは少し驚く。何しろ、彼らが出会ってからもう数ヶ月は経っていたので。

「誰とも……?」

「言ったろ、俺はお前に一途だって」

 口調も声も軽く、どこか揶揄うような響きを宿しているのに、その眼差しは真摯でその言葉が嘘でないことを伝えてくる。どきり、とイルヴァの心臓が跳ねた。同時に震えた彼女の手に気づいたのか、ノアがその手を握る。


「もう待たなくていいなら、でもいいんだぞ」


 わずかに掠れて、そう言った声にも、そして向けられる眼差しにも明らかな熱が宿っている。もう一度近づいてくるその顔を改めてまじまじと見つめる。よく見れば端正な、無精髭の残るその顔と、鮮やかにイルヴァを惹きつけて止まない紫の瞳。何よりも、深い傷を負いながらも彼女を救い、ずっと大切にしてくれたその優しさと。


 ——その想いはもう、フレデリクの城を出たあの日に自覚していたはずだったのに。


 震える手で近づいてきたその頬を包み込む。ざらざらとした手触りは、決して心地よいものではなかったけれど。

「イルヴァ」

「……ノア」

 自分の名を呼ぶその声に、答えを出そうとしたその時、ドンドンドンと乱雑に扉を叩く音が響いた。ノアがあからさまに舌打ちをする。イルヴァも動けないでいるうちに、こちらが扉を開けるのを待つ間もなく、どうやら鍵のかかっていなかった扉が蹴破られるかのような勢いで開く。


「イルヴァさま!」

「……エマ?」


 それは、フレデリクの城で出会ったあの召使いの婦人だった。エマは息も絶え絶えと言った風にイルヴァに駆け寄ると、ノアを押しのけんばかりの勢いで二人の間に割り込み、イルヴァの手を縋るように掴んだ。

「旦那さまが……フレデリクさまが襲われて、お怪我を」

「え……?」

「もしやあなたにも危険が迫っているのではと駆けつけた次第ですが、ご無事ですね?」

「うん、見ての通りだけど」

「何よりです。ひとまずは、城へお越しいただけますか?」

「……何で?」

 フレデリクが襲われたのならば、近づく方が危険な気がするのだけれど、と言外の言葉は正しく伝わったらしい。エマは少し迷うように視線をさまよわせ、それから、懐から一つの首飾りを取り出した。細い金の鎖の先に、透明な水晶のような石がぶら下がっている。

「これに、触れていただけますか?」

 エマは透明な結晶を示しながらそう言った。イルヴァが首をかしげながらも指先でそれに触れると、ふわりとその内側から白い光が溢れる。


「ああ、やはり……」


 深く息を吐いてから、エマはまっすぐにイルヴァを、それからノアを見つめた。


「イルヴァさまのお母さまのことで、お話ししなければならないことがあります。イルヴァさまの身を守るために」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る