12. Interlude 〜ドライフルーツのパウンドケーキ〜 #2
じっと見つめていると、後ろからぽんぽんと頭を撫でられた。
「初めてにしちゃ、よくできたんじゃね?」
見上げた顔は、いつになく優しい笑みを浮かべている。アクセルは一度奥に引っ込んで、小さな籠を持ってくると、その中にそっとひどく優しい手つきで焼き上がったケーキを入れて、イルヴァに差し出した。
「ほらよ」
「一緒に食べないの?」
「あいつのために焼いてやったんだろ。さっさと帰れよ」
にやりと笑ってそう言って、それから不意に耳元に口を寄せて低く囁く。
「ついでに美味しくいだたかれちまえよ」
一瞬言われた意味を理解できずに首を傾げたイルヴァに、アクセルは片眉を上げて、またその腰のあたりにさりげなく触れてくる。
「それとも、俺がいただいてやろうか?」
「まだ懲りねえのか、お前は」
低く尖った声とともに、後ろに引き寄せられる。いつもは飄々とした顔が、いつかも見た獰猛で好戦的なそれになっているのを見て、イルヴァがもう一度首を傾げると、ノアは籠を取り上げてもう外へと歩き出してしまう。
「ベタ惚れだなあ、オイ」
呆れたような声は、それでも笑みを含んでいて、だからイルヴァはどうしていいかわからなくなる。そんな風に、優しく声をかけられることは、これまであまりなかったので。
「ほら、さっさと行けよ」
「お金、本当にいいの?」
「後でノアに請求しておくさ。それか……」
にっとその笑みが急に人の悪いものに変わったと思う間もなく、アクセルが不意にイルヴァの襟元に手をかけ、鎖骨のあたりに顔を寄せた。小さな痛みに思わず声を上げると、すぐそばにあるその端正な顔の笑みが深くなる。
「あいつがどんな顔するか、楽しみだな」
手早く襟元を直し、そしてイルヴァの背を押す。
「……何?」
「お前らには、これくらいでちょうどいいだろ」
相変わらずその言葉はわからなかったが、アクセルは肩をすくめて笑うばかりで、それ以上は何も言わなかったので、イルヴァは首を傾げながらもノアの後を追ったのだった。
途中で少し買い物をして、ノアの家に着いた頃にはもう日が暮れ始めていた。荷物を置くと、ノアは手早く暖炉に火を熾す。それから手際良く夕飯の支度を始めてしまう。それでも、イルヴァがテーブルの上に置かれたままの籠を眺めていると、その視線に気づいたのか、ノアがナイフを持って近づいてきた。
「せっかくお前が焼いてくれたんだ、食うか」
「うん」
籠から取り出したケーキはまだほのかに温かい。ノアはそっとナイフをすべらせて指一本分ほどの厚さに切り分けて、皿に載せる。もう一切れはそのまま手でつかんで一口でぺろりと食べてしまう。しばらく、ゆっくりと咀嚼してから飲み込んで、少し驚いたように目を見開いた。
「
「本当?」
イルヴァも手でつまんで口に入れると、表面はさっくりと
「本当だ、美味しい」
「ああ」
言いながら、ノアはもう一切れ切り分けて、口に放り込む。もぐもぐと口を動かしてから、いつになく優しく笑う。
「甘過ぎないし、酒の風味がいいな。あっという間に食っちまいそうだ」
「気に入った?」
「ああ、ありがとよ」
素直な言葉に、どきりと心臓が高鳴る。いつもはどこか癖のある笑みばかり浮かべているその顔と、その紫の眼差しが、普段とは違う色を浮かべてまっすぐにイルヴァを捉えている。
その瞳に見惚れていると、頬に手が伸びてきた。いつもより、ゆっくりと近づいてくるその顔に、どうしていいかわからず目を見開いたまま呆然としていると、唇が重なる直前で目が閉じられたので、つられたようにイルヴァも目を閉じる。
その体にしみついた煙草の匂いと、口に残る甘い果実の香り。何度も角度を変えて繰り返される口づけと、自分を強く抱きしめる腕の強さに安堵と同時に目眩がする。
一度唇が離れて、目を開けると、まっすぐにこちらを見つめる紫の瞳は確かな熱を浮かべていて、そのままゆっくりと首筋に唇が触れる。どうしていいかわからずに、ただその胸元を掴んで固まっていると、遠慮なくすべり下りていた唇が、だが鎖骨のあたりに辿り着いたところでぴたりと止まった。
「……イル」
あまりに低い声に、どうしてだか勝手に体が震えた。
「な、何……?」
「これは、何だ?」
一語一語、はっきりと区切るようなその声に、その視線の先を追ったが、あいにくとイルヴァ自身ではそこに何があるのかは見えなかった。だが、心当たりはあったので、ただ首を傾げる。
「そういえば、さっきアクセルに……」
「奴に?」
更に低くなった声に、反射的に体が震える。ノアを怖いと思ったことなどなかったが、それでもその不穏な気配に身が竦んだ。
「ノア、怒ってる?」
「ああ」
否定してくれるかと思った問いは、だがあっさりと肯定される。
「随分長いこと二人きりだった間に、一体何をしていたんだ?」
明らかに怒りを浮かべるその眼差しに、イルヴァはただ困惑してさらに身を竦ませる。これほどにノアが怒りを見せるのは、先日フレデリクに攫われた時以来だったし、そんな感情が彼女に向けられるのはこれが初めてだった。
「何って、生地を作って、ケーキを焼いてただけだよ」
「その工程に、抱きしめられる必要があったとは思えないが」
「それは、その……」
ふと、その時アクセルが言っていた言葉を思い出し、イルヴァの頬が真っ赤に染まる。
「イルヴァ?」
その顔色が変わったのを見て、ノアの表情が更に険しくなる。だが、イルヴァはそれどころではなかった。もがいてその腕から逃れようとするが、ノアはがっちりと抱き込んで離さない。
「ノア、離して」
「何があったか話すまで、絶対に逃がさない」
「……何にもないよ! ただ、アクセルが……そのノアと、どこまでいってるかって」
「どこまで?」
「何を言ってるのかわかんなかったけど、アクセルが腰を指差して、その……」
それ以上は言葉にできずに俯いたまま口籠もっていると、ふとノアの雰囲気が和らぐのがわかった。見上げると、その顔には苦笑が浮かんでいる。
「……ったく、あいつに嵌められたのか」
一つため息をついてから腕の力を緩めて、それから鎖骨のあたりにもう一度唇が寄せられる。
「痛っ……!」
先ほどアクセルにされたのよりも、さらに少し強い痛みを感じて声を上げると、面白がるような、それでも明らかに熱を宿す眼差しにぶつかった。
「隙だらけなのは、俺の前だけにしといてくれ」
「何それ?」
「まあ、あいつには世話になっちまってるからな」
懐いちまうのも仕方がないか、とぼそりと呟いてから、いやに不穏な笑みを浮かべる。
「あいつが言ってた、その先、教えてやろうか?」
いつになく妖しい光を浮かべる紫の瞳に魅入られそうになって、イルヴァは慌ててさわさわと腰のあたりで蠢く大きな手を振り払いながら、その腕から逃れようとする。
「い、いらない……!」
「遠慮すんなよ。何、ちょっと
「いらないってば!」
「いいや、お前には、ちゃんと教えとかないと不用心でしょうがねえ」
言いながらも強く甘い光を浮かべるその瞳に、例の如くに見惚れているうちに、軽々と抱き上げられたイルヴァには、選択も抵抗の余地もなかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます