15. カットフルーツ

 春の訪れと共に、イルヴァの朝はさらに遅くなる。冬の間は寒いからと、春になれば微睡まどろみが心地よいからという理由で、どんどん怠惰ぐうたらになっていく生活も一人で暮らしていれば誰にも咎められることはない。


 森の木の実を集めたり、家々の家畜の世話や畑仕事を手伝ったりして日銭を稼ぐというなんとも不安定な生活も、小さな村の中では人手は常に不足していたから、他人から浮いているイルヴァでさえ、そういった細々とした仕事の口は絶えることがなかったのだった。

 だが、ふとイルヴァは違和感を覚えた。確かに彼女はこうして怠惰に過ごすことに慣れきっていたけれど、窓の外から差し込む光はかなりもう明るい。こんな時間まで眠っていることが、最近はもう少なかった気がする。


 そこまで考えてようやく自分が一人で暮らしているわけではないことを思い出した。いつも、適当な時間になれば彼が起こしに来るか、朝食のいい匂いで目を覚まして自主的に部屋を出ていくのが常だったから。

 首をかしげながら、白い上衣一枚のしどけない姿のまま寝台から下りる。居間をのぞいたが、人の気配がない。もちろん朝食の匂いも。イルヴァは首をかしげながら、ノアの寝室の扉を叩いた。返事はないが、人の気配はしたので、そっと扉を開けると寝台に横たわる大きな姿が見えた。


「ノア?」

 声をかけたが返事がない。なんとなく不安を感じてそばに歩み寄ると、うっすらとその目が開いた。

「……イル?」

 紫の瞳はいつもより潤んでいて、思わず目を奪われた。ふらりと引き寄せられるように顔を近づけたイルヴァに、だがノアは自分の眼を右手で覆っていつになく厳しい声を上げた。

「近づくな」

 その声ではっと我に返る。それから、そっと無造作に伸びたその黒髪をかき上げて、額に触れると燃えるように熱かった。

「ノア、熱出てる……!」

「大したことねえよ。ただの風邪だ」

「でも……」

「うつっちまったらことだからな、お前は離れとけ」

 そう言うノアの声はもういつも通りに戻っていたが、イルヴァは自分の手がわずかに震えていることを自覚する。あの時もそうだった、と。大したことはない、ただの風邪だと言っていた二人は、それでも急に症状が悪化し、慌てて呼びにやった薬師はその様子を診て、もうただ首を振るばかりだった。そうして、イルヴァの義父母が息を引き取ったのはその二日後のことだった。

「嫌だ」

「イル……」

「一人になるのは、もう嫌だ」

 俯いたままそう言った彼女に、深いため息が降ってきて、ノアはだるそうにしながらも身を起こす。寝台の端に身を預けたまま、イルヴァの淡い金の頭を自分の胸に引き寄せた。頬に触れる大きな手は、今はひどく冷えている。見上げると、わずかに肩で息をしながらも、その顔には呆れたような、それでも癖のある笑みが浮かんでいる。

「大袈裟な奴だな。そんな顔してると襲っちまうぞ」

「……フラフラのくせに」

「やろうと思えばできるんだぜ、男は」

「……何の話してるの?」

 イルヴァが首を傾げると、ノアは呆れた表情を隠そうともせずに、それでももう一度笑ってイルヴァの髪に口づけて、それからさすがに辛そうにもう一度身を横たえた。

「オーレの店の近くに薬屋がある。そこで熱冷ましの薬をもらってきてくれ。わからなければ、オーレにランヴァルドの店はどこだと聞けば教えてくれるはずだ」

「わかった。他に何かいるものとかある?」

「とりあえず、水を持ってきてくれるか?」

 掠れた声でそう告げられて、そんなことにも気づかなかった自分に歯噛みしながらも、台所で水差しに水を汲んで、ついでに綺麗な布を濡らしてノアの寝室へと戻る。グラスに水を注いで渡すと、身を起こしながら、ニヤリと笑う。

「……何?」

「飲ませてくれないのか?」

「……一人で飲めるでしょ」

 グラスをその唇に押し付けると、笑いながらも一息に飲み干して、それからもう一度横になる。その額に濡れた布を押しつけると、低くくぐもった笑いが聞こえた。ノアがイルヴァをからかうのはいつものことだったから、眉根を寄せて踵を返そうとすると、腕を掴まれて、その体の上に引き寄せられた。

「そんなに怒るなよ」

 密着する体の温度がいつもより高い。これだけ熱が高ければ、かなり体は辛いはずだ。ようやくふざけている場合ではないと表情をあらためたイルヴァに、だがノアはその手をするりとイルヴァの下肢に滑り込ませてくる。

「……何してんの⁈」

「こんな格好で出かけるんじゃねえぞ」

「行くわけないだろ!」

 なおもさわさわと妖しい動きをするその大きな手を、容赦のない力で叩くと、イルヴァはさらに怒りを振りまきながらノアの寝室を後にした。


 街中まで足早にたどり着くと、春の日に誘われてもう結構な人出だった。目的地の薬屋が見当たらず、馴染みのオーレの店へとやってきたが、あいにくと閉まっていた。どうしたものかとぼんやりしていると、後ろからきつい声が飛んできた。

「何してるのよ、こんなところで」

 振り返ると、声のままに尖った眼差しをこちらに向ける娘が立っていた。艶やかな黒い髪をゆるく編み、胸元ははちきれんばかりに膨らんでいるのに、その首も腰も細くたおやかだ。目元は淡い茶色で強調され、唇は紅をのせて艶やかに輝いている。顔を洗っただけで、流しっぱなしの淡い金の髪には寝癖さえ残っているイルヴァとは正反対にきっちりとした美女ぶりだった。

「……リネア」

「あんたが一人で出かけてくるなんて珍しいじゃない。こんなところにぼんやり突っ立って何してるのよ」

 一々言葉の端々に棘があるような気はしたが、いつものことだったのでイルヴァは小さくため息をついただけで、これ幸いとばかりに、その袖を引く。

「ノアが、熱出して」

「ええ……⁉︎ あの男が⁉︎」

 裸でいたって風邪ひとつ引きそうにないのに、と何気なくひどいことを言っている。

「ランヴァルドの店で薬をもらってきてくれ、って言われたんだけど、どこにあるか知ってる?」

「知ってるに決まってるでしょ。大体あんた何ヶ月この街にいるのよ。少しはうちの店やアクセルのパン屋だけじゃなく街中のことも覚えたらどうなの?」

 まったくぼんやりしてるんだから……と毒づきながら、リネアはすたすたと先に立って歩き出す。

「あの、リネア……薬屋の場所を」

「あんたすぐに道に迷うじゃない。大人しくついてきなさいよ」

 それだけ言うともう振り返りもせずに進んでいく。面倒なのでなるべく関わり合いになりたくないのだけれど、とはさすがに口に出さないだけの分別はイルヴァにもあったのだった。


 リネアに連れられて訪れた薬屋で熱冷ましの薬を受け取って、そのまま帰ろうとすると、腕を掴まれた。

「あんたそのまま帰るつもり? 食べるものとかちゃんとあるの?」

「食べるもの……」

「ノアが倒れてるんでしょ? スープとか、果物とか、そういうものは?」

「……わかんない」

「のんきなものね」

 言葉以上にはっきりと呆れ返った様子を隠そうともしないその顔に、さすがにイルヴァもへこんだが、かまっている場合ではない。踵を返そうとしたが、リネアは掴んだ手を離さず、まだ閉じたままの彼女の父の店へとイルヴァを引きずっていった。

「……開いてないけど」

「今日は父さんが買い出しに出かけてるから休みなの。代金は立て替えておくから、後で払ってよね」

 言いながら、干し肉やいくつかの野菜を籠に詰め込んでいく。

「何か欲しいものある?」

 表情は険しいままで、そう尋ねるリネアに内心でため息をつきながらもぐるりと店の中を見渡していると、鮮やかな黄色い果物が目についた。両手で包み込めないほどの大きさの、柑橘の類であろうそれは手に取ると、爽やかな香りがする。

「ああ、それ。酸味と甘みのバランスがいいから病人にもちょうどいいかもね。切れ目を入れれば手でも剥けるし」

 言いながら、その果実を二つ。それから林檎と苺も籠にそっと入れていく。

「そんなにノア、たくさんは食べないと思うよ」

「あんたの分に決まってるでしょ」

 視線も合わせずにそう言う姿に呆気に取られてじっとその横顔を見つめていると、険のある眼差しが向けられる。

「何よ」

「リネアって、もしかして優しい……?」

「何言ってるのよ。本当にノアったらこんなぼんやりしたのどこがいいのかしら」

 苛立ちを隠そうともしないその声音に、イルヴァはただため息をついていたが、ふと思い当たって顔を上げる。

「もしかして、リネアってノアと……?」

「何よ今さら。別に付き合ってたわけじゃないわ。あいつの都合のいい時に会ってただけ」

「会うって……」

「子供じゃないんだからわかるでしょ……って、まさか」

 嘘でしょ、とリネアは目を丸くする。

「まさか、まだ手を出してないの? あの男が?」

 信じられない、と言いながら店を出ていく。何やら心のうちに靄がかかったような気はしたが、気にしても仕方がないとため息を一つついてから、イルヴァも後を追って店を出た。



 目の前でほかほかと湯気を上げる温かで美味しそうなスープを眺め、イルヴァはさらに心の靄が濃くなったような気がしたが、わざわざ家を訪ねた上に、夕飯の支度までしてくれた相手に文句を言うほど、子供ではないつもりだったので黙っておく。

 リネアは満面の笑みを浮かべてノアの寝室へと入っていったが、ついていく気には到底なれなかった。そうして、しばらくして出てきた彼女は入っていった時の笑顔が嘘のように不機嫌丸出しの顔で、イルヴァに八つ当たりするように、ぎろりと睨みつけてから黙って出ていってしまった。

「何だあれ……」

 思わず呟いたが答える声はない。とりあえず、用意されたスープを口に運ぶと、ほどよい塩気と、柔らかく煮込まれた野菜の旨味が広がった。きっと熱を出して疲れている体には染み渡るだろうと思えるような。


 きちんと病人のことを考えて作られたそのスープが、それでもどうしてだかあまり喉を通らなくて、イルヴァは匙を置く。それからテーブルにのった丸く大きな黄色い果物が目に入った。鮮やかな黄色は薄暗い部屋の中でひどく暖かな色に見えた。

 ひとつ手にとって顔を寄せると、爽やかな香りがする。台所からナイフを取ってきて外側に切れ目を入れて、指をぐっと押し込むと綺麗に厚い皮が剥がれた。ひとつひとつの房を指でばらばらにして、袋の内側の部分を切って薄皮を剥くと、白っぽい瑞々しい果実が露わになる。そのまま口に含むと香りの通り爽やかで、どちらかといえば酸味が強く、弾けるような感触が口の中に広がる。

「美味しい」

 呟いて、残りを全て綺麗に剥くと、皿に載せる。それからついでに林檎も手に取る。皮を剥こうとしたら案の定いびつになったので、その部分は自分で食べて、切って芯を除くだけに留めた。あとは苺を洗って一緒に並べると、それなりに見えてきたので満足する。

 ノアの寝室をのぞくと、本人は眠っているようで、枕元のサイドテーブルには、空になったスープの器が置かれていた。綺麗に平らげたのだ、と思い、もう一度、イルヴァは心のどこかが閉じるような感じがした。


 枕元の器を取り上げ、代わりに持ってきた皿を置いてそのまま踵を返そうとすると、不意に腕を掴まれた。振り返ると紫色の瞳がこちらを見上げていた。

「帰ってたのか」

「リネアと一緒に帰ってきたよ」

「……そういうことか」

 言いながら半身を起こす。その額に手を当てると、もうずいぶん熱は下がっているようだった。薬が効いたのかもしれない。

「何であいつが薬を持ってきたのかと思ったら……いたのかよ」

 言いながら、視線がふと枕元に置かれた果物が載った皿の上で止まって、その顔が緩む。

「お前が剥いてくれたのか?」

 綺麗にできてるじゃないか、と褒められて悪い気はしない。あっという間にほとんどを平らげると、最後の一片をイルヴァに差し出してくる。顔を寄せて口に含むと、わずかに舌と唇がノアの指に触れた。


 びくりとその手が震えたような気がしたが、ともかくも、もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。ふと見れば、熱は引いたはずなのに、いつもより潤んだような瞳が間近に迫っていた。大きな手がイルヴァの頬をとらえ、少しだけ顔を傾けて唇が重ねられる直前、目を閉じて、だが、どうしてだかリネアの顔が目の裏に浮かんで、イルヴァは反射的に目を開いた。


 間近に迫っていた紫の瞳が怪訝そうな光を浮かべる。大きな手も、少しかさついた唇も。

「リネアともこんなことしてたの?」

「……はぁ⁈」

 思わずこぼれた言葉に、ノアが呆れたような声を上げた。それは否定する様子ではなかったから、二人の関係がどんなものだったかは、明らかだった。ノアは悪びれる風もなく、首を傾げる。

「何を気にしてるんだ、お前は」

「別に」

「……へぇ」

 何が嬉しいのか、顔を緩ませながらそう言ったその顔はいつもと変わらないから、イルヴァもいつも通り受け流せばよかったのだろう。けれど、どうしてだか指の関節が熱をもったように震えた。もう一度近づいてきた顔を手で押しのけて、寝台から離れる。

「……イル?」

「嫌だ」

「何が?」

「すごく、嫌だ」


 その感情の名前を、イルヴァはまだ知らなかった。

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