11. Interlude 〜ドライフルーツのパウンドケーキ〜 #1

 とんとん、と軽いノックの音に顔を上げる。手元のパン生地はちょうどよく膨らんだところで、整形を始めた手は打ち粉で真っ白だ。袖で額の汗を拭って、それでも手を洗うのも面倒だったので、扉に向かって大きな声を上げる。


「開いてるから入ってこいよ」


 彼の言葉が終わるか終わらないかのうちに、扉が開いてもう見慣れたその姿が見えた。きょろきょろと部屋の中を物珍しそうに見回しながら、こちらに近づいてくる。

 淡い金の髪は、今日は高い位置で結えて三つ編みにしている。露わになっている首筋に明らかに赤い痕が見えるのはわざとだろうか。

「早いな、何かあったのか?」

「そういう……わけじゃないけど、パンがなくなっちゃったから、今なら焼き立てがあるんじゃないかって」

「それでお前さんがお使いに来たってわけか?」

 珍しいこともあるものだ、とアクセルは首を傾げる。それでなくとも先日ノアの家から攫われるという事件があったばかりだ。この街自体はそれほど治安が悪いわけではないが、イルヴァには一際甘いあの男が一人で使いに出すなどあまりありそうにないことに思えた。


 イルヴァは何かをためらうようにほんの少し口籠もり、それからまっすぐに彼を見つめる。それでもそわそわとその細く白い指先が胸の前で落ち着かなげに動いている。何やらいつもとは異なる雰囲気が感じられた。

「どうしたんだよ?」

「その……ノアに……」

「変なことでもされたか?」

「ち、違うよ! そうじゃなくて、今回また……迷惑かけちゃったから、何かその……」

「礼がしたい?」

 言い淀むイルヴァにそう助け舟を出してやると、頬を染めながらもこくりと素直に頷いた。どちらかといえば、へそ曲がりでへらず口ばかりだが、こうも素直な理由にも心当たりがあった。


 イルヴァが攫われた夜、ノアは随分手ひどく殴られていた。元々が頑丈な男だから大した怪我もなかったが、それでも一晩昏倒するほど殴られたのだから、ただごとではない。何となく嫌な予感がしてノアの家を訪れた彼が、まず目にしたのは縛り上げられたまま、凶悪な眼をしていたその姿だった。

 その後、元凶の部下と思われる男を見つけた時には、その怒りは頂点に達しており、幾度か目にしたことのあるその瞳の力をほとんど暴発させて、その男を殺しかけていた。使ができることを、本人もその時初めて知ったようだった。

 そのきっかけがイルヴァを奪われたことに対する怒りだったのは明白で、それほどまでに、彼のイルヴァへの想いは——ほとんど執着と言っていいほどに——強い。


 数日経ってイルヴァを連れて戻ってきた時にはその表情は元に戻っていたし、彼女に対する態度もあまり変わらなかったから、それほど大事にはならなかったらしいことだけは伝わってきたが、二人とも詳細を語ろうとはしないので、結局のところ事情は曖昧なままだ。

 それでもどうやらイルヴァの抱える感情おもいも変化し始めているらしいことだけは、傍から見ていても——こちらが胸焼けをするくらいに——明らかだ。もしかしたら、本人は気づいていないのかもしれないけれど。


「礼って言ってもなあ。お前が抱きついて接吻キスの一つでもしてやれば喜ぶんじゃねえの?」

 そう言ってみると、イルヴァの顔がわかりやすく赤くなる。つまりはそんなことは、もう実施済みだと知れてしまうくらいには。

「そ、そういうんじゃなくて……」

 しばらく口籠もっていたが、周囲を見回してふと何かに目を止める。視線の先にあったのは、乾燥果物ドライフルーツの山だった。

「随分たくさんあるね」

「ああ、ちょっと菓子でも作ってみようかと思ってな」

「お菓子? 乾燥果物ドライフルーツが入った?」

「ああ。ふんわり焼き上げる柔らかいケーキだな。ちょっと酒も入れて大人向けのやつ」

 そう言った途端、イルヴァが目を輝かせた。

「それ、私も作ってみたい!」

「は? お前が?」

「……その、ノアに……」

「あー」

 なるほどね、と頷いて、もう少し揶揄からかってやるべきかと少しだけ思案して、やめておくことにした。せっかく本人がやる気になっているのをあまり挫くのもよくなかろうと。それに、珍しくにこにこと笑っているイルヴァは、見ているだけでも素直に可愛いと思えたので。


「それじゃあ、まず牛酪バターをゆっくり混ぜていく」

「……こう?」

 もともとしばらくは独り暮らしをしていたらしいが、ほとんど料理らしい料理をしてこなかったと聞いていた本人の自己申告通り、食材を扱うその手つきはかなり危なっかしい。室温に戻した牛酪バターしか入っていないその器で混ぜるだけのはずなのに、中身が溢れそうになっている。

「そんなに力をこめてやるんじゃねえよ。もっと優しく、ゆっくりとな……」

 細く白い手は見た目は繊細なのに、動きは雑だ。だが、後ろから、その手を握ってゆっくりとかき回すように実演してやっているうちに、何とか様になってきた。

 牛酪バターが溶けたところで砂糖を入れてよく混ぜ、さらに溶いた卵を少しずつ入れていく。それから半量の粉を投入してさっくりと混ぜる。

「丁寧にな」

 すぐに器から溢れそうになるその手を押さえて、速度を落とさせる。普段はのんびりしているように見えるくせに、こうした作業がどうにもせっかちで雑なのは性格らしい。

「けっこう難しいんだね……」

 ため息をつきながら、見上げてくる顔はそれでもどこか楽しそうだ。頬にいつの間にか飛んでいた生地を拭ってやると、驚いたようにごしごしと自分の袖で頬を拭う。

「まだついてる?」

「いんや」


 もう一度、何となく興味を惹かれてその頬に触れると、滑らかで柔らかい。よくノアが愛おしげに撫でている理由がわかる気がした。何となくざわつく胸の感じを気づかなかったことにして、残りの半量の粉を加える。ようやくイルヴァの手つきもこぼさずに済む程度には落ち着いてきていた。


「これでいい?」

 綺麗に混ざった生地を、どこか誇らしげに見せてくるその顔に思わず苦笑が漏れる。まだ十七歳だったな、と思い出してその頭をぽんぽんと撫でてやる。

「よくできました。次は乾燥果物ドライフルーツだな」

 皿に積まれたものを目の前に置いてやると、その目が輝いている。そういえば、ノアもよくつまみ食いをされると言っていた。

「少し食ってみるか?」

「いいの?」

 頷いてやると、ぱあっと輝いた顔に、彼もつられて笑う。イルヴァは大きな黒い果実を取って口に入れると、さらにその顔が緩んだ。

「美味しい。けど食べたことない味」

「ああ、それは深紫李プルーンだな。それが気に入ったなら、こっちもちょっと食ってみるか?」

 棚から瓶を取り出し、中のものを小皿に取って差し出してやる。イルヴァは興味津々と言った顔で受け取ってまずは匂いを嗅いで、首を傾げた。

「葡萄酒?」

「正解。その果実を葡萄酒に一晩漬け込んだもんだ」

「へぇ……」

 つまんで口に入れると、少し驚いたように目を見開く。アクセルも一つつまんで自分の口に放り込むと芳醇な葡萄酒の香りと、果実の甘みが口の中に広がる。

「いい感じに漬かってんな」

「うん、美味しいね」

「少しこっちも刻んで入れるか。香りづけにもちょうどいいしな」

 包丁を取り出すと、その眉が顰められる。その手を取って、後ろからまた支えるように包丁を果物に滑らせる。

「何事も練習、な?」

「……わかってる」

 かなり危ない手つきだったが、不揃いながらも何とか細かく刻まれたそれを、生地に入れて他のものと一緒に混ぜ合わせる。そこまでできればほとんど完成だ。


 生地を型に流し込み、竃に入れる。精霊の炎のおかげで火の調整も焚きつけも必要ないのは、無精に思えなくもないが便利なこと極まりない。


 後片付けを終えて戻ってくると、イルヴァは竃の中をまた興味深そうに覗き込んでいた。だが、どうもその頬が火のせいばかりでなく赤い気がする。ふと見れば、葡萄酒漬けの瓶の中身が半分ほどなくなっている。

「……イルヴァ?」

 びくりとその肩が震える。振り返ったその冬の空のような薄青い瞳は、ほのかに潤んでいるように見えた。

「ご、ごめん。一個だけ、と思ったんだけど……ちょっと止まらなくて」

 小さな子供のように肩を縮める様子に、呆れるより先に笑みが漏れて肩をすくめる。

「次から金取るぞ」

「……高いの?」

 驚きに目を見開いたその顔に、冗談だ、とぽんぽんと頭を叩いてやる。実際のところ商売用の食材だから、無料ただというわけにもいかないが、こんなことで子供を叱っても仕方がない。

「今日は頑張ったからな。駄賃代わりだ」

「でも、このお金も払わないと」

「お前、金持ってんの?」

「……ない」

 だろうな、ともう一度ため息をついて肩をすくめる。ノアの家に住み始めて以来、何くれとなく世話を焼くあの男のおかげでイルヴァは何不自由なく暮らしているはずだ。かれこれ二月ほどになるだろうか。


 ふと、まじまじとその姿を見つめる。仄かに赤く染まった目元と頬は確かに幼さを残してはいるが、どちらかといえば、女性らしい体つきと相まって逆にどこか官能的だ。

「そういえば、今日は珍しい髪型してるな」

 高い位置で結えた先から三つ編みに編み込まれた淡い金の髪は、揺れて美しいが、この不器用な娘が自分でできるとも思えなかった。

「アクセルのところに一人で行くって言ったら、ノアがやってくれた」

「あー……」

 あの男の無骨な手で髪を編んでやっている様子を想像すると、もはやげんなりしてくるが、首筋にはっきりと見える所有印マーキングで、その意図を理解する。

「お前ら、どこまでいってんの?」

「どこまで……って何のこと?」

接吻キス……はもうしょっちゅうしてるよな……もうヤったのか?」

「や、やるって何を……」

 頬を染めながらも、首を傾げるその様子にもしや、と疑問が湧いてくる。以前住んでいた村でも孤立していたというイルヴァがその方面の知識が薄いのは、ありそうなことかもしれない。

 珍しく困ったように首を傾げるその顔に悪戯心が湧いてきて、その腰のあたりに指を突きつける。

「何って、お前のここに、あいつのナニをつっこむんだろ」

「つっこ……っ!」


 絶句したその顔が、あまりに可愛く見えて、思わずその腰を抱き寄せる。普段ならだいたい殴りつけられる状況だが、その言葉と葡萄酒漬けの果実で判断力が鈍っているのか、腕の中で硬直したまま、振り払う様子もない。

 触れる体は確かに女性のそれで、柔らかく胸に当たる感触もしっかりと質量がある。この様子では、ノアでさえもほとんど触れていないらしいその身体に彼の男の部分がほんのり反応する。


「興味があるなら、お兄さんが手取り足取り教えてやろうか?」


 耳元で低く囁くと、その体がびくりと震える。それでも振り払うでもなく戸惑うように見上げてくる眼差しに、酔っているわけでもないのに心臓がおかしな音を立てた。初心うぶな子供相手にやっていいことと悪いことがあるのはわかっていたが、何となく手がそのまま腰へと滑り下りていく。


 まずい、と頭のどこかで警鐘が鳴ったが、止まらない。


「アクセル?」

 見上げてくる眼差しが揺れているのが見えて、腰を引き寄せたまま、その頬に手を伸ばす。それでも抵抗がないのは、餌をやって馴れた野良猫の子が心を許すように、どうにも警戒心が薄れているからだろうか。

「そんなに隙だらけだと、あっという間に食われちまうぞ?」

「……その前に、その腕へし折ってやろうか?」

 しばらく美味いパンが食えないのは困りものだが、と地の底から響いてくるような声と、彼の頭をがっしり掴むその手に、どこかでほっとため息をつく。が、すぐに万力のようなその力に悲鳴を上げた。

「いててて……! まじで痛ぇって‼︎」

「ノア?」

「いつまでも帰ってこないと思ったら、何やってんだお前は」

 イルヴァの腕を引き寄せてその胸の中に収めながら、珍しくあからさまに不機嫌に言われたその声に、イルヴァがそれでもきょとんとした顔で首を傾げる。

「何……ってケーキを焼いてたんだよ」

「ケーキ?」

乾燥果物ドライフルーツの」

「お前が?」

「うん」

「どういう風の吹き回しだ?」

 心底不思議そうなノアの問いに、言葉を失ったイルヴァの頬が再び真っ赤に染まる。それですぐに気づいたのか、ノアはそれはそれは楽しげに無精髭だらけの頬をだらしなく緩ませる。

「俺のために、わざわざ一人でここにやってきて?」

 ニヤニヤと笑いながら言うその声に、あっという間に機嫌を損ねたらしいイルヴァがその胸を叩いて逃れようとしたが、ノアはここぞとばかりに離す気はないらしい。その頬を捉えてまっすぐに視線を合わせる。同時に、イルヴァが——いつも通り——その瞳に見惚れて動かなくなる。眩惑まどわされたわけではなく、ただ純粋に惹きつけられているように。


 放っておけばその場でいちゃつき始めかねない二人にうんざりして、奥へ引っ込もうとすると、ノアが珍しく声をかけてきた。

「アクセル」

「何だよ?」

「腹減ったから何か食わせろ」

「はぁ? 帰って食えよ」

「まだ焼けてないんだろ?」

 その視線が竃へと向いているのに気づいて、彼は深いため息をつく。

「……焼き上がるまで帰らないつもりか?」

「せっかくイルが俺のために焼いてくれたって言うからな」

 声は揶揄うようだが、その顔を見れば本気で喜んでいるのは明らかだ。腕の中でもがいているイルヴァはそのことに気づきもしていないようだが。

「……パンは出してやるから、台所キッチンでなんか酒の肴を作れ」

「了解」


 飲まずにやっていられるか、と言外の声が聞こえたのか、ノアはただニヤリと笑って頷いたのだった。

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