14. エディブル・フラワー
例の如くうつらうつらしていると、肩を叩かれた。見上げると、何かを面白がるように笑うアクセルの顔が側にあった。ノアほどではないが背が高く引き締まった身体に、肩ほどの髪をゆるく後ろで結び、綺麗に髭を剃った端正な顔は、ノアとは異なる意味で多くの女たちを惹きつけている。ただ惹きつけるだけではなく、実際にあちこちで浮名を流していることも、イルヴァは街の噂でよく耳にしていた。
「晩飯、できたってよ」
「アクセルも食べてくの?」
「お邪魔か?」
にやにやと笑うその顔目がけて拳を繰り出したが、あっさりとかわされる。流石に読まれていたらしい。内心で舌打ちすると、おお怖ぇと全くそうは思えない声音で肩をすくめた。
「さっさとあいつの寝台に潜り込んじまえばいいのに」
「なんの話してんの」
襟首を掴むと、より一層その笑みが深くなる。イルヴァの険しい表情などかけらも気にした風もないが、間近に迫る鳶色の瞳は、いつもとは何か違う色の光を浮かべているように見えた。アクセルは、襟元を握りしめているイルヴァの手をゆっくりと引き剥がしながら耳元に口を寄せる。
「それとも、やっぱりお兄さんが手取り足取り教えてやろうか? 優しくしてやるぜ?」
「お兄さんなら、もうちょっとちゃんと自制して」
その手を払って立ち上がると、やれやれとため息が聞こえた。見上げると、どこか奇妙に複雑な色がその瞳に浮かんでいる。
「……アクセル?」
首を傾げると、ふと視線が逸らされ、それから明らかに何かを誤魔化すように笑って、くしゃりとイルヴァの髪を撫でた。
「この先、何があってもノアを信じとけ。それで大体問題ない」
「……何それ?」
「わかんなくていいんだよ、お子さまは」
子供扱いするその言葉はいつも通りで、それでもその瞳がどこか揺れている。イルヴァが眉根を寄せてじっと見返していると、その顔が近づいてきた。かすめるように唇が一瞬だけ触れて離れる。予想外の事態に咄嗟に手も出ず唖然としていると、アクセルは耳元に口を寄せて低く囁く。
「あいつには、内緒な」
そう言われたことで、さほど気にも留めていなかったその行為が急に何かの
「ノアに殴られるから?」
「まぁな。それに、お前が俺に本気になっちまったら困るだろ?」
「なるわけないでしょ」
呆れたように言ったイルヴァに、アクセルは口の端だけで笑って、あとはひらひらと手を振って、テーブルの方へと戻っていった。
イルヴァもその後に続くと、ノアが大きな皿を持って
ノアはイルヴァの顔を見ると、小さく首を傾げた。
「……どうかしたか?」
「アクセルに
特に隠すことでもなかったので、そう告げると、二人がそれぞれ別の様相で固まった。一人はぎくりと気まずげに、もう一人は、その紫の瞳に呆れを浮かべて。
「なんだその子供のいたずらの告げ口みたいな言い方は……。どこにされたんだ?」
「口」
「へぇ」
その紫の瞳には、どこか剣呑な光が浮かんでいたが、ノアはちらりと幼馴染に視線を向けただけで、皿を持ったままイルヴァに近づく。それから少し腰をかがめて軽く口づけた。あまりに自然なその動きと、両手に皿を持っているせいで流石に手を出せず眉根を寄せた彼女に、ノアは口の端を上げて笑う。そんな様子に、アクセルが呆れたように声を上げた。
「なんかすげぇ余裕?」
「軽薄なお前とは違って、俺には愛の重みがあるからな」
「……寒っ」
アクセルは両腕で自分を抱きしめるようにして顔を顰めて震えているが、イルヴァも呆れて一つため息をつく。そういえば、ノアはそういう性格だったと。最近色々なことが起きすぎて、お互いに距離を計りかねるところがあったが、もともとノアがイルヴァに向ける好意は最初からあからさまだった。それに伴う
「……ノアって誰にでもそんなこと言ってるの?」
「んなわけないだろ。こんなにお前に一途なんじゃねえか」
ニヤリと笑って言うその表情はどう見てもふざけているそれで、だからイルヴァもどこかで安心しながらもそっぽを向く。きっと、そんなところもお見通しなのだろうとわかってはいたけれど。
そんな二人にアクセルはうんざりしたように肩をすくめながら、テーブルにつく。イルヴァもノアに促されるままに椅子に座った。テーブルの上の料理はいつになく彩りが鮮やかだった。
イルヴァも手伝っていた塩豚の
「これ、食べられるの?」
「ああ、なんか特別に食用に畑で育てたやつだそうだ」
「へぇ……」
花といえば森の中や道端に咲いているが、食べようと思ったことはない。赤い花をつまんで口に入れると、仄かな苦味が口に広がった。けれど青臭いと言うこともなく、どちらかといえば爽やかな味わいだった。
「こっちの紫の方が美味いな」
勧められるままに、薄紫の花を口に入れると、確かに仄かに甘い。花の蜜とも違う、やわらかいその味は、なんとなく春を感じさせた。
「で、誰から贈られたんだ、この花?」
少し意地の悪い顔でそう言ったアクセルに、ノアはただ肩をすくめる。確かにいくら売り物とはいえ、あえてノアがこんな花を買おうとするようには思えなかった。誰かから渡されたと考える方がよほど自然だ。
「ノア?」
「別に。オーレの店で買い物してたら、ついでにってくれたんだよ」
「ああ、リネアか」
その名前にはイルヴァも聞き覚えがあった。街ですれ違うたびに、ノアには熱い、イルヴァには正反対の冷ややかな眼差しを送ってくる、確か二十歳そこそこの娘のはずだ。別に隠す必要もないのに、と思いながら、また花に手を伸ばす。薄紅色の花は、思いのほかしっかりとした苦味があるが、
「野菜ばっかり食ってないで、こっちも食えよ」
言って差し出されたのは、丸い揚げ物だった。こちらも指でつまんで口に運ぶと表面はカリっと、中はふんわりとしていて、
「あ、美味しい……! これ小麦と……
「ああ。それに乾酪と塩で味つけて揚げてみた」
「ただ馬鈴薯の揚げたのより、なんて言うか……もっちりしてて食感がいいね」
少し薄めの塩気が、添えられている塩豚とちょうどよく、白葡萄酒に合いそうだ。イルヴァの心を読んだかのように、グラスが差し出される。
「甘やかしすぎじゃない?」
「しっかり食って、ちゃんと育ってもらわねえとな」
「うわ、発言がやらし……」
「発育がいいのにこしたこたないだろうが」
ニヤリと笑って言うその顔に、いつかの入門編とやらが思い出されて、瞬時にイルヴァの顔が朱に染まる。楽しげなノアの脇腹を殴りつけたが、どちらかというとその硬い筋肉に押されてイルヴァの肘の方が痛んだ。
「勝手にやってろ」
呆れたように呟いて、自分の持ってきたパンと葡萄酒に口をつけていたアクセルはだがふと表情を改める。
「そういえば、また怪しい奴らがうろついてたって聞いたか?」
「……またあの人?」
「いや、今度はもっと胡散臭い感じだって言ってたな……。黒ずくめなのは似たような感じだが、今度はなんか目をつけられると、石を握らされるんだそうだ」
「石……?」
「
イルヴァが首を横に振り、ノアの方を見上げると彼もまた首を横に振った。アクセルはパンを切り分けて口に運びながら、どこか遠い目をして続きを語る。
「月晶石ってのは、魔力に強く反応する石らしくてな。魔力を持つものが触れると光る。それで、狭間の世界では
そういえば、アクセルの竈にも何やら透き通る石が嵌め込まれていたような気がする。いずれにしても話が見えない。
「つまり、そいつは魔力を持つ者を探しているってことか?」
ノアの言葉にイルヴァははっと息を呑んだ。フレデリクの城でエマが語っていた「魔女狩り」の話が脳裏に浮かぶ。
「何が目的はわからないが、この
あの時、イルヴァの村を焼き尽くしたのは、フレデリクではなかった。かつて、近隣の村で幾度も起こったというその襲撃が、魔女狩りと関わり合いがあるのだとしたら。
——あの村が滅ぼされたのは、イルヴァのせいなのかもしれない。
その可能性に行き当たって、暖かいはずの部屋の温度が急に下がった気がした。かすかに震える手に気づいたのか、ノアの大きな手がくしゃりとイルヴァの頭を撫でる。それから、アクセルにうんざりしたような顔を向けた。
「飯が不味くなるような話をするんじゃねえよ」
「……ま、そうだな」
そこでいったんその話題は切り上げられ、あとはいつも通りアクセルがどこの娘が可愛いだの、どこの人妻に言い寄られただのといった他愛のない噂話に終始した。それでも、やはり何となく食べる気になれず、イルヴァは早々に食事を切り上げて暖炉の前に丸くなった。
火は暖かく燃えている。かつて村で義父母と暮らしていた時をふと思い出す。それは、少しぎこちなく、それでも穏やかな日々だった。その後、あの村が滅びるまでイルヴァにとっては、間違いなく故郷ではあったのだ。
膝を抱えてぼんやりと火を眺めていると、目の前に皿が差し出された。そこには色とりどりの花が、滑らかな
漏れたため息をどうとったのか、ノアは顔を顰めて首を傾げる。
「何だ、気に入らなかったか?」
「違う。自分の不器用さにちょっとへこんだだけ」
「何だそれ?」
怪訝そうなその顔に、言葉が足りなかったことを自覚して、皿の上の鮮やかな花の飾られたそれを一つ手に取る。生きている花の香りと、パンと、滑らかな乾酪の香りが混じって、春そのもののように見えた。
「綺麗だね」
「気に入ったか?」
「うん。もう、春なんだね」
ノアと出会ったのは、真冬の寒い夜だったのに、もう花が綻ぶほどの時が流れている。
「春が好きか?」
「……どうだろう。ここは冬も暖かくて心地いいから」
「そうか」
そう言うとノアは低く笑って皿を置いて脇に座り込む。白いなめらかなかたまりの載ったパンを口に入れると、予想外の甘さがふわりと広がった。目を見開いて首を傾げると、ノアがどこか嬉しそうに笑う。
「美味いだろ」
「うん、これ……蜂蜜?」
「ああ、
そのままだと少し尖った甘さの蜂蜜が、滑らかな白い乾酪と混ざり合ってやわらかく包み込むような優しい味わいになっている。見た目の可愛らしさとともに、それは動揺していたイルヴァの心を暖かく和らげてくれる。
「……ありがと」
視線を合わせずにもぐもぐと花とパンを口に運んでいると笑う気配が伝わってくる。だがふと何かに気づいたかのように窓の外に視線を向ける。カタカタと窓が鳴り、急に雨が打ちつけるように降り始める。
「春の嵐か」
ぽつりと呟かれたその言葉に、どうしてだか、イルヴァはぞくりと背が震えるのを感じた。
「イル?」
気遣うようにこちらを覗き込む紫の瞳に、何でもないと首を振る。それでも、嵐の夜はいつかを思い出させる。
「大丈夫だ」
「うん」
肩を抱き寄せるその腕の力強さと温かさを心地よく感じながらも、胸に湧く黒い靄のような不安は、消えてはくれなかった。
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