Chapter 2. Spring has come
13. 塩豚のリエット風
風はまだ冷たいけれど、降り注ぐ日の光は暖かい。見上げた空の色は青さを増して、あたり一面にちらほらと咲き始めた小さな青や赤紫の花とともに春の訪れを感じさせる。
イルヴァはひとつ息を吐くと、厚い外套を脱いで腕にかける。ひんやりとした風は火照った頬に心地よかった。もう歩き慣れた道を街外れのその家までゆっくりと歩いていく。時折見知った顔に声をかけられては挨拶を返す。程よい距離感の関係は、育った村ではなかったもので、イルヴァ自身の態度もそう変わってはいないはずだから、ノアの影響が大きいのだろうと思う。
粗野で自己中心的に見えて、意外と細やかな気遣いができる彼は、人付き合いもそれなりに上手くて街の人々からも好かれている。特に、年頃の娘たちからはあからさまな視線を向けられていることも知っていたが、イルヴァと共に出歩くようになって、その複雑な視線が彼女に向けられることも増えている。
あれから一月ほどが過ぎた。フレデリクはその後は姿を現さず、特に身の危険を感じるような事件も起きてはいない。のんびりと日々を過ごし、時折こうして街中までおつかいに行って帰ってくるくらいが関の山だ。こんな
「何でかなあ」
呟きながら、ノアの家の扉に手をかけると内側から開いた。驚いていると、向こうも目を見開いて、それからいつもよりは無精髭の少ない——ないわけではない——顔に癖のあるいつもの笑みが浮かぶ。
「遅かったな」
「待たせた?」
「いや」
言いながら、ごく自然に背中を抱き寄せられる。よく見れば端正なその顔が近づいてきて、反射的に目を閉じると、笑う気配が伝わってくる。しばらくしてもそれ以上近づいてこないことを不審に思って目を開けると、すかさず間近にあったその距離がなくなって唇が重なった。何度もついばむように繰り返される口づけは、やがて深いものに変わっていき、思わずふらついた腰をぐいと引き寄せられる。
「いい
唇が離れると、紫の瞳が間近に迫ったまま、低い声でそんなことを言う。玄関先で、まだ昼日中だと言うのにひどく甘い眼差しに見惚れて身動きが取れない。
「ほどほどにしねえと、襲っちまうぞ?」
「ば……っ、ノアがいきなりこんなことするから」
真っ赤になってその腕の中でもがくと、ノアはニヤニヤと笑う。その笑みの意味は明らかだ。以前なら、そんなことをされれば確実に殴りつけていたのに。自分でも咄嗟に手が出なくなった理由は何となくわかってはいるが、それでも、二人の関係はいまだに曖昧なままだった。
「これ、頼まれたやつ!」
買い物籠をその手に押し付けて、ノアの腕から抜け出して家の中へと入る。外套を玄関脇にかけて、小さく火の焚かれた暖炉の前にクッションを抱きかかえて座り込む。ゆらゆらと揺れる火を眺め、そのはぜる音を聞いていると、少しずつ動揺は収まって、眠気が襲ってくる。そのままうつらうつらしていると、肩に暖かいものがかけられた。顔を上げると、柔らかい表情のノアがこちらを見下ろしていた。
「もう眠いのか?」
子供だな、と言外に笑う気配を感じて、イルヴァは頬を膨らませると立ち上がる。
「晩ごはん、手伝うよ」
そう言うと、無精髭だらけのその顔がわかりやすく緩んで、くしゃりと淡い金の頭を撫でてからてっぺんに軽く口づけられる。
「そりゃ助かるな」
「……嫌味?」
「まさか」
そう言いながらも、その表情はやはりどこか面白そうな色を浮かべていて、イルヴァはますます頬を膨らませる。ノアほどに料理に慣れていないし、手際も良くないのはわかっていることだけれど。
「じゃあ、塩漬けの豚がちょうど煮えたところだから、パンの付け合わせにするか」
言いながら、
「食ってみろよ」
親指ほどの大きさの塊を受け取って口に入れると、柔らかく煮えたそれは、しっかりと塩が染み込んでいて、じゅわりと肉の旨みと塩味が絶妙だった。ほろほろと口の中で
「美味しい……!」
目を輝かせたイルヴァに、ノアが片眉を上げて笑う。大体ノアの料理は美味しいと言って食べるのが常のイルヴァだが、こうも顔を輝かせるのが珍しかったのかもしれない。そのままもう一切れ切り分けて、口元に運ばれる。少しためらいながらも口を開けると、先ほどよりは少し大きな塊が放り込まれ、口を閉じる拍子にその親指が少し唇に触れた。
紫の瞳が一瞬、じっとイルヴァに据えられたが、すぐに逸れて、それからその肉を細切りにしてから、さらに細かくみじん切りにしていく。
「そのまま食べた方が美味しくない?」
「もう
言いながら、細かくなった肉を大きめの器に入れる。次に玉葱を取り出して、手際良くまたみじん切りに。切り終わったあとは、水にさらす。それから肉を入れた器に
「これ、混ぜといてくれ」
大きめの匙でこぼさないようにゆっくり混ぜていると、少し驚いたように目を見開いて、それからぽんぽんと頭を撫でられた。
「……何?」
「前より大分ましだな、と思って」
以前手伝ったのはもう随分前のような気がするが、特に何も言われなかったので気にも留めていなかったのだけれど、内心ではいろいろ思うところがあったらしい。道理で手伝いを頼まれないわけだ、と何となく面白くない気持ちで混ぜていると、ぽろりと肉のかけらが溢れた。悔し紛れに手ですくって口に放り込むと、こってりとしていて、少しくどいが悪くない。
くつくつと笑いながら、ノアは玉葱の水気を切って、イルヴァが混ぜている器に流し込む。今度こそ、溢さないように——アクセルに教えられた通り——ゆっくりと丁寧に匙を動かしていると、脂身と牛酪と玉葱が滑らかに混ざり合った。それを見て、ノアは指ですくって一口味見をする。それから口の端を上げて笑いながら頷いた。
「いい感じだな」
「本当?」
「味見してみるか?」
顔を輝かせたイルヴァにさらに頬を緩めて、人差し指でもう一度すくうとイルヴァに差し出してくる。少し考え込んでから、そのまま指ごと口に含むと、玉葱が
「お前なぁ……」
低い声に目を上げれば、紫の瞳が呆れたような、それでもどこか熱を宿した剣呑な光を浮かべてこちらをじっと見つめている。
「な、何……?」
問い返すと、あからさまにため息を吐く。それからイルヴァの手を取ると、彼女の人差し指でそのリエットをすくい、自分の口に運ぶ。イルヴァの指をノアの歯が柔らかく噛み、唇で包まれる。一度口が離れ、それから指の間に残った脂身をゆっくりと舌で舐め取られる感触に、背筋がぞくりと震えた。
反射的に手を引こうとしたが、逆にそのまま抱き寄せられた。紫の瞳が、容赦なくイルヴァの心の奥底を覗き込むように間近に迫る。
「わかったか?」
何をとは訊かずとも、さすがのイルヴァでも理解できた。こくこくとただ頷いて腕から逃れようとしたが、ノアは腕の力を緩めず人の悪い笑みを浮かべて耳元に口を寄せる。
「もう少し、ちゃんといろいろ教えといてやった方がいい気がするな」
あれじゃあ足りなかったみたいだからな、とそう低く囁く声に、イルヴァはその胸を全力で押して何とか脱出を試みる。
「いらないから……! それに、晩ごはんの支度中だし!」
「遠慮すんなって」
「してない!」
「……お前ら、まだそんなことやってんの?」
呆れたような声に目を向ければ、その声のままに完全に呆れ返った顔のアクセルが立っていた。途端にノアが不機嫌そうな声を上げる。
「勝手に入ってくんなよ」
「さんざんノックもしたけど返事がないから、なんかまた事件にでも巻き込まれてんのかと心配して見にきてやったんだろうが。大体お前が夕刻に焼き立てのパン持ってこいって言ったんだろ?」
うんざりしたように言うアクセルにノアが気を取られている隙に、これ幸いとその腕から抜け出し、水場で手を洗うと、そのまま暖炉の前の定位置へと移動する。
「……おい、手伝いはどうした?」
「もう今日はやらない!」
いまだに熱の引かない頬を膝に抱え込んだまま、そう返したイルヴァの声に、含み笑う声は二人分だったので、ますます彼女が機嫌を損ねたのは、言うまでもなかった。
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